第55話:鳥取城の悲劇前夜
第55話:鳥取城の悲劇前夜
天正九年、春。山陽道において毛利本国が出兵の過拡張を抑え、戦線を備中国の足守川ラインへと縮小・再編しつつあった頃、山陰の日本海に面した因幡国において、新たな破滅の暗雲が立ち込め始めていた。
山陰の要衝・因幡鳥取城。久松山の険しい山肌にへばりつくように築かれたこの堅城は、かつて山名氏の居城であったが、前城主・山名豊国が羽柴秀吉の迫る威光に恐れをなし、家臣たちを置いて城を密かに脱出して織田方に寝返るという事件が起きていた。
残された鳥取城の国衆や城兵たちは激怒し、毛利家に助けを求めて頼み込んできたのである。
「どうか、我らを率いる気骨ある城主を安芸よりお遣わしいただきたい。毛利様のご恩に報い、織田の侵略を押し返してみせまする」
これに応じたのが、吉川元春の推薦を受けた石見吉川氏の当主・吉川経家であった。
経家は数えで三十八。武勇に優れ、誠実で義理堅い柄であり、毛利一族の中でも指折りの家格と人望を誇る武将であった。
安芸の吉田郡山城を出立する際、経家は自らの首桶を携え、遺言状にしたためていた。
『この度の鳥取行き、死地に入ること平然なり。毛利の武名を汚さず、城を墓場として討ち死にする覚悟にござる』
自らの運命を悟りきった男の覚悟は、まさに武士の鑑というべき高潔なものであった。
安芸を出立する前夜、恵瓊は吉川本陣の陣屋において、この吉川経家と密かに杯を汲み交わす機会を得ていた。
行灯の光に照らされた経家の面立ちは凛として美しく、その瞳には一切の迷いや恐れの色はなかった。
「安国寺殿、播磨や備前でのご苦労、重々聞き及んでおりまする。織田の侵食はすさまじいが、山陰のこの鳥取城でわしが踏み留まり、秀吉の進撃を足止めしてみせましょう。毛利の家のために、この命を惜しむつもりはございませぬ」
恵瓊は、経家の放つ眩しいばかりの忠義の光に胸を打たれながらも、その奥に潜む不吉な予感に身体の芯が冷えるのを禁じ得なかった。
「吉川殿……お覚悟、誠に見事でございます。されど、どうかお命を軽んじられますな。羽柴秀吉という男のやる戦は、従来の武士の戦とは根本から異なっておりまする。何卒、油断なさるな」
「案じられるな、安国寺殿。鳥取の城は久松山の天険に守られた不落の要害。兵糧も手配してあり、数年は籠城できよう」
経家は爽やかに笑い、恵瓊の手を固く握り返した。
しかし、この時の経家も、そして毛利本国の誰もが知らなかったのである。秀吉という怪物が、すでに鳥取城を外側から食い破る恐ろしい罠を仕掛け終えていたことを。
天正九年六月、吉川経家が鳥取城に着任した直後、羽柴秀吉率いる二万を超える織田軍が因幡へと怒濤の勢押し寄せてきた。
秀吉は鳥取城を包囲すると、三木城の時と同じく、周囲の山々に幾つもの付城を築き、厳重な包囲陣を作り上げた。
しかし、今回の秀吉の手口は、三木城の「干殺し」よりも遥かに異様で、冷酷極まりないものであった。
秀吉が着任に先立って行ったのは、前代未聞の『兵糧の買い占め』であった。
秀吉は密かに若狭や丹後、但馬、さらには因幡国内の商人たちへ莫大な資金をバラ撒き、鳥取城の周辺にある米や雑穀を、市場価格の二倍から三倍という桁外れの高値で買い漁らせたのである。
商人たちは眼の色を変えて米を集め、高値に目が眩んだ鳥取城周辺の百姓や地侍、果ては城内の兵糧方までもが、蓄えていた米を密かに商人たちへ売り払って銭に変えてしまっていたのだ。
さらに、秀吉は軍勢を動かして鳥取城下の村々に火を放ち、逃げ惑う無数の農民や女子供たちを、意図的に鳥取城内へと追い込ませた。
城内の食い扶持(口数)だけを数千人規模で膨れ上がらせた上で、一切の給糧を遮断したのである。
吉川経家が城に入った時、城内に残されていた米は、わずか二十日分に過ぎなかった。
「鳥取の飢殺し(かつのごろし)」と呼ばれた、人間の欲望と構造を逆手に取った悪魔の戦術が、完全に完成していたのである。
安楽寺にあって、山陰からの商人や密偵の報告を受けた恵瓊は、あまりの凄惨な仕掛けに血の気が引く思いであった。
三木城での包囲は、武力と土木による「物理的な遮断」であった。
しかし、この鳥取城での戦術は、人間の「得をしたい」という欲を利用して自ら米を売らせ、城内に不要な口数を押し込んで内側から自滅させるという、人の心を根本から破壊する計算づくの拷問であった。
織田信長や羽柴秀吉、そして黒田官兵衛らが構築したこの戦術の前には、吉川経家のような高潔な武士の「誇り」や「覚悟」など、何の意味もなさずに踏みにじられるだけであった。
