第35話:書状の起草
第35話:書状の起草
天正元年、秋の終わりであった。
恵瓊は書斎に座し、硯をすする音だけを響かせていた。筆を取り、置き、また取る。その繰り返しが、すでに何度目になるかも分からなかった。
春忠宛ての書状——。
昨日までの恵瓊なら、送ることを深く躊躇したであろう。だが今は違う。春忠は「分からぬが、今は疑わぬ」と言った。それは恵瓊に語る許可を与えたのではない。恵瓊を見張るという、明確な意思表明だった。それでも書かねばならぬという思いが、胸の奥で燻り続けていた。
恵瓊は筆を執り、紙に向かった。
「拝啓 時下ますます清祥の段、慶賀に存じまする」
古風な書き出しは、外交僧としての慣れた手つきだった。
「去る義昭様の御事、及び織田殿の御威光に就き、所懐ありて筆を執りたく候」
筆を止めた。何を書くべきか。信長の死を直接記すことはできない。それは具体的すぎ、誰が討つかも、いつどこでどのように起こるかも、すべてが霞の中にある。ただ一つだけ確かなことがある。信長の権威は今や頂点に近づきつつあり、そしてやがて衰えるということだ。
恵瓊は再び筆を走らせた。
「織田殿の御威光、今や雲の上のことにて、天下に燿くこと、日に増して候。然れども、樹高き者は風に折られやすし。信長殿の権威は、五年を超えることはあるまい。後は衰えるべき勢い、見え申し候」
筆が再び止まった。「五年を超えることはあるまい」——正確な年月は思い出せない。だが信長の栄華が永く続かなかったことだけは、確かに覚えていた。遠すぎる未来を書けば妄言となり、近すぎれば虚言となる。ゆえに五年という曖昧な数字で濁した。この曖昧さが、今の恵瓊には味方だった。
「其の後を継ぐ者、織田家中にあり。下から這い上がる者は、最も恐ろしきものに候。木下藤吉郎という男、いずれ大きくなるやもしれぬ。信長殿の後、天下の勢いは、此の者に集まるやもしれぬと、所察申し候」
書き終え、恵瓊は紙を読み返した。「やもしれぬ」という言葉が、断定を避けている。推測であり、可能性である。春忠ならこの曖昧さをどう受け取るだろうか。笑うだろう。あの男なら、きっと笑うだろう。
しかし笑ったところで、恵瓊の胸の重石は下りない。
——本当に送るべきか。
恵瓊は筆を置き、墨が乾くのを待つ間、窓の外に目をやった。安国寺の庭は霜が降り始めた白さに沈み、静かだった。
送れば春忠はどうするだろう。信じるだろうか。いや、信じはしないだろう。あの男は実直だ。実直な者ほど、常識の枠から外れた言葉を受け入れられぬ。だが信じたところで、毛利氏の動きは変わるだろうか。輝元様は——。
恵瓊は輝元の顔を思い浮かべた。あの若き当主は藤吉郎を「足軽上がりの小者」と一笑に付し、恵瓊の婉曲な諫言を風の音のように聞き流した。輝元様が動かぬのなら、春忠が動く道理もない。
恵瓊は書状を火の元から遠ざけた。まだ墨も乾いていない。
——では、なぜ書く。
自問しても答えは出なかった。ただ、書かねばならぬという衝動だけが、胸の奥で静かに燻り続けていた。
義昭様の追放から幾月かが過ぎ、室町幕府は形骸化し、信長の権威は日に日に高まっている。天下の趨勢は、恵瓊の知る歴史の流れと重なり始めていた。
だが、重なるだけだ。変わるわけではない。
恵瓊は書状を取り上げ、再び筆を執った。文字を消すわけにはいかない。外交僧としての体面もある。書き直す——。
「拝啓 時下ますます清祥の段、慶賀に存じまする」
同じ書き出し、同じ文脈。だが次の行で筆が止まる。
——やはり、同じことしか書けぬ。
恵瓊は筆を置き、墨をすすり、紙を引き寄せて三度筆を執った。四度目、五度目……。外交僧として同じ文句を繰り返すのは慣れたことだったが、今回は心が定まらなかった。
紙は次々と丸められ、火の元へ投げ入れられた。七度目、八度目、九度目。書斎の中に墨の焦げる匂いが立ち込めていく。
十度目。恵瓊は再び最初の文句に戻った。
「拝啓 時下ますます清祥の段、慶賀に存じまする」
「去る義昭様の御事、及び織田殿の御威光に就き、所懐ありて筆を執りたく候」
