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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第31話:警告の書

第31話:警告の書


 元亀四年、天正元年——。

 改元の詔が下りても、安芸の空は灰色を孕んだままだった。

 安国寺恵瓊は書斎に座し、静かに硯へ水を注いでいた。水面がわずかに揺れる。

 信長は、家臣の反乱によって果てる。そこまでは覚えている。だが、それがどこで、いつ、誰の手によって起こるのか。記憶は曇った鏡のようにぼやけていた。

 十年後か。もっと先か。それすら定かではない。

 しかし、一つだけ確かなことがあった。織田信長は、永遠には勝ち続けない。

 恵瓊は筆を置いた。

 窓の外では初秋の風が竹林を鳴らしている。

 警告するべきか。いや、できるのか。

 戸が開いた。

「住職様」

 小僧が茶を運んできた。「輝元様より御使が参っております」

「そうか」

 恵瓊は頷いた。使者の名は問わなかった。義昭追放後の情勢について意見を求められるのであろう。外交僧としての当然の務めだった。

 しかし今、恵瓊の心は別の場所にあった。

 信長へ書状を送る——その考えが昨夜から離れない。

 だが、その一通はあまりにも重い。毛利と織田は敵でも味方でもない。互いに探り合いながら距離を測っている。その最中に毛利家の外交僧が独断で信長へ密書を送れば、裏切りと見なされても弁解の余地はない。寺が危うくなり、僧たちも巻き込まれる。輝元の信頼を失えば、すべてが終わる。

 恵瓊は紙を広げ、筆を取った。

 もし書くならば、何を書く。

「家臣に気を付けよ」それでは怪しい。「側近を疑え」それでは意味がない。「いずれ反乱が起きる」戦国の世に反乱など珍しくもない。誰が信じる。

 恵瓊は試しに書いてみた。

『織田殿の御威光、今や天下に響き候。されど高き木ほど風を受けるものにて候——』

 そこまで書いて筆を止めた。

 虚しい。これでは何も伝わらない。仮に信長が読んだとしても、鼻で笑うだろう。

 裏切った家臣の名は——思い出せない。史書で見た気がするが、霧の向こうに隠れている。名も知らぬ者を警戒しろと言われて、誰が従うのか。仮に名を思い出しても同じだった。その人物を排除すれば歴史は変わる。その先はどうなる。信長が生き残ればどうなる。秀吉はどうなる。毛利はどうなる。そして自分はどうなる。

 未来を知っている。だが、未来の全てを知っているわけではない。変えた先の未来など、一つも見えていない。

 恵瓊は紙を丸め、火鉢へ投げ込んだ。紙はすぐに黒く縮れ、灰となった。

 夕闇が書斎に落ちてきた。

 恵瓊は坐禅を組んだ。変えたい。その思いは昔からあった。飢饉で死んだ者たち。救えなかった者たち。隆元。多くの戦。知っていながら防げなかった出来事。

 しかし違った。知っているだけでは何も動かない。人には立場があり、組織があり、利害がある。歴史は無数の思惑が絡み合って進む。一人の知識だけでは押し返せない。

 夜が更けた。

 恵瓊は蔵へ向かい、棚の奥から一通の控えを取り出した。以前、井上春忠宛てに書いたものだ。

『信長の権威は三、五年で高峰に達し、後は衰える。木下藤吉郎という男、いずれ大きくなるやもしれぬ』

 読み返して苦笑した。春忠は面白がっていた。だが、あれは友人に近い相手だから送れた。信長への警告とは意味が違う。

 恵瓊は灯火へ書状をかざした。「届けば、どうなる」

 信長が信じ、誰かを疑い、遠ざける。反乱は起きない。あるいは別の形で起きる。その先は闇だった。

 何より、毛利家中の反応が恐ろしい。外交僧が独断で敵将へ密書を送ったと判断されれば、輝元は事情を聞くだろう。隆景にも相談するだろう。しかし結論は変わらない。許されるはずがない。

 恵瓊は静かに書状を戻した。

 月が雲に隠れていた。

 直接信長へ送ることはできない。だが——。

 恵瓊は再び書斎へ戻り、新しい紙を広げた。今度は輝元への書状である。義昭追放後の情勢、信長の動向、毛利が取るべき道。外交僧として書くべきことは山ほどあった。

 筆は迷わなかった。冷静な文字が紙を埋めていく。

 信長への警告は灰になった。残ったのは、現実だけだった。

 書状を書き終えた頃には夜も更けていた。

 恵瓊は硯を洗い、筆を片付けた。虫の音が遠くで鳴いている。

 変えようとした。だが変えられなかった。いや、変えるための一歩すら踏み出せなかった。

 恵瓊は坐り直し、静かに経を誦した。

「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時——」

 読経の声が書斎に満ちる。

 信長が討たれること。秀吉が台頭すること。やがて徳川が天下を握ること。そして自らが六条河原で首を刎ねられること。

 大きな流れだけは知っている。だが、その間を埋める無数の人々の選択までは知らない。

 だからこそ、知っていることと変えられることは別だった。

 戸が叩かれた。

「住職様。輝元様の御使にございます」

「すぐに参る」

 恵瓊は立ち上がり、書状を懐へ入れた。外交僧の顔を整える。

 廊下の闇を歩きながら、ふと春忠の顔が浮かんだ。あの男になら話せるかもしれない。いや、だからこそ話してはならない。相談するだけでも共犯を求めることになる。

 門の前で足が止まった。

 月は雲に隠れている。

 恵瓊は静かに向きを変え、再び書斎へ戻った。

 新しい紙を広げる。

 筆先が紙へ触れた。

『貴殿にのみ打ち明けたいことがある』

 墨が静かに滲んだ。

 安国寺の夜は、まだ明けぬ。

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