「秀吉という男は……武力で人を殺すのではない。金と構造をもって、人の理性を狂わせ、互いを喰らい合わせるのだ……」
恵瓊は客殿の畳に額をこすりつけ、身震いした。
恵瓊は直ちに小早川隆景や吉川元春のもとへ文を送り、山陰への緊急の兵糧搬入と援軍の派遣を請うた。
吉川元春も激怒し、自ら兵を率いて但馬・伯耆の国境まで進出したが、秀吉方の強固な重層包囲陣と、川筋を押さえた織田水軍の前に阻まれ、鳥取城へ一粒の米すら届けることができなかった。
毛利の大軍を目前にしながら、鳥取城は完全なる死の箱として孤立したのである。
夏が過ぎ、秋を迎える頃、鳥取城内は人間の想像を絶する地獄へと化していった。
二十日分の米が尽きた後、城内では馬や犬、雑草の根が喰らい尽くされた。
九月に入る頃には、餓死者の数が毎日数百人に達し、生き残った者たちも痩せこけて幽霊のごとく城内を徘徊した。
やがて、極限の飢餓は人間の理性を完全に崩壊させた。
息絶えた城兵の屍肉を、生き残った者が刀で削ぎ落として貪り喰らい、親が子の肉を喰らい、子が親の肉を奪い合うという、この世のあらゆる道徳が吹き飛んだ惨状が繰り広げられたのである。
城外の秀吉軍の陣営からは、その地獄絵図を笑いながら高みの見物をする雑兵たちの歌声が響いていた。
吉川経家は、本丸の広間でその惨状を目の当たりにし、血の涙を流した。
自らの命を捨てて毛利の武名を立てようとした高潔な将は、己の目の前で家臣や民たちが狂気の中に人肉を貪り合う姿を見て、己の「武門の誇り」がいかに無力であったかを痛感させられたのである。
天正九年、十月二十五日。
二百日におよぶ地獄の末、吉川経家はついに秀吉に対して開城を申し出た。
経家の提示した条件は、かつての三木城の別所長治と同じく、ただ一つであった。
『城内に残された飢えた城兵と民の命を助けるならば、己一人腹を切る』
秀吉は経家の高潔さを称え、「経家殿は自刃するに及ばず、罪は山名旧臣たちに被せればよい」と助命を勧めた。
しかし、経家はそれをキッパリと拒絶した。
「我が命一つをもって、数千の生き残りの命が助かるならば、武士として本望なり。毛利の家に義理を立て、城主としての責任を果たす」
経家は、安芸の本国の家族へ向けて遺言状を書き、幼い子供たちへ三粒の小さな干し柿を添えて送った。
そして、見事な作法で本丸において腹を掻き切り、自ら首を差し出したのである。
享年、三十九。
城が開かれ、外へ引き出された城兵や民たちに対し、秀吉は粥を振る舞った。
しかし、長期間の飢餓で胃が小さくなっていた人々は、出された粥を貪り喰らったことで途中で胃が破裂し、数百人がその場で悶絶して死亡するという、最後の悲劇までが重なったのだった。
安楽寺の客殿で、吉川経家の自刃と鳥取城の惨劇の報せを聞いた恵瓊は、その場に棒立ちとなったまま、言葉を失っていた。
吉川経家の高潔な死。
それは武士として誠に見事なものであった。
されど、秀吉の構築した「狂気じみた合理性」の前には、その尊い死すらも、ただ計算通りに盤上の駒が取り除かれたに過ぎなかった。
鳥取城が落ちたことで、毛利の山陰防衛線は完全に崩壊し、織田軍の進撃の手は伯耆、そして備中国の足守川(高松城)へと一気に迫ることとなったのである。
恵瓊は静かに庭へ降り立ち、冷たい秋風の中で膝をついた。
山陰から吹き下ろす風には、あの鳥取城で散っていった数千の死者たちの悲鳴と、吉川経家の無念の吐息が混ざっているように感じられた。
恵瓊は数珠を強く握りしめ、涙を流しながら般若心経を唱えた。
「観自在菩薩……行深般若波羅蜜多時……度一切苦厄……」
救えなかった。
吉川経家の死を止めることも、鳥取城の地獄を防ぐこともできなかった。
前世の知識を捨て、泥にまみれて足掻いてきた己であったが、秀吉と官兵衛の繰り出す「構造の暴力」の前には、自らの手はいあまりにも小さく、無力であった。
されど――恵瓊は涙を拭い、血のにじむような思いで目を開いた。
山陰が崩れ、東の防波堤がすべて失われたいま、残されたのは備中国・高松城という最後のラインのみである。
そこで待っているのは、歴史の最大の激突であり、秀吉との直接の対峙である。
「どれほど巨大な暗雲が覆おうとも……私は逃げぬ。毛利の家を守り、これ以上無用な地獄を広げさせぬために、最後の最後までこの足で立ち続ける」
夕暮れの播磨の空に、冷たい秋雨がぽつりぽつりと降り始めていた。
絶望の淵に立ちながらも、外交僧・安国寺恵瓊の瞳には、消えぬ覚悟の火が静かに燃え上がっていた。




