表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/36

第4話:神童と異端

第4話:神童と異端


 天文十四年、秋。

 安国寺の書院には、夕暮れの静寂が満ちていた。障子越しに射し込む赤みを帯びた陽光が古びた柱を染め、庭先では鈴虫が涼やかな音色を重ねている。

 恵瓊は静かに経机へ向かっていた。

 数え年で七つ。幼い身体つきではあったが、その背筋は驚くほど真っすぐ伸び、僧衣をまとった姿には年齢以上の落ち着きがあった。

 机上に開かれているのは『論語』。

 「子曰く、学びて時にこれを習う。また説ばしからずや」

 幼い声が書院に響く。

 訓読は淀みなく、抑揚も自然であった。

 入口で立ち止まった住職は目を細める。

 「……そこまで読めるのか」

 恵瓊は静かに頭を下げた。

 「少しばかりにございます」

 「誰に教わった」

 「住職様がお読みになる声を聞き覚え、繰り返しておりました」

 半ば真実であり、半ば偽りだった。

 現代の知識があるとは口が裂けても言えない。歴史好きの会社員として身につけた漢文の基礎知識が、この時代の学びと結びつき、幼児離れした理解力を生んでいるだけだった。

 住職は恵瓊の隣へ腰を下ろす。

 「七つにして論語を読む者など見たことがない」

 静かな沈黙が落ちる。

 虫の音だけが響いていた。

 「恵瓊よ」

 「はい」

 「お前は、何者なのだ」

 三度目の問いだった。

 初めて会った夜にも聞かれた。

 飢饉の折にも聞かれた。

 そして今、再び。

 恵瓊は答えを持ちながら答えられない。

 「安国寺の僧にございます」

 「そういう意味ではない」

 住職はゆっくり首を振る。

 「お前の目は幼子のものではない。喜びも驚きも抑え、先のことばかり見ておる」

 図星だった。

 銀山城の落城も飢饉も知っていた。

 未来を知る者の視線は、どうしても今だけを見てはいられない。

 「人は申しておる」

 住職が低く言う。

 「仏の加護を受けた神童と」

 一拍置いて続けた。

 「あるいは鬼に魅入られた童と」

 恵瓊は眉一つ動かさない。

 予想していたことだった。

 常識を超えた者は、神か魔か、そのどちらかに分類される。

 平凡という居場所は与えられない。

 「住職様はどう思われます」

 「わからぬ」

 即答だった。

 「知恵であるか災いであるか、わしには判別できぬ。ただ一つ言えるのは、お前が並の童ではないということだけじゃ」

 その言葉を受け、恵瓊は静かに頭を下げた。

 「学びとうございます」

 「何のために」

 「未来のために」

 住職は少し驚いたように目を開く。

 「未来とは」

 「まだ申せませぬ」

 老人は苦笑した。

 「隠し事ばかり増える童じゃ」

 しかし責める様子はない。

 むしろ納得したように立ち上がると、蔵の鍵を差し出した。

 「書庫の閲覧を許す」

 恵瓊は思わず顔を上げた。

 「本当に」

 「ただし条件がある」

 「はい」

 「読んだものをわしへ話せ。そして学んだことを決して驕るな」

 「承知いたしました」

 その日を境に、恵瓊は蔵へ通う日々を送ることとなった。

 四書五経。

 史記。

 漢書。

 兵法書。

 仏典。

 灯火一本を頼りに紙を繰り続け、文字を追い、知識を吸収していく。

 現代知識という下地があるため理解は恐ろしく速い。

 住職が十年かけて学んだ内容を、恵瓊は数か月で呑み込んでしまう。

 だが、それを表に出すことはなかった。

 出せば異端と見なされる。

 幼いながら、その危険性だけは痛いほど理解していた。

 やがて寺内で噂が広がる。

 「あの子は一度読めば忘れぬらしい」

 「難しい経文も暗唱する」

 「鬼神の類ではないか」

 小僧たちは近寄らなくなった。

 廊下ですれ違えば小声で囁き合い、遊びにも誘わない。

 唯一変わらぬ態度を取ったのが弥助だった。

 「坊主!」

 ある日、蔵の外から大声が飛ぶ。

