第28話:藤吉郎という名
第28話:藤吉郎という名
夜明け前の安国寺を叩く使者の声に、恵瓊は僧衣の袖を整えた。
「安国寺殿。輝元様より、急ぎの御召しでございます」
恵瓊は経典を閉じ、本堂を出た。庭にはまだ星が残り、東の空が白み始めていた。何かが、確かに動き出そうとしていた。
馬で吉田郡山城へ向かう道中、恵瓊は考えを巡らせた。輝元の急召——義昭の檄文に関する続きか、それとも新たな動きか。いずれにせよ、知る歴史の大きな流れの中で、再び歯車が回り始めた気配があった。
書院に通されると、輝元は書案に向かい、傍らに隆景の姿があった。元春は軍務で不在のようだ。
「恵瓊、座れ」
「はっ」
輝元が書状を差し出した。「先日の会議以来、東の情勢が変わった」
恵瓊が目を通すと、隆景が静かに補足した。「織田家の家臣から使者が来た。木下藤吉郎——信長配下で近年名を上げている者じゃ。我が毛利家に、使者をよこしたという」
木下藤吉郎。
その名を聞いた瞬間、恵瓊の胸が重く締めつけられた。豊臣の世。天下人。そして——その先の関ヶ原。すべてはこの名の先に繋がっている。
「藤吉郎、と申しますか」
恵瓊は声を平らに保った。
輝元が眉を寄せた。「信長の家臣が、将軍家の檄文が届いた直後に何故我が家に。探りか」
隆景が腕を組む。「拒否すれば信長の敵と見なされ、受け入れれば将軍家との関係に亀裂が入る。どちらも避けねばならぬ」
輝元が恵瓊を見た。「恵瓊よ。汝は如何思う」
恵瓊は慎重に言葉を選んだ。「輝元様。木下殿が誰であろうと、今は信長様の使者でございます。使者を粗末に扱えば怒りを買いまする。しかし、話を聞くことは将軍家への背信ではございませぬ。話を聞き、返答を延引する——この間隙を保つことが、最善かと存じます」
隆景が小さく頷いた。
恵瓊はさらに続けた。「近年名を上げている者ほど、油断はなりませぬ。古より、下から身を起こした者ほど恐ろしいと申します。木下殿のような方は、一度機会を得れば、尋常ならぬ力を発揮するものでございまする」
隆景の静かな視線が、恵瓊に注がれた。輝元は小さく笑った。「経ではなく、世の教えか」「どちらも似たようなものでございまする」
「わかった。では、藤吉郎の使者を迎えよ。恵瓊、汝が交渉に立て」
「はっ」
額に冷たい汗が滲むのを感じた。知っている未来を、ただの推察として語ることは、常に危うい綱渡りだった。
◇
その日のうちに、使者は通された。
小柄な男だった。三十前後。愛想の良い笑みを絶やさない顔立ち。だが、その目だけは獲物を見定める鷹のように鋭かった。
「安国寺殿。木下藤吉郎様より、毛利輝元様への書状を持参いたしました」
恵瓊は書状を受け取り、目を通した。文面は丁寧で、毛利家への敬意が記されていた。しかし行間には、織田家の力と敵対の愚かさを仄めかす、柔らかな圧力が感じられた。
「木下殿の御志、承知いたしました。しかし、使者の往来は一国一城の問題ではございませぬ。輝元様ご自身の御判断が必要です。御返答は、しばしの猶予を賜りたく存じます」
使者は笑みを深めた。「承知しております。我が主君は、毛利家との良好な関係を心より願っておりまする。時が来れば、双方に益ある道が開けましょう」
互いに腹の内を探り合いながら、言葉は表面だけを滑った。
使者が辞去した後、恵瓊は深く息を吐いた。
木下藤吉郎。今はまだ信長の家臣に過ぎない。だがその名はやがて天下を揺るがす。
知っている。知っているのに、止められない。
◇
日が傾く頃、恵瓊は安国寺へ戻った。
境内には夕鐘の音が響き、変わらぬ風景が広がっていた。しかし歴史は、確実に動き始めている。
本堂に座り、恵瓊は目を閉じた。経を唱えようとしたが、心が静まらなかった。
未来は知っている。だが、その未来へ至る道筋の細部までは見えない。見えているのは、大河の行き着く先だけだ。
外では風が鳴っていた。まるで遠い未来から吹いてくる、時代の息吹のように。




