第3話:天文の飢饉
第3話:天文の飢饉
天文十一年、夏。
例年であれば青々と実るはずの田は、ひび割れた大地をさらしていた。山から吹き下ろす風は熱を帯び、安国寺の境内に植えられた松の葉先さえ力なく揺れている。
蝉だけが元気よく鳴いていた。
その喧騒の中で、安国寺恵瓊は静かに耳を澄ませていた。
聞こえるのは蝉時雨だけではない。村から運ばれてくる咳き込み、空腹を訴える幼子の泣き声、そして腹を鳴らす音。鼻をくすぐるのは乾いた土埃と、飢えに疲れた人々が発する汗の匂いだった。
――やはり来た。
前世の記憶にある「天文年間の飢饉」。正確な年までは曖昧だったが、この時代に必ず大きな飢えが訪れることだけは覚えていた。
数え年四つ。
身体は幼児でも、心だけは現代人のままだった。
縁側に腰掛けて空を見上げる。雲は薄く、夕立の気配もない。田畑を潤す雨はしばらく期待できそうになかった。
「恵瓊」
振り返ると、老住職がゆっくり歩いてくる。
「暑い夏じゃの」
「はい」
短く返事をする。
「住職様、蔵の米は、どれほど残っておりますか」
老僧は足を止めた。
「急にどうした」
「村の方々の顔色が悪うございます」
住職は遠くの山裾を見つめ、小さく息を吐いた。
「田は枯れ始めておる。だが、まだ飢饉と決まったわけではない」
「……なります」
幼い口で断言すると、自分でも言い過ぎたと感じて視線を伏せた。
「そう思います」
住職は黙った。
そして、いつものように恵瓊の目をじっと見つめた。
「お前は、また何か見えておるのだな」
返事はしなかった。
何を話しても信じられないだろうし、信じられても困る。
老住職は苦笑した。
「寺の米は檀家の命綱でもある。すべてを施せば寺そのものが立ちゆかぬ」
「わかっております」
理解はしている。
しかし納得はできない。
人は区別なく腹を空かせるのに、救う側には立場や決まりが存在する。
歴史の知識だけでは越えられない壁だった。
◇
その夜。
恵瓊は弥助を連れて寺の裏山へ向かった。
「坊主、本当にこんな時間に来るのかよ」
「静かに」
二人は月明かりを頼りに斜面を登る。
前世の記憶では、飢饉時には芋類が命を救う例が少なくない。米がなくとも地下で育つ作物は最後の砦になる。
山裾には村人が植えた里芋があった。
弥助が一本抜き取る。
「これだ」
恵瓊は小さな塊茎を手に取った。
決して万能ではない。
それでも、何もしないよりはましだ。
「寺の空き地へ植えます」
「怒られるぞ」
「怒られても植えます」
翌日から二人は毎日のように畑を耕した。
幼い手で土を掘り返し、水を運び、草を抜く。
何度も転び、泥だらけになった。
その様子を住職は遠くから見守っていたが、止めはしなかった。
ある夕方、老僧が静かに声を掛けた。
「恵瓊。その芋に何を見る」
「命です」
即答だった。
住職は目を閉じる。
「わしには草にしか見えぬ」
「数か月後には違って見えます」
老僧はそれ以上何も言わず立ち去った。
◇
秋になるころ、飢えは目に見える形で寺へ押し寄せた。
門前には物乞いが並び、痩せ細った老人が杖を頼りに歩き、母親は乳も出ない胸を赤子に含ませ続けていた。
庫裏では乳母が困り顔で言う。
「毎日十人、二十人と参ります。このままでは蔵も空になります」
住職は静かに数珠を繰っていた。
「わかっておる」
その横で恵瓊は考えていた。
米だけでは足りない。
だからこそ里芋を植えた。
やがて収穫の時が来た。
決して豊作ではない。
それでも予想以上に育った。
住職は畑を前に長く沈黙した末、小さく笑った。
「お前の勝ちじゃな」
「勝ち負けではありません」
「そうじゃな」
