第29話:書状の開封
第29話:書状の開封
藤吉郎の使者を送り出した翌朝、恵瓊は輝元から急ぎの呼び出しを受けた。
吉田郡山城の書院には、珍しく早朝から灯が点いていた。
「恵瓊、座れ」
「はっ」
輝元の前には、昨日の使者が持参した書状が置かれていた。封はまだ切られていない。
「昨日の使者の件じゃ」
輝元は書状を手にした。「隆景も元春も軍務で戻っておらぬ。開封する前に、お前の考えを聞いておきたい」
恵瓊は息を潜めた。木下藤吉郎の書状。いずれ天下を握る男の言葉が、そこに記されている。
輝元が封を切った。文面を読み進めるうちに、眉が寄っていく。
「……ふむ」
輝元は書状を机に置いた。「藤吉郎という男、丁寧な文を書く。織田家と毛利家の友好を望む。将軍家の檄文とは無関係と。そして西国の情勢を案じておると」
恵瓊の胸が締めつけられた。西国。織田の勢力は、静かに、しかし確実に西へ伸びている。
「これは……探りでございまするか」
「さようじゃろう。我らの腹を探っておる」
輝元は恵瓊を見た。「昨日、使者の話を聞くべきと言ったな。聞いた上で、どう思う」
恵瓊は慎重に言葉を選んだ。「輝元様。木下殿は油断ならぬ使者でございまする。誼を求めながら威も示しております。表では友好を語り、裏では相手の腹を量ろうとしております」
輝元が頷く。「信長の意を受けた者だな」
恵瓊はさらに続けた。「近年名を上げている者ほど、恐ろしいものでございます。下から身を起こした者は、一度機会を得れば尋常ならぬ力を発揮します」
輝元は小さく笑った。「恵瓊はまた、人の世の理で語るのう」
「……はっ」
「わかった。では返書を起草せよ。友好の意向を示しつつ、具体的な約束は避ける。それができるか」
「承知いたしました」
恵瓊は書案に向かった。硯を研ぐ音だけが書院に響く。輝元は窓の外の朝霧を見つめていた。
恵瓊は筆を取った。
返書は難しかった。友好を示しながら何も約さない。織田に刃向かわず、将軍家を裏切らず、しかしどちらにも深く傾かぬ——。
藤吉郎はこの文を読むだろう。行間を読み取り、織田家の威を背景にした圧力を、逆手に取ってくるに違いない。
思案の末、恵瓊は筆を走らせた。
『貴意を謝し奉る。しかしながら、一時の和睦は一国の安堵に過ぎず、永世の誼を結ぶには時節と御相談を要するものと存ずる。西国の安定は両家の安堵に繋がるゆえ、無用の兵は、いずれの手にとっても禍となりまする』
これ以上は踏み込めない。踏み込めば、約束になる。
書き終えた恵瓊は、輝元に差し出した。
輝元は黙読し、眉を上げた。「……角は立てぬが、頭も下げぬか。なるほど」
しばらく文面を見つめた後、ゆっくり頷いた。「よかろう。これで送る」
「……はっ」
「恵瓊よ」
輝元はふと声を低めた。「お前は、随分と藤吉郎を買っておるな」
恵瓊の筆が止まった。「……名を聞き及んだことがございまする。織田家中でも評判の者と」
輝元はしばらく恵瓊を見つめていたが、それ以上追及はしなかった。「わかった。去れ」
恵瓊は頭を下げ、書院を退出した。
廊下を歩きながら、恵瓊は胸の内で繰り返した。
返書は送るしかなかった。後は相手がどう読むかだ。
年が改まれば情勢はさらに動く。将軍も信長も黙ってはいまい。義昭はまだ諦めぬだろう。遠からず、畿内は大きく揺れる。
その先を知っている。だが、その揺れの中で誰が何を語り、どのような書状が飛び交うのかまでは知らない。
安国寺への道を急ぎながら、恵瓊は静かに息を吐いた。
経を誦さねばならない。誦しても、心は晴れぬ。だが、誦さねばならない。




