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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第36話:送る前夜

第36話:送る前夜


 天正元年、秋の終わり。霜の朝。

 恵瓊は目覚めると、まず懐を確かめた。封じた書状がある。昨夜のことは夢ではない。

——今日、決めねばならぬ。

 朝の勤行を済ませ、粥を啜っていると、小僧が駆け込んできた。

「住職様。輝元様からの御文が——」

 恵瓊は匙を置いた。

「承知した」

 御文を受け取り、書斎に向かった。輝元様の御文は、播磨方面の情勢を問うものだった。信長の動きが西に向かっている。毛利氏としては当然の警戒だ。

 文末に一行添えられていた。

「山陰に、尼子旧臣どもの噂あり。所察あらば申せ」

 恵瓊は眉を顰めた。尼子。元就様の代に滅んだはずの名だ。だが、滅んだ大名の残党が蠢くのは戦国の常。尼子旧臣どもが山陰の山奥で兵を集めているという噂は、すでに届いていた。

——輝元様は、知っておられるだろう。あるいは、既に手を打っておられるやもしれぬ。

 知っていて、まだ動かぬ。あるいは、動けぬ。尼子残党は毛利家にとって蚊帳の外の敵ではない。だが今は、織田の動きがより大きな脅威だった。

 恵瓊は返文を起草し始めた。婉曲に播磨方面の情勢はまだ落ち着きを見せぬと伝え、同時に備えは怠るべからずと記した。尼子方については所察の限りを申し上げると。

 硯をすすぎ、筆を執り、書く。書きながら、懐の書状が重く感じられた。

——春忠殿宛ての書状を、今日送るか。

 決意は昨夜のうちに固まったように思えた。だが朝の光の中で、再び揺らぐ。

 送る手段を選ばねばならぬ。安国寺の使者を使えば寺の者に知られる。輝元様の耳に入るやもしれぬ。

——いや、入らぬ。寺の使者は恵瓊の指図で動く。だが噂は流れる。

 恵瓊は筆を止めた。窓の外は霜に白く染まっている。秋の終わりの朝だ。

 別の手段がある。行商の者に託す。安国寺には時々、京からの行商が立ち寄る。彼らは寺の門前で茶を売り、経典を売り、去っていく。誰にも目立たぬ。

——だが、今日来るか。

 不確かだった。毎年この時期に来るが、日にちまでは定まっていない。今日来るやもしれぬ。来ぬやもしれぬ。

 返文を封じ、輝元様の使者に渡す。その間、恵瓊は庭に出た。霜が足元に白く広がっている。

——春忠殿は、今、何をしているだろう。

 どう受け取るかは、分からぬ。

 恵瓊は自答した。分からぬが、送りたい。送りたいが、送るべきかどうか、わからぬ。

 昼下がり、恵瓊は蔵に向かった。古い経典の整理を口実に、先年の進言控えを再度確認する。輝元様への、藤吉郎を警戒せよとの進言。一笑された進言。

 控えを手に取り、灯火に照らした。墨は乾いていた。文字は恵瓊の字だ。

——あの時、輝元様は動かなんだ。

 動かぬのが当然だ。恵瓊は控えを元の場所へ戻した。

 蔵を出ると、日は傾いていた。安国寺の伽藍が夕陽に赤く染まっている。

 門前で行商が荷を下ろしていた。黒い歯の、四十がらみの男。去年、安国寺の粥を受け、礼を言っていた。名前は知らぬ。

——たまたま来たのだ。

 恵瓊は近づいた。行商は頭を下げた。

「住職様。いつもお世話になっておりまする」

「京の空気はどうだ」

「慌ただしい。将軍家が追放されてから、町人も落ち着かぬ様子で」

 恵瓊は頷いた。義昭様の追放から幾月かが過ぎ、京はまだ動揺している。

 行商は茶の葉を差し出した。恵瓊は受け取らず、懐に手を入れた。

——頼むか。

 書状がある。春忠宛て。封は無地だ。誰の目にも止まらぬ。

 だが頼めば、恵瓊の秘密は行商の中に入る。行商は京へ戻る。戻れば誰かに話すやもしれぬ。話さぬやもしれぬ。

——どちらに転ぶか、わからぬ。

 恵瓊は手を止めた。行商は不思議そうに顔を上げた。

「住職様?」

「——茶を一斤もらおう」

 恵瓊は書状を懐に戻した。行商は茶を秤にかけ、包んだ。

 恵瓊は茶を受け取り、寺に戻った。

 書斎に戻ると、机の上には輝元様への返文の控えが置かれている。墨は乾き、筆は冷えている。

——送らなかった。

 送らなかったが、胸の重石は下りぬ。いや、重くなった。

 夕餉を済ませ、恵瓊は坐禅を組んだ。観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時——。

 心は定まらぬ。懐の書状が、経の声を遮る。

——送るべきか、送らぬべきか。

 尼子旧臣どもが蠢く。毛利家は対応に追われるだろう。春忠も輝元様も、尼子のことで頭がいっぱいだ。そんな時に信長の将来を告げる書状を送って、何になる。

——何もならぬ。

 何もならぬが、送りたい。

 夜半、遠くで鐘が鳴った。まだ夜明けには早い。

 恵瓊は横になった。だが眠れなかった。目を閉じれば春忠の顔が浮かぶ。

——分からぬが、今は疑わぬ。

 あの言葉は信頼ではない。警戒だった。それでも拒絶ではなかった。だからこそ迷う。

 懐から書状を取り出し、灯火の下で読み返す。

 同じ文を、今夜だけで何度読んだか分からない。

 読み返すたびに、尼子旧臣どもの噂が重なる。滅んだ大名の名を掲げ、兵を集める。歴史は滅んだ者を忘れぬ。忘れぬが、新しい者が上に立つ。

——信長も、いずれ滅ぶ。

 滅ぶことは知っている。だが誰が滅ぼすか、いつ滅ぶか、わからぬ。

 わからぬから書いた。書いて、誰かに伝えたい。

——それでも、伝えたかった。

 一度だけ、胸の奥で言葉が燻った。

 恵瓊は書状を畳んだ。そして懐に戻した。

——明日、送る。

 初めて迷いなくそう思った。

 やがて東の空が白み始めた。

 懐の書状は、昨夜より軽かった。

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