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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第33話:輝元への諫言

第33話:輝元への諫言


 天正元年、秋。

 安芸の空は高く晴れ渡り、山々の紅葉が色づき始めていた。恵瓊は輝元の館へ向かう道すがら、何度も言葉を練っていた。

 木下藤吉郎という名を、どこかで見た覚えがある。織田家中に、後に大きくなる者がいるような気がする——。

 いや、それでは抽象的すぎる。輝元は一笑に付すだろう。

 恵瓊は立ち止まり、道脇の小川に目を落とした。水面には疲れの色が映っていた。

 どう言えばよい。

 館の書院では、輝元が地図を広げていた。今度は備中の地形図だ。

「恵瓊か。座れ」

「恐れ入りまする」

 恵瓊は座り、輝元の顔色を窺った。輝元は義昭追放以来、やや疲れを見せていた。だが目は依然として温厚で、決して激しくはない。

「備中の情勢だが——」

 輝元は宇喜多の動向について語り始めた。恵瓊は適宜相づちを打ちながら、話の機を待った。

 宇喜多直家。恵瓊は「宇喜多という名は、どこかで聞いた覚えがある」と思った。だが、いつ、どこで、どう結ぶかは知らぬ。

 話が一段落すると、恵瓊は口を開いた。

「輝元様。一つ、申し上げたく存じまする」

「何だ」

「織田殿の御威光は、今や天下に燿くこと、雲の上のことにございまする。然れども——」

 恵瓊は言葉を選んだ。「——天下の勢いは移ろいやすきものにございまする。織田殿の後を継ぐ者が現れることも、考えうることかと」

 輝元は眉を上げた。「織田の後を継ぐ者? 誰だ、浅井か? 朝倉か? いや、将軍家か——」

「——いえ」

 恵瓊は喉を鳴らした。「織田家中には、身分低くして異様な才を持つ者がおります。木下藤吉郎という者にございます」

 輝元は一瞬、目を見開いた。そして笑い出した。「藤吉郎? あの成り上がりがか」

 輝元は笑いながら手を振った。「恵瓊も、時に変なことを言う。藤吉郎など、信長の手足に過ぎぬ。所詮は成り上がりであろう? そやつが織田家を背負うなど、夢のまた夢よ」

 恵瓊は頭を下げた。「——戯言にございまする。お忘れください」

「忘れぬとも。面白い。恵瓊が、あの成り上がりを評価するとはな」

 輝元はまだ笑っている。温厚な笑みだ。だが、その笑みの底には確固たる自信があった。

 毛利輝元は、中国地方最大の大名である。織田信長であろうと正面から衝突すれば毛利は引かぬ。そして藤吉郎など——。

「恵瓊。貴殿は外の情勢を見る目がある。だが、人を見誤ることがあるのだな」

 輝元は地図を片付けた。「藤吉郎など、気にするに足らぬ。我が毛利の敵は織田だけよ」

 恵瓊は黙って頷いた。

——知っていた。

 この反応は知っていた。第28話で、輝元は既に「足軽上がりの小者」と一笑した。あの時と同じだ。いや、今回はさらに強い。義昭追放後の輝元は、毛利の力を確信している。

 人の性格は、知識では動かぬ。

 館を出ると、西の空が朱に染まっていた。

 恵瓊は安国寺への道を歩いた。足元の落ち葉が乾いた音を立てる。

「藤吉郎など信長の手足に過ぎん」

 輝元の言葉が頭に残る。

 確かに、今の藤吉郎は信長の手足に過ぎぬ。だがいずれ——。恵瓊は知っている。木下藤吉郎という名を、どこかで見た覚えがあることを。だが、その先は霞の中だ。

 恵瓊は立ち止まった。

 道の脇に小さな祠があった。稲荷の祠だ。誰が建てたのか、いつの間にかそこにあった。

 恵瓊は祠の前に跪き、手を合わせた。

「届かぬ」

 その言葉は誰にも届かぬ。

 天文の飢饉の時、恵瓊は数十人を救った。局所的な成功だった。だが歴史は変わらなかった。

 厳島の戦いの時、恵瓊は元就の才能の前に自分の知識が無力だったと悟った。

 隆元の病の時、恵瓊は薬草一つ届かなかった。

 そして今、輝元の前で——。

 恵瓊は立ち上がった。

 安国寺に戻ると、夜になっていた。

 恵瓊は書斎に入り、硯をすすった。輝元宛ての書状をもう一度起草してみようと思った。

——いや、無駄だ。

 輝元は笑っただけだ。書状にしても、同じ反応だろう。

 恵瓊は筆を置いた。

 窓の外では虫の音が途切れていた。秋が深まっている。

 戸が叩かれた。

「住職様。井上様が——」

 恵瓊は眉を動かした。春忠がこんな夜に?

「通せ」

 春忠が入ってきた。直垂の姿に少し疲れが見える。

「恵瓊殿。妙な話をされたそうだな」

 恵瓊は頷かなかった。「戯言が輝元様の耳に入っただけだ」

「輝元様から聞いた。藤吉郎という名だけはな」

 春忠は少し考えてから答えた。「知らぬ。噂だけは聞く。信長の側近として働いておる男だとか。——貴殿は、なぜその男を知っている」

 恵瓊は史書の言葉を思い出した。「史書に、そのような例を見たことがございます。下から這い上がる者は、最も恐ろしいと」

「下から這い上がる者か」

 春忠は窓の外を見た。「貴殿はいつも遠いところを見ている。我には、そこまで見えぬ」

「見えぬ方が、幸いかもしれませぬ」

 春忠は振り返った。「恵瓊殿。今朝も言った。貴殿は毛利に欠かせぬ人じゃ。——つまらぬことで、輝元様の信を失うな」

 恵瓊は黙って頭を下げた。

 春忠は答えを待った。恵瓊は黙ったままだった。

「……史書、か」

 春忠はそれだけ言い、書斎を出た。戸が閉まる音が境内に響いた。

 恵瓊は独り、坐禅の姿勢をとった。

 輝元の笑い声が頭に残る。

——確かに、今はそうだ。だが、いずれ——。恵瓊は知っている。木下藤吉郎という名を、どこかで見た覚えがあることを。だが、その先は霞の中だ。

 恵瓊は目を開いた。硯の水が、完全に乾いていた。

 知っていることと、変えることは、別のものだ。

 恵瓊は経を誦し始めた。

 観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄——

 苦厄は、度かられぬ。

 経の声が書斎に満ちた。

 戸が叩かれた。

「住職様。輝元様からの御文が——」

「——承知した」

 恵瓊は立ち上がり、御文を受け取った。封を開けると、輝元の達筆が目に入った。

「備中の情勢、改めて見定めよ」

 恵瓊は御文を握りしめた。

 備中——。その先には宇喜多直家のいる備前がある。

 宇喜多。その名には、どこか覚えがあった。

 恵瓊は御文を机に置き、灯火を見つめた。

 安国寺の夜は、まだ明けぬ。

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