 「また本かよ!」

 「少し読んでおった」

 「いい加減外へ出ろよ。畑が待ってるぞ」

 恵瓊は笑みを浮かべる。

 「今年も里芋か」

 「当たり前だ。飢饉は終わったけど、腹は毎年減る」

 その言葉に恵瓊も頷いた。

 あの経験は寺の者を変えていた。

 寺の裏手には広い里芋畑が残され、保存食も蓄えられるようになっている。

 未来への備え。

 知識が初めて形になった成果だった。

 二人は並んで畑へ向かった。

 土を耕しながら弥助が笑う。

 「坊主は変だけどさ」

 「また変と言う」

 「変だろ。本ばっか読んで考え事して、たまに未来でも見てきたみたいな顔するし」

 思わず手が止まる。

 「そう見えるか」

 「うん。でも悪いやつじゃない」

 その一言に救われる思いがした。

 もし自分の秘密を知ったとしても、弥助なら笑って受け入れてくれるのかもしれない。

 もっとも、話すつもりはなかった。

 転生者などという話は信じられるものではない。

 信じられたとしても、良い結果にはならない。

 天文十五年。

 数え年八つ。

 恵瓊の評判は寺外へも広がり始めた。

 ある秋の日、毛利家に連なる小領主が安国寺を訪れる。

 茶を運ぶ恵瓊へ視線が向けられた。

 「この童が神童か」

 住職が静かに頷く。

 「まだ学びの途中でございます」

 「屋敷で学ばせぬか。京より儒者も招いておる」

 魅力的な誘いだった。

 より高い学問に触れられる。

 毛利家の事情も知れる。

 未来を変える布石になる可能性もある。

 しかし同時に危険でもあった。

 寺という庇護を離れれば、異能は利用されるか排斥されるかのどちらかだ。

 住職が視線だけで問う。

 どうする。

 恵瓊はごく小さく首を横へ振った。

 住職は察したように断る。

 「まだ寺で修行を積ませとうございます」

 客人は残念そうだったが、それ以上強くは求めなかった。

 帰路についた背中を見送りながら、恵瓊は胸を撫で下ろす。

 まだ時ではない。

 歴史へ関わるには幼すぎた。

 夜。

 住職は再び書院へ恵瓊を呼んだ。

 「なぜ断った」

 「まだ未熟です」

 「本当にそれだけか」

 「……目立ちとうありませぬ」

 初めて本音が漏れた。

 住職は静かに笑う。

 「やはりな」

 「知りすぎておる者は恐れられます」

 「その通りじゃ」

 老人は深く頷いた。

 「だが知識を隠し続ければ、それもまた宝の持ち腐れよ」

 「では、どうすれば」

 「使うべき時だけ使え」

 その一言が胸へ刻まれる。

 「普段は凡庸を装え。だが人を救える時は惜しむな。それが智慧というものじゃ」

 恵瓊は深く礼をした。

 「肝に銘じます」

 その夜更け。

 蔵で『史記』を開く。

 項羽、劉邦、韓信。

 英雄たちは皆、才ゆえに恐れられ、才ゆえに歴史を動かした。

 知識だけでは足りない。

 人心を読む術。

 力を隠す術。

 時機を待つ忍耐。

 そのすべてが必要なのだ。

 燭火が揺れる。

 闇の向こうに未来が浮かぶ。

 大内義隆の最期。

 陶晴賢の挙兵。

 そして毛利元就が中国地方の覇者へと駆け上がる激動の時代。

 その渦中に、自分は必ず立つ。

 しかし今はまだ、小さな一僧に過ぎない。

 学ぶべきことは山ほどあった。

 恵瓊はそっと本を閉じ、灯火を吹き消す。

 暗闇の中、冬の風だけが蔵の板戸を揺らしていた。

 知識は武器になる。

 だが振るう場所を誤れば、自らを傷つける刃にもなる。

 その夜、幼き僧は初めて悟る。

 神童として称えられることよりも、凡庸を装い必要な一手だけを打つ方が、はるかに難しいのだと。

 静寂の中、遠く安国寺の鐘が鳴った。

 その音は山々へ染み入り、闇へ溶けていく。

 恵瓊は胸の内で小さく誓った。

 ――学び続けよう。

 ――来るべき日のために。

 その決意だけは、幼い身であっても決して揺らぐことはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