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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第37話:届いた書

第37話:届いた書


 その日、井上春忠の屋敷には、朝から冷たい風が吹き込んでいた。庭の柿の木は、すでにほとんどの葉を落とし、裸の枝だけが灰色の空を突いている。時折、乾いた葉が一枚、二枚と地に舞い落ち、そのたびに小さな音を立てた。今年の冬は、例年よりいくらか早く訪れるらしい。安芸国は、まだ大きな戦の気配こそないものの、東の織田、西の大友、いずれの動静も油断のならぬ時勢である。毛利の家中にあっても、若き輝元様を支え、先代よりの重臣たちが日々、諸方への目配りを怠らずにいた。春忠もまた、その一人であった。


 春忠は縁側に座り、鎧の手入れをしていた。研ぎ布を動かす手は無骨だが、その動きには長年の勤めゆえの正確さがあり、幾度となく繰り返してきた所作であることが、指先の運びからも見て取れた。戦のない日々にも、武具の手入れだけは怠らぬ。それが、乱世を生き延びてきた武人の習い性というものだった。


 そこへ、下男が慌ただしく駆けてきた。

「殿。安国寺様の使いの者が、これを」

 差し出されたのは、一通の結び文である。表には春忠の名だけが記され、他には何も書かれていない。差出人の名すら、どこにも見当たらなかった。春忠は研ぎ布を置き、それを受け取った。掌に載せただけで、その紙の厚みが、いつもの書状とは違うことが分かった。

「使いの者は」

「すでにお帰りになりました。誰にも見せず、直に手渡すようにとのことで」


 春忠は眉を寄せた。恵瓊が、そこまで念を入れて寄越す文など、これまでになかった。日頃の恵瓊であれば、使いの小僧に軽口の一つも持たせて寄越すところだ。それが今日に限って、これほどまでに人目を憚る様子である。胸の内に、小さな緊張が兆した。あの夜、あの男に投げかけた問いのことが、否応なく思い出される。お前は何者だ——答えのないまま終わったあの夜の続きが、あるいはこの一通の紙の中にあるのかもしれない。そう思うと、指先が、わずかに冷たくなった。


 春忠は文を懐に収め、屋敷の奥、誰の目も届かぬ小部屋へと移った。障子を閉じ、灯りを引き寄せる。結びを解き、紙を広げると、見慣れた恵瓊の筆跡が目に入った。丁寧で、外交僧としての落ち着きを湛えた文字である。だが、綴られている中身は、これまで受け取ってきたどの書状とも、明らかに趣を異にしていた。


「織田殿の御威光、今や雲の上のことにて、天下に燿くこと、日に増して候。然れども、樹高き者は風に折られやすし。信長殿の権威、遠からず衰えるべき勢いと、所察申し候」


 春忠は、そこで一度、目を上げた。信長の権威が、いずれ衰える。それだけならば、まだ分かる。乱世の武人であれば、誰しもが胸のどこかで抱く思案だ。天下を睥睨する者とて、いつかは風雪に晒される。それは兵法にも通じる理屈であり、恵瓊ほどの者が書いたとて、驚くには当たらない。だが、続く一文に目を落とした時、春忠の指先が、紙の縁をわずかに強く握った。


「木下藤吉郎という男、いずれ大いに世に出るやもしれずと、重ねて所察申し候。今はいまだ人の下風に立つ身なれど、いずれ人の上に立つべき器と、愚僧には見え申し候」


 人の下風に立つ身なれど、人の上に立つべき器——その一文に至っては、もはや占いや推量の域を超えている。春忠は、そう感じずにはいられなかった。重ねて、という一言にも、春忠の目が止まった。以前にも、同じことを言われた覚えがある。輝元様の御前で、恵瓊があの名を口にした時のことだ。あの時は、輝元様がお笑いになり、恵瓊自身も戯言と申し開きをして、それで座は収まったはずだった。だが、今こうして、あらためて文に記されているということは、あれは戯言ではなかったということになる。戯言ならば、わざわざ人目を避け、結び文にしてまで伝える理由がない。


