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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第5話:元就の名

第5話:元就の名


 天文十七年、晩秋。

 朝霧の残る安国寺では、色づいた楓が静かな風に揺れていた。境内を掃く竹箒の音だけが響き、山寺らしい穏やかな空気が流れている。

 その静寂の中、蔵の一角だけは別世界だった。

 薄暗い書庫で燭火が揺れ、古びた巻物や冊子の背表紙に橙色の光を投げかけている。

 恵瓊は膝を正し、一冊の書を開いていた。

 数え年十つ。

 まだ幼い身体でありながら、その姿勢には年齢に似合わぬ落ち着きがあった。

 目の前にあるのは『史記』。

 しかし文字を追う視線とは裏腹に、意識は別の人物へ向いていた。

 ――毛利元就。

 未来を知る者として、その名だけは胸に深く刻まれている。

 まだ一地方豪族に過ぎぬ男。

 だが数年後には安芸をまとめ上げ、さらに厳島で大軍を打ち破り、中国地方に覇を唱える。

 歴史は、その男を中心に大きく動き始める。

 「坊主!」

 蔵の戸が勢いよく開いた。

 現れたのは弥助だった。

 背丈はすっかり恵瓊を追い越し、日に焼けた腕には土が付いている。

 「また本かよ。外は紅葉がきれいだぞ」

 「あとで見る」

 「あとで、あとでって、お前は昔からそればっかりだ」

 弥助は呆れたように笑う。

 「それより聞いたか? 毛利様の噂」

 その一言に、恵瓊の指先が止まった。

 「どのような噂だ」

 「安芸武田が滅んでから勢いが止まらねえんだと。小領主どもが次々に頭を下げてるらしい。戦より話し合いで勝つことも多いってさ」

 恵瓊は静かに本を閉じた。

 予想どおりだった。

 歴史は寸分違わず流れ始めている。

 「坊主は知ってるか?」

 「名くらいは」

 「すげえ策士らしいぜ。戦う前に勝っちまうとか何とか」

 「賢い方なのだろう」

 短く返しただけだったが、胸の内では別の思考が渦巻いていた。

 元就は賢いなどという言葉では足りない。

 忍耐、謀略、外交、情報戦。

 どれを取っても一級であり、その慎重さこそが最大の武器だ。

 だからこそ恐ろしい。

 もし自分の存在が目に留まれば、利用されるか、あるいは警戒される。

 今の恵瓊には、そのどちらも望ましくなかった。

 弥助は畑へ戻っていった。

 静寂が戻る。

 恵瓊は窓から山を見た。

 紅葉の向こうに見える空は高く、どこまでも澄んでいる。

 「まだ早い」

 その言葉だけが口から漏れた。

 ◇

 数日後。

 安国寺に武者姿の一団が訪れた。

 先頭に立つ男は三十代ほど。

 質素ながら良い具足を身につけ、歩みに無駄がない。

 住職は丁重に迎え入れた。

 恵瓊は茶を運ぶ役目として席の末に控える。

 「毛利家より参った」

 男は名乗り、寺領や檀家について確認を始めた。

 安芸武田の滅亡後、各寺院との関係を整えるための使者らしい。

 会話は穏やかだったが、その眼だけは鋭かった。

 やがて男は恵瓊へ視線を向ける。

 「この童が噂の恵瓊か」

 「左様にございます」

 「十にして経を読み、史書を解すると聞く」

 恵瓊は頭を下げた。

 「過分なお言葉にございます」

 「謙遜も知るか」

 使者は笑った。

 だが笑顔の裏で、人を見る目は獲物を量る鷹のようだった。

 「一つ試そう」

 突然、『論語』の一句を口にする。

 「徳孤ならず、必ず隣あり。続きは」

 恵瓊は迷わず答えた。

 「徳は孤ならず、必ず隣有り。善を修める者には、自然と志を同じくする者が集まるという意味にございます」

 部屋が静まり返った。

 使者は目を細める。

 「ただ暗唱しただけではないな」

 「学ぶ者として、意味を考えました」

 「なるほど」

 その返答に、住職はわずかに肩の力を抜いた。

 余計な知識を披露せず、しかし愚鈍にも見せない。

 絶妙な線だった。

 やがて使者は言った。

 「毛利家で学ばせる気はないか」

 部屋の空気が止まる。

 住職は恵瓊を見た。

