第32話:届かぬ声
第32話:届かぬ声
朝霧が安芸の山々を包んでいた。
恵瓊は書斎に座し、昨夜広げた紙を見つめていた。墨は乾ききっている。
『貴殿にのみ打ち明けたいことがある』
筆先はここで止まっていた。何を書くべきか、まだ定まらない。
春忠になら——そう思った。だが、書くべき内容は春忠を巻き込むことになる。毛利氏の武将に、敵将への密通を相談する。それは共犯を求める行為だ。
恵瓊は紙を折り、懐に入れた。
庭に出ると、露が深かった。山門の方へ向かうと、一人の武士が立っていた。
「恵瓊殿」
井上春忠だった。鎧も着けず、直垂の姿で静かに佇んでいる。
「春忠殿。こんな早朝に」
「今朝、城下で耳にした。輝元様の御使が安国寺を訪ねたと」
恵瓊は頷いた。「義昭追放後の情勢を、外交僧の目で見定めよとのことです」
「——それだけか」
春忠の目が鋭くなった。
恵瓊は懐の紙を意識した。まだ、書いていない。書いてはならぬ。
「それだけです」
春忠はしばらく黙っていた。そして、低く言った。「近頃、眠れておらぬ顔だ。義昭様の件以来、考え込むことが増えたな」
恵瓊は目を伏せた。「天下の動向を見るのが、僧の役目でございまする」
「天下か……」
春忠は一歩近づいた。「貴殿の見る天下は、安芸より遠い。それは貴殿の才覚ゆえだが——毛利の家を守れぬ者に、天下は語れぬ」
恵瓊の胸が締めつけられた。春忠は、恵瓊が何を考えているかを完全に知っているわけではない。だが、この男の直感は、時に人を射抜く。
「春忠殿。貴殿に一つ伺いたい」
「何だ」
「毛利のためと天下のためが、違う道を指したならば——貴殿はどちらを取るか」
春忠の眉がわずかに動いた。「主君に背く行為が、天下のためになることなど、あるまい」
「あるとすれば」
「あるとすれば、それは——貴殿の考える『天下』と、我が考える『天下』とが、同じものであるかどうか、からではないか」
恵瓊は息を呑んだ。
春忠は毅然と言った。「貴殿は毛利に欠かせぬ人じゃ。つまらぬことで身を滅ぼすな」
恵瓊は長い間、答えられなかった。
春忠は山門をくぐり、霧の中へ消えていった。
恵瓊は書斎に戻り、坐禅の姿勢をとった。
「主君に背く行為が、天下のためになることなど、あるまい」
春忠の言葉が頭に残る。
ある。あるのだ。恵瓊は知っている。信長が討たれれば、その後の流れも変わるのかもしれない。だが、その先は分からない。木下藤吉郎という男の名が後世に残っていたことは覚えている。いずれ徳川の世になることだけは覚えているが、その細部は分からぬ。
知っていることと、行動することは別のものだ。
恵瓊は目を開いた。窓の外では日が高くなっていた。
昼下がり、恵瓊は輝元の館へ向かった。
輝元は書院にあり、地図を広げていた。「恵瓊か。義昭追放後の動向を如何に見る」
恵瓊は座り直した。「将軍家は、もはや天下を統べる力を持たれませぬ。織田殿の威光は今や雲の上のこと。毛利としては、当面、織田殿との決定的な衝突を避けるべきかと」
輝元は頷いた。「義昭様は将軍家の命脈を保たれておられる。我としては、将軍家への義を忘れぬ」
恵瓊は内心で息をついた。輝元はまだ義昭に与している。これも知っていたことだ。
「将軍家への義は肝要でございまする。然れども、織田殿の勢いは侮り難く——」
「分かっている」
輝元は手を上げた。「恵瓊はいつも織田を警戒する。それが貴殿の役目であろう。だが、我が毛利は中国に覇を唱える家じゃ。軽々しく織田に従う道理はない」
恵瓊は黙って頭を下げた。
——道理はない。確かに。だが、歴史は道理では動かない。人の欲望と性格と構造が、歴史を動かす。
輝元は地図を片付けた。「恵瓊。貴殿は、何かを隠しているな」
「——隠すほどのものではございませぬ」
「ならばよい」
輝元は温厚に微笑んだ。「外の情勢を見る目は、貴殿に及ばぬ者も多い。毛利の外交は、引き続き頼む」
その言葉が、恵瓊の胸を締めつけた。信用されている。だからこそ、裏切れない。
館を出ると、夕日が西の山に沈みかけていた。
恵瓊は安国寺への道を歩きながら、春忠の言葉を思い出した。
「貴殿は毛利に欠かせぬ人じゃ」
あの男は察していた。恵瓊が何かを企んでいることを。そして、自分の立場から恵瓊を止めた。
恵瓊は道の途中で立ち止まった。道の脇に、小さな石塔があった。天文の飢饉で死んだ者を弔う供養塔だ。
恵瓊は手を合わせた。「変えようとした」
その言葉は、石塔に吸い込まれた。
あの時、数十人を救った。局所的な成功だった。だが、歴史は変わらなかった。
今回も同じだ。いや、今回は——手を伸ばすことすら許されない。
恵瓊は再び歩き始めた。
安国寺に戻ると、夜になっていた。
書斎に入り、懐の紙を取り出した。
『貴殿にのみ打ち明けたいことがある』
恵瓊はその紙を灯火にかざした。
——届けば、どうなる。
春忠は信じるだろうか。信じたところで、毛利氏の動きは変わるだろうか。
変わらない。
恵瓊は紙を火の元へ投げ入れた。炎が文字を食み、灰となった。
蔵へ向かい、古い経典の間に数年前に春忠へ送った予言書状の控えを取り出した。
『信長の権威は三、五年の高峰に達し、後は衰える。木下藤吉郎という男、いずれ大きくなるやもしれぬ』
あの書状は送られた。春忠は笑った。
だが今回は違う。信長への警告は、送れない。
恵瓊は控えを灯火にかざした。
「自分の立場」
その言葉が、重くのしかかる。
外交僧としての立場。安国寺住職としての立場。輝元に信用されている者としての立場。
その立場が、恵瓊を縛る。
知っているがゆえに、何もできぬ。知っているがゆえに、誰にも語れぬ。
恵瓊は控えを元の場所へ戻した。
蔵を出ると、月が出ていた。
恵瓊は庭に立ち、安国寺の伽藍を見上げた。
「変えようとした」
その思いは、誰にも届かぬ。
恵瓊は坐禅の姿勢をとった。
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄——
苦厄は、度かられぬ。
経の声が、闇の中に溶けていく。
戸が叩かれた。
「住職様。明朝、輝元様の御前に出仕との仰せでございます」
「——承知した」
恵瓊は立ち上がり、外交僧の顔を整えた。
廊下は闇に沈んでいた。
安国寺の夜は、まだ明けぬ。