 木下藤吉郎……先般、織田の取次として毛利へ使者を寄越したあの男か。尾張の生まれで、織田家中にあっては、信長の便利な手足として使われているに過ぎぬ者だ。出自も定かならず、家柄と呼べるほどのものもない、ただの成り上がりだ。そのような者の名を、なにゆえ恵瓊ほどの僧が、二度までも、しかもこれほど確信めいた筆致で口にするのか。武功の誉れ高い将でもなければ、名門の出でもない。それにもかかわらず、恵瓊の筆は、あたかもその男の行く末が、すでに定まっているかのように綴っている。春忠には、そのことが何よりも不可解であり、また、何よりも薄気味悪く感じられた。もし恵瓊の言う通りになるならば、いずれこの乱世の形そのものが、大きく変わることになろう。そこまで考えて、春忠は自らの思案の飛躍に、かえって苦笑せざるを得なかった。されど、この文を前にしては、その苦笑も、長くは続かなかった。


 春忠は文を持つ手を、しばらく下ろせずにいた。恵瓊殿——あの夜、書斎で交わした問答が、耳の奥で蘇る。


 あの夜、春忠は恵瓊にこう問うたのだった。

「恵瓊殿は、まこと先のことをご存知なのか」

 恵瓊は、しばし瞑目したのち、静かに答えた。

「予言者ならば変えられましょう。されど我には変えられませぬ」

 あの言葉は、拒みでもなく、認めでもない、宙ぶらりんの答えだった。春忠は、その意味を幾度となく反芻してきたが、いまだに腑に落ちる答えを見出せずにいる。だが、この文はどうだ。曖昧な言い回しに包まれてはいるものの、これは先を見通す者の言葉としか、春忠には思えなかった。断じてそうだと言い切るだけの証はない。ないが、そう読まぬわけにはいかぬ何かが、確かにそこにあった。


「殿」

 下男の声が、廊下の向こうから聞こえた。

「いかがなされましたか」

「——何でもない。下がっておれ」


 春忠は文を懐にしまい、しばらくの間、じっと動かなかった。鎧の手入れは、途中で放り出したままだった。研ぎ布は、縁側に落ちたきり、風に吹かれてわずかに動いている。庭の柿の木の梢が、時折、乾いた音を立てて揺れた。その音すら、今の春忠には、どこか不穏なものに聞こえた。


 あの男の言うことが、もし本当だとしたら。もし木下藤吉郎という男が、いずれ本当に大きくなるのだとしたら。それを知っている者が、他ならぬ毛利家の外交僧だとしたら。これは、単なる噂話や占いの類とは、根本から違う話になる。噂ならば、当たっても外れても、後で笑って済ませられよう。だが、これは違う。まるで、すでに起きたことを語るような、静かな確信の重みがあった。春忠は、自らの膝の上で、拳を固く握った。


 武人として、春忠は迷信深い方ではない。占いや卜占の類は、戦場での縁起担ぎ程度にしか信じていない。神仏に手を合わせることはあっても、それで戦の行く末が変わるとは思っていない男である。だが、恵瓊という男の物言いには、そうした占い師の口ぶりとは、明らかに異なる何かがあった。断定を避け、慎重に言葉を選び、それでいて、揺るがぬ確信だけは滲ませている。あの目が、春忠の脳裏に焼きついていた。予言者ならば変えられましょう、されど我には変えられませぬ——あの答え方は、噓をつく者の目ではなかった。かといって、真実をすべて語る者の目でもなかった。その狭間に、恵瓊という男は、ずっと立ち続けているように見えた。