 恵瓊は誰にも悟られぬほど小さく首を横へ振った。

 「まだ寺で修行を積ませとうございます」

 住職は静かに断る。

 「惜しい」

 使者はそれ以上は踏み込まなかった。

 「いずれ縁があれば、その時に」

 去り際、使者はもう一度だけ恵瓊を見た。

 「学ぶだけでは足りぬ。知は使ってこそ価値がある」

 その言葉は不思議と胸に残った。

 ◇

 客人が帰ると、住職は恵瓊を書院へ呼んだ。

 「断ってよかったのか」

 「はい」

 「理由は」

 恵瓊は少し考えてから答えた。

 「まだ未熟にございます」

 「学問のことではあるまい」

 「……人のことです」

 住職は静かに頷いた。

 「お前は人を恐れておる」

 「恐れております」

 「なぜだ」

 「知識は時に人を救います。しかし時に、人を遠ざけます」

 飢饉の年を思い出す。

 里芋を植え、多くを救えた。

 だが全員ではなかった。

 知っていても救えない命がある。

 その無力さは今も胸に残っている。

 「今の恵瓊が未来を語れば、人は神童とは思いますまい」

 「では何と思う」

 「妖しき者、と」

 住職は苦く笑った。

 「その通りじゃ」

 そして続けた。

 「じゃが、隠し続けるだけでもいかぬ」

 「承知しております」

 「剣も抜かねば錆びる。知識も同じじゃ」

 恵瓊は深く頭を下げた。

 「使うべき時を見誤らぬよう努めます」

 ◇

 冬が近づく頃。

 弥助とともに里芋畑を歩いた。

 収穫を終えた土は静かで、数年前の飢饉が嘘のようだった。

 「坊主」

 「何だ」

 「毛利様って、本当に天下を取るような人なのかな」

 突然の問いだった。

 恵瓊は空を見上げた。

 冷たい風が吹き抜ける。

 「どうしてそう思う」

 「なんとなくだよ。噂を聞いてると、普通の武将じゃねえ気がする」

 「人は勢いだけでは測れぬ」

 「じゃあ何だ」

 「待てる者が強い」

 弥助は首をかしげた。

 「待つ?」

 「ああ」

 「戦なんだから早い方がいいだろ」

 「時を待ち、人を待ち、機を待つ。その我慢が最後に勝敗を分ける」

 それは歴史を知る者だからこそ言える言葉だった。

 元就は焦らない。

 だから生き残る。

 弥助は腕を組んで笑った。

 「相変わらず坊主の言うことは難しい」

 「難しいくらいが、ちょうどいい」

 「違いねえ」

 二人は並んで笑った。

 ◇

 夜。

 恵瓊は再び蔵へ戻る。

 『史記』を開き、『孫子』にも目を通し、『六韜』を読み返す。

 兵法書を読むたび、自分の知識が未来へ繋がっていることを実感する。

 だが同時に思う。

 歴史を知るだけでは勝てない。

 人の心は書物どおりには動かず、偶然も災厄も戦乱も、必ず予想を裏切る。

 飢饉で学んだ。

 知っているだけでは足りない。

 救える命もあれば、どうしても届かぬ命もある。

 だからこそ、自分は学び続けねばならない。

 知識を知恵へ変え、知恵を行動へ変えられる日まで。

 燭火が揺れる。

 紙の上に落ちる影は、幼い僧の姿を大きく映し出していた。

 恵瓊は静かに目を閉じる。

 脳裏には一人の武将の顔が浮かぶ。

 まだ会ったこともない男。

 だが確実に未来を動かす男。

 毛利元就。

 その名は、いずれ天下に轟く。

 そして、その傍らには外交僧として名を残す自分が立つことになるのか、それとも歴史は別の道を選ぶのか。

 まだ分からない。

 分かるのは一つだけだった。

 今は耐え、学び、力を蓄える時。

 時流に逆らって無闇に動けば、小石は濁流に呑まれて消える。

 だが、しかるべき場所に置かれた石は、水の流れを静かに変えることができる。

 「その日まで」

 恵瓊は小さく呟いた。

 「口は閉ざし、目を開き、耳を澄ませよう」

 燭火を吹き消す。

 闇が蔵を包み込む。

 静寂の中で、幼き僧は誰にも告げぬ決意を胸へ刻んだ。

 未来を知る者ではなく、未来を見届ける者として。

 やがて訪れる激動の日々に備えながら。

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