第34話:春忠の問い
第34話:春忠の問い
天正元年、秋深し。
恵瓊は輝元からの御文を机に置き、灯火を見つめていた。備中の情勢——その先の備前、宇喜多の地。
宇喜多。その名には、どこか覚えがあった。だが、いつ、どこで、どう結ぶかは知らぬ。恵瓊の知識は、大きな流れの断片だけだ。細部は、霞の中にある。
戸が開く音がした。
「住職様。井上様が、また——」
恵瓊は眉を動かさなかった。春忠が来ることは、わかっていた。
「通せ」
春忠は、昨夜と同じ直垂の姿だった。だが、目の色が違う。昨夜は心配だった。今夜は——問う目だ。
「恵瓊殿。座らせてもらう」
「どうぞ」
春忠は座り、しばらく黙っていた。書斎の灯火が、二人の影を壁に揺らした。
「恵瓊殿。昨日、貴殿は『史書に』と言われた」
「——はい」
「我は読書家ではない。だが、戦場で死に物狂いになった者には、人を見る目がある。貴殿の目は——史書を読んだ者の目ではない」
恵瓊は硯の水を見つめた。
「春忠殿。僧の目は、常に人を見る目でありまする」
「違う」
春忠は声を低くした。「貴殿は、藤吉郎という男を知っておった。しかも、ただの足軽上がりではないと申した。史書に、そこまで書いてあるものか」
恵瓊は答えなかった。
「輝元様は貴殿の戯言を笑われた。我は——笑えぬ」
春忠は身を乗り出した。「恵瓊殿。お前は何者だ」
書斎の空気が、重くなった。
恵瓊は言葉を探した。「春忠殿。我が知るのは、断片でございまする」
「断片?」
「大きな流れの断片。その輪郭だけを、覚えておる」
春忠は目を細めた。「予言者か」
「——違いまする」
恵瓊は初めて春忠の目を見た。「もし我が未来を見通せる者ならば、変えられまする。だが、我は変えられぬ。知っているがゆえに、恐れを知る。知っているがゆえに、何もできぬ」
春忠はしばらく黙っていた。
「天文の飢饉の時、貴殿は備蓄を増やした。数十人を救った」
「——覚えておられるのですか」
「覚えている。あの時、貴殿は『飢饉が来る』と知っていたように見えた。住職は貴殿を不気味がっていた」
恵瓊は目を伏せた。二十年前のことだ。幼い恵瓊は飢饉を知っていた。備蓄を増やした。だが、無名の小僧は死んだ。誰が死ぬかは知らなかった。
「春忠殿。我は——」
言葉が喉で詰まる。
何を言えばよい。大まかな行く末だけを知り、肝心なことは何一つ知らぬ僧——そんな言葉、誰が信じる。信じたところで、どうなる。
「我には、そのようになるとしか思えぬのです」
恵瓊は低く言った。「大きな出来事の輪郭だけを。いつ、どこで、誰がどう動くか、皆目見当もつかぬ」
春忠は動かなかった。「なぜ、そこまで言い切れる」
「——わからぬ」
恵瓊はそれ以上言えなかった。
春忠は立ち上がった。窓の外を見た。月は雲に隠れていた。「恵瓊殿。我は、貴殿を殺したくはない。昨日も言った」
「——承知しておりまする」
「だが、貴殿の知識が、毛利を滅ぼすものなら——」
春忠は振り返らなかった。「——我は、貴殿を殺す」
その言葉は、書斎の闇に溶けた。
恵瓊は坐禅の姿勢をとった。
「お前は何者だ」
春忠の問いが、頭に残る。
何者でもない。知っている未来より、知らぬ未来の方が遥かに多い僧だ。安国寺恵瓊という名を与えられ、毛利氏の外交僧という立場を与えられ、知っているがゆえに何もできぬ——。
恵瓊は目を開いた。硯の水が、完全に乾いていた。
翌朝、恵瓊は輝元の館へ向かった。
輝元は庭で弓を射ていた。矢は的の縁を掠めて落ちた。
「恵瓊か。備中の情勢、見定めたか」
「——見定めまする」
恵瓊は輝元の矢を見つめた。中心は外れた。だが輝元は気にも留めぬ。届かぬことを知りながら、射続ける。
「宇喜多は、当面、毛利に従うでございましょう。然れども、織田殿の勢いが備中に及べば——」
「分かっている」
輝元は弓を置いた。「恵瓊はいつも先のことを言う。だが、先のことは、先にならねばわからぬ」
「——確かに」
「藤吉郎のことも、忘れた。貴殿の戯言よ」
恵瓊は頭を下げた。「——恐れ入りまする」
輝元は微笑んだ。温厚な笑みだ。「安芸の外交は、引き続き頼む。備中のことも、備前のことも、貴殿の目で見定めよ」
恵瓊は頷いた。
——見定めようとも、変えられぬ。
館を出ると、春忠が立っていた。
「恵瓊殿」
「春忠殿」
二人はしばらく黙って佇んだ。風が吹き、落ち葉が舞った。
「昨夜のことは、忘れてくれ」
春忠は低く言った。
「——忘れまする」
「いや、忘れるな。だが、口にするな」
恵瓊は春忠の目を見た。そこには、昨夜の問いではない。別のものがあった。
「春忠殿」
「我には分からぬ。分からぬが、今は貴殿を疑わぬ。ただし——毛利に仇なせば、容赦はせぬ」
恵瓊は頭を下げた。「——承知しておりまする」
春忠は館の方へ向かった。恵瓊は安国寺の方へ向かった。
二人の道は、交わらぬ。
安国寺に戻ると、夜になっていた。
書斎に入り、硯をすすった。筆を取った。書くべきことはある。だが、それを書けば信を失う。
恵瓊は筆を置いた。
窓の外では、虫の音が途切れていた。秋が、深まっている。
戸が叩かれた。
「住職様。輝元様からの御文が——」
「——承知した」
恵瓊は立ち上がり、御文を受け取った。
安国寺の夜は、まだ明けぬ。