 いっそ、このことを誰かに打ち明けようかとも思った。老臣の志道のもとへ持参し、共に思案を仰ぐという道もある。志道ならば、若い頃より幾多の謀略を見てきた男だ、この文の値打ちを、正しく計ってくれるやもしれぬ。だが、それもまた躊躇われた。文の中身を明かせば、恵瓊の身の上にどのような詮議が及ぶか知れぬ。ただの噂話ではない。異国の呪術めいた話として、あらぬ疑いをかけられることさえあり得よう。まだ何も確かめておらぬうちから、事を大きくするわけにはいかぬ。春忠は、その思いを胸の内だけに留め置くことに決めた。少なくとも、明日、自らの目で恵瓊の様子を確かめるまでは。


 春忠は文を、もう一度懐から取り出した。読み返す。何度読んでも、内容は変わらない。木下藤吉郎、いずれ大いに世に出る。信長の権威、遠からず衰えるべき勢い。これらの言葉が、もし当たったとしたら——いや、当たらずとも構わない。問題は、恵瓊がこれを、どこから得た確信として書いているのか、ということだった。占いでもなく、噂話でもなく、まるで見てきたことを記すかのような筆致。それが、春忠の胸に、拭いがたい重石となって沈んでいた。


 春忠は立ち上がり、庭に出た。冷たい風が、頬を打つ。裸の柿の木の枝の向こうに、灰色の空が広がっている。あの男を、これ以上放っておいてよいものか。分からぬが、今は疑わぬ——あの夜、自分自身が口にした言葉が、今になって重く胸にのしかかってきた。疑わぬと言った以上、この文を理由に、あの男を問い詰めることは、筋が通らない。だが、疑わぬということと、見過ごすということとは、また別の話だった。情と、家臣としての務め。その両方を、これ以上曖昧なままにはしておけぬと、春忠は思った。


 春忠は、しばらくその場に立ち尽くしていた。やがて、決めた。明日、安国寺へ行く。今度は、夜中にひそかに訪ねるのではなく、日の高いうちに、堂々と行く。恵瓊がどう出るか、それを確かめねばならぬ。文を懐にしまい直しながら、春忠は自らの心の中に、ある種の覚悟が芽生えつつあるのを感じていた。


 屋敷の中から、下男が再び顔を出した。

「殿。夕餉の支度が整いましてございます」

「——分かった。すぐに行く」


 春忠は空を見上げた。日はすでに西へ傾き、雲の合間から、弱い光が漏れている。冬はもう、目の前まで来ていた。夕餉の膳に向かってからも、春忠の箸はなかなか進まなかった。妻が、いかがなされましたかと問うても、何でもないと答えるほかなかった。頭の中では、恵瓊の筆跡と、あの夜の目の色とが、幾度も繰り返し去来していた。


 膳を下げさせたあとも、春忠は行灯の灯りの下で、しばらく座したままでいた。屋敷は静まり返り、遠くで犬の吠える声がひとつ聞こえたきり、あとは風の音だけが庭を渡っていく。春忠は、懐に手をやった。文はそこにある。触れずとも、その重みだけが、はっきりと感じられた。


 夜が更けても、春忠はなかなか寝つけなかった。目を閉じれば、あの夜の恵瓊の顔が浮かぶ。柔和な僧の顔でありながら、その奥に、何か途方もないものを抱え込んでいるような、そんな面差しだった。木下藤吉郎という、いまだ成り上がりの取次役に過ぎない男の名を、これほどまでに重く扱う理由が、僧としての恵瓊にあるのか、それとも別の何かがあるのか。春忠には、まだそれを判ずるだけの材料がなかった。


 明日、安国寺を訪ねたならば、まず何を問うべきか。この文をどこまで直に突き付けるべきか。あまりに性急に迫れば、恵瓊はまた、あの宙ぶらりんの答えの奥へと身を隠してしまうだろう。かといって、遠回しに探るだけでは、何も引き出せぬまま帰ることになりかねぬ。春忠は、闇の中で幾度も、明日の言葉を選び直した。だが、明日にはそれを確かめに行く。そう思い定めることで、ようやく張り詰めていた肩の力が、わずかに緩んだ。


 春忠はそう胸に納めると、静かに灯を落とした。懐の文は、行きよりも重く感じられた。

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