第30話:元亀四年
第30話:元亀四年
返書が織田へ届いてから、半月が過ぎた。
安国寺の蔵には、冬の淡い陽光が差し込んでいた。棚に積まれた経巻と、舞い上がる埃が、柔らかな光に照らされている。
恵瓊は古い経典を一巻ずつ確かめながら、虫損の有無を調べていた。
吉田郡山城からの呼び出しは、まだない。輝元は織田家の反応を待っているのだろう。木下藤吉郎——いや、その背後にいる信長の思惑を。
恵瓊は手を止めた。
元亀四年。信長と義昭の対立は、決定的な局面を迎えようとしている。義昭はやがて権勢を失い、室町幕府も力を失う。そこまでは知っている。
だが、それが今年なのか、来年なのか。どのような順序で起こるのか。そこまでは分からない。
歴史の大きな流れは知っている。しかし、その流れの中を流れる一滴一滴までは知らない。
ふと胸が重くなった。
また書状か——そう思った時、蔵の扉が開いた。
「安国寺殿」
小姓の少年が立っていた。「輝元様より御召しでございます」
「承知した」
恵瓊は経典を閉じた。何かが動いた。そんな予感がした。
吉田郡山城の書院には、輝元と小早川隆景がいた。吉川元春は軍務で不在だった。
「恵瓊、座れ」
「はっ」
輝元の表情は硬かった。「織田から返書が来た」
恵瓊は静かに頭を下げた。「……木下殿より、でございまするか」
「さようじゃ」
輝元は一通の書状を差し出した。「読め」
恵瓊は受け取り、目を通した。文面は丁寧だった。毛利家との友好を望み、西国の安定を願う。将軍家周辺の動きを「天下静謐の妨げ」と記している。
「……これは」
恵瓊の視線が止まった。
隆景が淡々と告げた。「信長の意を受けた文であろう。将軍家を事実上、敵と見なしたようじゃ」
沈黙が落ちた。
輝元が苦々しく言った。「義昭様を見捨てるわけにはいかぬ。だが織田と敵対するわけにもいかぬ」
隆景が静かに続けた。「将軍家は感情で動き、信長は理で動く。厄介なのは理で動く相手だ」
輝元は腕を組み、ため息とも苦笑ともつかぬ息を漏らした。当主としての重圧が、その一瞬に浮かび上がっていた。
恵瓊は慎重に言葉を選んだ。「輝元様。義昭様はまだ兵を集められるでしょうか」
「義昭が、か……」
「はっ。信長殿がこのような文を送った以上、将軍家も黙ってはおられますまい。大きな動きに出るやもしれませぬ」
輝元は窓の外の冬空を見つめた。「将軍家を立てれば織田が怒る。織田を立てれば将軍家が怒る……どちらを選んでも傷を負う」
恵瓊は何も言えなかった。言える言葉がなかった。
やがて輝元が静かに命じた。「わかった。では義昭様への返書を起草せよ。毛利は将軍家を見捨てぬ。その旨を書け」
「……承知いたしました」
恵瓊は深く頭を下げ、書案に向かった。
筆を取る手がわずかに重かった。
義昭を立てながら、織田との全面対立は避ける。容易な仕事ではない。友好の言葉は簡単だが、友好の裏に何もなければ相手は見抜く。何かを示せば、それが後に枷となる。
知っている。義昭はやがて権勢を失うことを。将軍家を支えると書いても、歴史の大きな流れは変わらないのかもしれない。
それでも——今、この瞬間に、背負うべき責務がある。
恵瓊は筆を走らせた。
墨が紙に落ち、黒い染みがゆっくりと広がっていく。
◇
書院を退出した恵瓊は、安国寺への道を急いだ。
冬の風が冷たい。経を誦さねばならない。誦しても心は晴れぬ。だが、誦さねばならない。
未来を知ることは、時に重荷でしかない。それでも、自分はここにいる。




