第2話:銀山城の落城
第2話:銀山城の落城
天文十年、春。
安国寺の庭では山桜が咲き始めていた。朝露を含んだ薄桃色の花弁が、まだ冷たい山風に揺れ、ひらひらと石畳へ舞い落ちる。その様子を、幼い一人の童が縁側からじっと見つめていた。
数え年で三歳。
寺の者たちはまだ名を定めず、「坊主」とだけ呼んでいた。しかし、その小さな身体の内には、齢に似つかわしくない成熟した意識が息づいていた。
――今年だ。
胸の奥で、確信だけが静かに形を成していた。
安芸武田氏は滅ぶ。
銀山城が落ちる。
いつ、どの日に城が陥落するのかまでは思い出せない。頭に残る知識は、歴史好きとして蓄えた大きな流れだけだ。年月は覚えていても、日付までは霞がかかったように曖昧である。
それでも、この春に安芸武田氏が歴史から姿を消すことだけは疑いようがなかった。
小さな指先で床板をなぞる。
伝えたい。
だが、どう伝えればよいのか。
赤子ではなくなったとはいえ、幼児の舌は思うように動かず、長い理屈など到底口にできない。
「坊主、また考え事か」
後ろから声がした。
振り向くと、五つほど年上の童・弥助が立っていた。近在の百姓の次男で、寺に預けられて学び始めたばかりである。
弥助は遠慮なく頭を小突いた。
「痛くはないが、何をそんなに難しい顔してるんだ」
恵瓊は黙って見返した。
その目つきに、弥助は少しだけ気圧されたようだった。
「……変なやつ」
やがて肩をすくめる。
恵瓊はゆっくり口を開いた。
「武田様……滅ぶ」
たどたどしい発音だった。
弥助は目を丸くする。
「安芸武田様が? そんな馬鹿な。あんな立派なお殿様が負けるものか」
「滅ぶ」
「何で分かる」
その問いに答えられない。
知っているから、としか言いようがない。
未来を知っているなど口にすれば、幼児の妄言として笑われるか、化生の類と恐れられるだけだ。
弥助は不満そうに鼻を鳴らし、庭へ飛び降りて駆け去っていった。
残された恵瓊は、散る花びらを見送りながら小さく息をつく。
知識はあっても、力がない。
その現実だけは、転生した日から変わらなかった。
◇
「坊主」
静かな声が響いた。
住職だった。
老僧はゆっくりと隣へ腰を下ろし、しばらく桜を眺めてから口を開いた。
「先ほど、弥助に武田が滅ぶと言ったそうだな」
「……はい」
「なぜそう思う」
返事に窮した。
嘘をつくことはできても、真実を語ることもできない。
老僧は沈黙を責めなかった。
「お前は、生まれた時から妙であった」
皺の刻まれた横顔が花びら越しに霞む。
「泣き叫ぶことも少なく、人を見る目だけが老成しておった。あの夜、お前の瞳を見て寒気がしたのを今も覚えておる」
その言葉に恵瓊は何も返さない。
「わしは僧じゃ。奇怪な話も数多く聞いてきた。しかし、お前ほど不思議な子は初めて見る」
住職は立ち上がり、去り際にだけ静かに付け加えた。
「知っていることがあるなら、それはいずれお前自身を苦しめるぞ」
その背を見送りながら、恵瓊は胸中で苦笑した。
もう苦しい。
三歳にして、既に知識は重荷になっていた。
◇
それから幾日も経たぬうちに、寺へ早馬が駆け込んできた。
息を切らせた使者が本堂で叫ぶ。
「銀山城、落つ!」
境内がざわめいた。
安芸武田氏滅亡。
毛利元就が安芸をほぼ掌中に収めたのである。
僧や小僧たちは顔を見合わせ、不安そうに囁き合う。
「では、これからは毛利殿の世になるのか」
「寺領はどうなる」
「戦になるのか」
誰も先を知らない。
ただ一人、恵瓊だけが、その報せを聞く前から知っていた。
弥助が駆け寄ってくる。
「坊主! 本当だった!」
息を弾ませた顔には驚愕と恐怖が入り混じっていた。
「お前、本当に知ってたんだな!」
「……うん」
「どうして?」
答えはない。
「夢で見たのか?」
違う。
「仏様が教えたのか?」
違う。
「じゃあ何だよ!」
幼い恵瓊は視線を落とした。
「知って、いた」
それ以上は言葉にならなかった。
弥助は後ずさる。
「怖えよ……お前」
そのまま逃げるように去っていった。
桜吹雪だけが二人の間を埋めるように舞い落ちる。
恵瓊は一人残され、静かに空を見上げた。
変えられなかった。
いや、変える以前に、何もできなかった。
山城一つの運命すら、この小さな手では動かせない。
◇
夕刻。
本堂へ呼ばれると、住職が正座して待っていた。
「坊主。今日より正式に寺籍へ入れる」
幼い恵瓊は黙って前へ進む。
香が焚かれ、静かな読経が流れていた。
「人は名を得て、初めて歩むべき道を持つ」
住職は穏やかに告げる。
「お前にも名を授けよう」
僅かな沈黙。
「恵瓊」
その二文字が、本堂の静寂に落ちた。
「今日より、お前は安国寺恵瓊じゃ」
幼子は小さく頭を下げた。
「……はい」
それが、この時代で初めて自らの運命を受け入れた返事だった。
住職はその頭に手を置く。
「知る者には、知る者の苦しみがある。されど僧は、多くを語るより沈黙を学ぶものじゃ」
その温かな掌に触れながら、恵瓊は胸中で別のことを考えていた。
安芸武田氏は滅んだ。
歴史は寸分違わず流れ始めている。
ならば次は――。
脳裏に乾ききった田畑が浮かぶ。
ひび割れた土。
痩せ細る人々。
寺の蔵に積まれた僅かな米俵。
そして、飢えに倒れる名も知らぬ子供たち。
天文年間の飢饉。
正確な年は曖昧でも、それが近づいていることだけは確信していた。
今度こそ何かできないだろうか。
村人へ備蓄を勧めるか。
寺に蓄えを増やしてもらうか。
だが、三歳の幼子の言葉を誰が真剣に聞くだろう。
未来を知っていても、それを証明する術はない。
恵瓊は仏前に額をつけた。
読経が終わるころ、外では夕風が桜を散らしていた。
花は落ちても、木そのものは生き続ける。
人もまた同じなのだろうか。
歴史という大樹は揺らぐことなく、その枝先にいる人々だけが入れ替わっていく。
ならば自分は、その枝の一本でも救えるだろうか。
あるいは、何も変えられぬまま流されるだけなのか。
本堂の薄闇の中で、小さな拳がそっと握られた。
――次に来る飢饉だけは、見過ごしたくない。
その決意は、まだ誰にも知られない。
しかし運命は静かに近づいていた。
安国寺の蔵に眠る僅かな米俵が、多くの命を分ける日が来ることを、幼い恵瓊だけが知っていたのである。