「織田殿の御威光、今や雲の上のことにて、天下に燿くこと、日に増して候。然れども、樹高き者は風に折られやすし。信長殿の権威は、五年を超えることはあるまい。後は衰えるべき勢い、見え申し候」
「其の後を継ぐ者、織田家中にあり。下から這い上がる者は、最も恐ろしきものに候。木下藤吉郎という男、いずれ大きくなるやもしれぬ。信長殿の後、天下の勢いは、此の者に集まるやもしれぬと、所察申し候」
「以上、取り急ぎ申し上げ候。恐れ多くも御座候」
ようやく書き終えた恵瓊は、紙を読み返した。墨は乾き、文字は自分の筆跡だった。
——これでよいのか。
いや、よくはない。だが、これしか書けぬ。
恵瓊は書状を机の上に置き、窓際に立った。月が出ていた。霜が降り始めた庭が白く光っている。
——送るべきか、送らぬべきか。
送れば春忠は読む。読めば笑う。笑えば忘れる。
それでも送らねば、恵瓊の胸の重石は下りぬ。
恵瓊は書斎を出て庭に立ち、石塔の前に立った。天文の飢饉で死んだ者を弔う塔だ。
「変えようとした」
その言葉は石塔に吸い込まれた。
あの時、恵瓊は数十人を救った。寺の備蓄を増やし粥を配り、餓死者を減らした。局所的な成功だった。だが地域全体の飢饉は変わらず、無名の小僧は死んだ。誰が死ぬかは知らなかった。
今回も同じだ。いや、今回は手を伸ばすことすら許されぬ。
いや、手を伸ばした。春忠に。そして春忠は「分からぬが、今は疑わぬ」と言った。
恵瓊は石塔に手を合わせた。
——知っていても、人は自分の常識から動かない。
その言葉が重くのしかかる。
恵瓊は蔵に向かい、古い経典の間に先年輝元様へ藤吉郎を警戒すべきと進言した文案の控えを取り出した。あの時、恵瓊は藤吉郎の播磨方面での功の多さ、織田家中で取り立てられている様子、人を集める才のあることを指摘し、商人を取り込む術に長け、金銀を集める才があると記した。だが輝元様は「小者の噂に耳を傾ける必要はない」と一笑に付した。
恵瓊は控えを手に取り、灯火に照らした。
墨は乾いていた。文字は自分の筆跡だった。
——知っていても、人は自分の常識から動かない。
恵瓊は控えを元の場所へ戻した。
蔵を出ると月が出ていた。
恵瓊は庭に立ち、安国寺の伽藍を見上げた。
「変えようとした」
その思いは誰にも届かぬ。
恵瓊は坐禅の姿勢をとった。
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄——
知っていても、救えぬ。
恵瓊は知っている。信長の栄華が永く続かなかったことだけは覚えている。木下藤吉郎という名が後世に残っていたことも。いずれ天下の趨勢は変わることだけは覚えているが、その細部は分からぬ。
だが知っていることと変えることは、別のものだ。
経の声が闇の中に溶けていく。
戸が叩かれた。
「住職様。輝元様からの御文が——」
「——承知した」
恵瓊は立ち上がり、外交僧の顔を整えた。
廊下は闇に沈んでいた。
書斎に戻ると、机の上の書状が墨の乾いた白さで光っていた。
恵瓊は封筒を取り出した。送るか、送らぬか。
——明日、決めよう。
恵瓊は書状を封じ、懐に入れた。
恵瓊は横になった。
だが眠れなかった。
目を閉じれば春忠の顔が浮かぶ。
——分からぬが、今は疑わぬ。
あの言葉は信頼ではない。警戒だった。それでも拒絶ではなかった。だからこそ迷う。
懐から書状を取り出し、灯火の下で読み返す。
同じ文を、今夜だけで何度読んだか分からない。
読み返すたびに思う。
これを送って何になる。
春忠は笑うだろう。
仮に笑わずとも、毛利は動かぬ。
輝元も動かぬ。
家中も動かぬ。
では、なぜ送る。
恵瓊は書状を畳んだ。
答えは出ない。
飢饉の時もそうだった。
救える者だけを救った。
救えぬ者は救えなかった。
それでも粥を炊く手を止めなかった。
結果が見えているから何もしないのと、結果が見えていても動くのは違う。
その違いだけは、今も信じたかった。
遠くで鐘が鳴った。
まだ夜明けには早い。
恵瓊は再び横になった。
眠れぬまま、天井を見つめる。
やがて東の空が白み始めた。
朝が来る。
そして今日も、歴史は恵瓊を待たずに進んでいく。




