第27話:義昭の檄
第27話:義昭の檄
将軍・足利義昭からの檄文が毛利家に届いてから、数日が経った。
吉田郡山城の広間では、再び重臣会議が開かれていた。輝元は上座に座り、元春と隆景が左右に控える。恵瓊は末席で書状の控えを整えていた。
「義昭様の檄文、再三にわたって届いております」
輝元の声には、若さ故の迷いが滲んでいた。「将軍家の命じゃ。信長討伐に参じるべきか」
元春が腕を組んだ。「将軍家の御檄を無視すれば、毛利は朝敵と見なされかねぬ。だが信長も侮れぬ。軽々しく兵を挙げれば、西国の覇権を失う」
隆景が頷いた。「まずは檄文を受けた旨のみを伝え、出兵は様子見——これが妥当かと」
恵瓊は黙して聞いていた。義昭の立場が今後さらに苦しくなること、将軍がやがて信長に追われることまでは覚えていた。だが、正確な時期や細かな経緯までは思い出せない。
「恵瓊よ」
輝元に名を呼ばれ、恵瓊は顔を上げた。
「汝は如何思う」
恵瓊は慎重に言葉を選んだ。「輝元様。将軍家は天下の棟梁でございます。御檄を無視すれば名分上不利。ですが——」
「ですが?」
「信長様の勢いはまだ衰えておりませぬ。将軍家と信長様の対立は、これからさらに激しくなるやもしれませぬ。今、急いでどちらかに付く必要はございませぬ。将軍家には檄文を受けた旨を伝え、信長様には慎重に対応する。この間隙を保つことが、西国の鎮守たる毛利家にとって最も肝要かと存じます」
隆景が小さく頷いた。「恵瓊殿の申す通りじゃ。将軍家の檄に応じる形を取りつつ、実質的な中立を保つ。これが現状では最善」
輝元はしばらく黙していたが、やがて小さくため息をついた。「わかった。将軍家には檄文を受けた旨を返答せよ。ただし、出兵の時期は明言せぬ」
恵瓊は内心で安堵した。少なくとも今、無謀な出兵は避けられた。これが小さな成功だ。大きな歴史の流れは変わらない。それでも、毛利家が少しでも長く安定を保てるなら——。
会議が終わると、恵瓊は安国寺へ戻った。
境内では、先日助けた老僧の姿があった。老僧は恵瓊を見ると深く頭を下げた。「住職殿。先日はありがとうございました。お陰で命が助かりました」
「お大事に。まだお体が弱っておいででしょう」
老僧は遠くを見つめ、掠れた声で言った。「京都は騒然としております。将軍と信長の争いは隠しようもない。信長は比叡山への圧力を強めておるそうです。あの男は神仏をも恐れぬ……わしら寺僧にとっては、恐怖の日々です」
恵瓊の胸が締めつけられた。比叡山焼き討ち——大きな惨事が近づいている。だが、正確な時期までは思い出せない。
「比叡山が……危うい、と」
「ああ。延暦寺の僧たちは夜も眠れぬ。住職殿、わしは京都を離れることにしました。安芸で命を繋ぎたい」
「承知しました。お堂でお経を誦じましょう。仏門の安泰を祈るために」
老僧を送り届けた後、恵瓊は本堂に独り座した。義昭の檄文、信長包囲網、比叡山への圧力——すべてが繋がっている。その先で大きな転換が起きる。だが、記憶は霞がかかったようにぼんやりとしている。
知っている。だが、口にすれば毛利家の離反と見なされ、自分も安国寺も危うくなる。元就の前でさえ「当たり前のこと」と笑われた知識が、今も無力だった。
恵瓊は般若心経を唱え始めた。しかし心は容易に静まらない。
知っている者は、語るべきか。語れば信じられるか。信じられれば、変えられるか。
その夜、恵瓊は夢を見た。京都の街に炎が上がり、人々が逃げ惑う。山の方角から焔が立ち昇り、誰かの叫びと泣き声が響く。顔も名前も見えない。
目が覚めた。夜明け前の本堂は深い闇に包まれていた。
輝元の時代が始まった。自分はその時代の中にいる。未来を知るがゆえの枷を背負った者として。
恵瓊は本堂を出て、庭に立った。東の空が白み始めていた。新たな日が昇る。その積み重ねが、やがて自分が知る「未来」へと繋がっていく。
変えられないのなら、見届けるしかない。だが、見届けることに意味はあるのか。
安芸の風が僧衣を揺らした。過去から未来へ吹き抜ける、時代の息吹のように感じられた。
その時、寺の門を叩く音が響いた。「安国寺殿! 輝元様より急ぎの御召しでございます!」
恵瓊は僧衣の袖を整えた。何かが、確かに動き出そうとしていた。