寺の大鍋に米と刻んだ里芋を入れ、水で大きく増やして炊き上げる。
粥は薄かった。
それでも温かかった。
門前には列ができた。
「ありがとうございます」
「助かります」
震える手で椀を受け取る人々を見ながら、恵瓊は一人ひとりに頭を下げた。
全部は救えない。
それでも、この一椀で今日を越えられる命がある。
その現実だけが彼を支えていた。
◇
ある日、一人の少年が蔵の前で倒れた。
寺に身を寄せる孤児だった。
年は七つほど。
痩せ細り、呼吸は弱い。
恵瓊は必死に水を飲ませようとしたが、喉は動かなかった。
「医者を」
「もう来ても間に合わぬ」
住職の声は静かだった。
「助かる者へ食を回す。それも慈悲じゃ」
「まだ息があります」
「ある。だが命は尽きようとしておる」
恵瓊は少年の手を握った。
骨ばかりで驚くほど軽い。
「名前は」
「預けられて間もない。誰もよく知らぬ」
歴史は飢饉で多くの死者が出たと教えてくれる。
だが、この少年の存在など書かれてはいない。
名も残らず、誰の記憶にも残らず、静かに消えていく命。
それが戦国の現実だった。
少年は薄く目を開いた。
恵瓊を見たようにも見えなかったようにも思えた。
やがて静かに息を引き取る。
境内では相変わらず蝉が鳴いていた。
恵瓊はそっと瞼を閉じさせ、小さな声で念仏を唱えた。
「南無阿弥陀仏」
それしかできなかった。
◇
夜。
弥助が隣に座った。
「坊主、元気ねえな」
「救えませんでした」
「でも、あの粥で助かった人はいっぱいいる」
「それでもです」
弥助は少し考えてから空を見上げた。
「坊主は何でも知ってるみたいな顔をする。でも神様じゃねえ」
その言葉は幼い恵瓊の胸に深く刺さった。
そうだ。
知識は万能ではない。
未来を知っていても、目の前のすべての命を救えるわけではない。
歴史とは巨大な川だ。
小石を投げ込めば波紋は広がる。
しかし川そのものを止めることは難しい。
だからといって、小石を投げる意味が消えるわけでもない。
「弥助」
「なんだ」
「明日も畑へ行きます」
「まだ植えるのか」
「来年の飢えに備えます」
「しょうがねえなあ」
弥助は笑った。
「付き合ってやるよ」
◇
飢饉は数年続いた。
恵瓊は成長するにつれ畑を広げ、寺の空き地という空き地に芋を植えた。
寺子たちも手伝い始め、村人の中にも真似をする者が現れた。
収穫は決して十分ではない。
それでも前年より多くの人が冬を越えられた。
住職はある日、仏前で静かに語った。
「人は仏の奇跡を求める。しかし実際に命を救うのは、一握りの種や一鍬の土であることも多い」
恵瓊は黙って頷いた。
飢饉がようやく収束したころ、里芋畑には白い花が咲いた。
風に揺れるその姿は、失われた命への手向けのようにも見える。
弥助がぽつりと言った。
「終わったな」
「終わりました」
「坊主、本当に不思議なやつだ」
恵瓊は微笑んだ。
「私は何も知らぬ顔をして生きねばなりません」
「また難しいこと言ってる」
「知っていることが多すぎると、人は人として生きにくくなります」
弥助は意味が分からず笑った。
その笑顔を見て、恵瓊も少しだけ肩の力を抜いた。
飢饉で多くが死んだ。
それは変えられなかった。
だが同時に、多くが生き延びた。
それもまた事実だった。
未来を知るだけでは意味がない。
その知識を、目の前の一椀の粥や一本の里芋へ変えて初めて、人は歴史に抗うことができる。
安国寺の鐘が夕暮れに鳴り響く。
恵瓊は静かに手を合わせた。
――すべては救えない。
それでも救える命がある限り、自分は動く。
幼い胸に宿ったその誓いは、後に乱世を渡る外交僧・安国寺恵瓊の礎となっていくのだった。




