第38話:問われる者
第38話:問われる者
翌朝、安芸国には霜が降りていた。庭先の土は白く固まり、踏むたびに乾いた音を立てる。井上春忠は、供の者一人だけを連れ、安国寺へと向かった。今日は、夜に紛れて訪ねるのではない。日の高いうちに、正門から堂々と入る。それが、昨夜のうちに定めた春忠の覚悟だった。
夜に忍ぶ必要はない。問うべきことがあるならば、日の下で問えばよい。春忠は馬上でそう思い定めながら、吐く息の白さを見つめていた。安国寺へと続く道は、霜を踏み固める馬蹄の音以外、何の音もしなかった。田の畦道には、霜柱がびっしりと立ち並び、朝日を浴びて、ほのかに光っている。冬の朝の静けさが、かえって春忠の胸の内の落ち着かなさを、際立たせているようでもあった。
道すがら、春忠はふと思う。毛利の家中にあって、外交僧という立場は、常に危うさと隣り合わせにある。大内、尼子、大友、織田——四方の情勢を読み、時に虚実を織り交ぜながら渡り歩く役目である。それゆえに、恵瓊のような男が、多少の秘密を胸に抱えていたとて、驚くには当たらぬのかもしれぬ。だが、木下藤吉郎という、いまだ何者でもない男の行く末を、あれほどまでに確信をもって語る様は、外交僧の駆け引きとも、また違う何かに思えてならなかった。
安国寺の門前に立つと、境内は思いのほか静かだった。掃き清められた石畳の上を、小僧が一人、箒を手に歩いてくる。春忠の姿を認めると、小僧は驚く様子もなく、慣れた足取りで近づいてきた。
「井上様でいらっしゃいますね。住職様がお待ちしております」
その一言に、春忠はわずかに眉を上げた。
「待っていた、と申したか」
「はい。今朝方より、お客人があると仰せになり、書院にてお茶の支度を」
待っていた——その言葉が、春忠の胸に小さな棘のように刺さった。今日、自分がここへ来ることを、恵瓊はあらかじめ知っていたということになる。使いの者を寄越したわけでもなく、文を交わしたわけでもない。それにもかかわらず、恵瓊は今朝から客を待ち、茶の支度までしていたという。単なる勘なのか、それとも、また別の何かがあってのことか。春忠は、そのどちらであるかを判じかねたまま、小僧の後について書院へと向かった。
書院に通されると、恵瓊はすでに炉の前に座り、茶を点てていた。柄杓を動かす手つきに、乱れは微塵もない。春忠が入ってきたことにも、さして驚いた様子を見せず、ただ静かに一礼しただけだった。障子越しの朝の光が、恵瓊の袈裟の肩口に、淡く落ちている。茶碗に湯が注がれる音、それだけが、しばらくの間、書院を満たしていた。庭先の梅の古木は、まだ蕾も固く、寒風に枝を鳴らしている。その静けさの中に座していると、昨日までの緊張が、ふと薄れていくような錯覚さえ覚える。だが、それこそが恵瓊という男の持つ、独特の間合いなのかもしれぬと、春忠は思い直した。
春忠は、勧められるままに上座に腰を下ろした。だが、茶を口にする気にはなれなかった。差し出された茶碗を前に、しばし黙したのち、懐から一通の書状を取り出す。昨日届いたばかりの、あの結び文である。それを、恵瓊の前の畳へ、静かに置いた。
「昨日の文だ」
春忠は、そう言うのが精一杯だった。
恵瓊は、その書状にちらと目をやったが、手に取ろうとはしなかった。茶碗を置く、かちり、という小さな音だけが、書院に響いた。しばらくの沈黙のあと、春忠は続けた。
「これは何だ」
恵瓊は、静かに答えた。
「見ての通り、拙僧の所察にございます」
その口ぶりには、動揺の色一つ見えない。だが、春忠にはそれが、かえって不自然に感じられた。
「所察では済まぬ」
春忠の声に、わずかに力がこもった。
恵瓊は目を伏せたまま、何も言わなかった。春忠は、その沈黙を許さなかった。
「あの藤吉郎という小物を、二度までもあのように記す理由は」
恵瓊は、少し間を置いてから、答えた。
「理由があったからにございます」
まだ、認めてはいない。答えているようで、何一つ明らかにしていない。春忠は、その物言いの巧みさに、内心で舌打ちをする思いだった。
春忠は、さらに踏み込んだ。
「あの夜も申した」
「お前は何者だ」
その問いは、初めて口にした夜と、寸分違わぬ言葉であった。だが、その重みは、あの夜とは比べものにならぬほど増していた。あの時はまだ、疑いの端緒に過ぎなかった。今は、確かな証を手にした上での問いである。恵瓊にも、それは伝わっているはずだった。
恵瓊は、しばらく庭の方へと目をやった。落葉が、風に押されて石畳の上を転がっていく。その音を聞くともなく聞いていたかのように、恵瓊はしばし黙したのち、ようやく口を開いた。
「僧にございます」
「違う」
春忠は即座に返した。恵瓊は、それでも顔色一つ変えなかった。
「僧だけではあるまい」
書院に、再び沈黙が満ちた。恵瓊は、しばらく目を伏せていたが、やがて顔を上げ、静かに口を開いた。
「春忠殿」
「人には」
「言えば災いになることがございます」
春忠は、何も言わずに聞いていた。恵瓊は、続けた。
「知っていても」
「誰にも言えぬことがございます」
春忠の声が、低くなった。
「それがお前か」
恵瓊は、それを否定もせず、かといって肯定もしなかった。ただ、静かに目を伏せるだけだった。その沈黙が、かえって雄弁に、春忠の問いを裏付けているように思われた。
春忠は、しばし目を閉じ、腹の底から一つの問いを絞り出した。
「ならば一つだけ答えよ」
「信長は滅ぶか」
恵瓊は、何も答えなかった。長い沈黙が続いた。遠く、寺の鐘が一つ鳴り、その余韻が、冷えた朝の空気に溶けていく。庭を渡る風の音だけが、その静けさを埋めていた。ようやく、恵瓊が口を開いた。
「この世に」
「滅びぬ者はございません」
「そういうことではない」
春忠は、苛立ちを隠さずに言った。恵瓊は、目を伏せたまま答えた。
「それ以上は、申し上げられませぬ」
春忠は、拳を握った。膝の上で、その拳がわずかに震えている。
「ならば、なぜ文を送った」
その一言には、怒りに似た響きがあった。恵瓊にこれ以上、言葉を弄させてなるものかという、春忠なりの意地でもあった。
その時、恵瓊の顔に、初めて感情らしきものがよぎった。目を上げ、まっすぐに春忠を見据える。
「信じていただきたかったのです」
静かな声だった。
「それだけにございます」
春忠は、驚いて目を見開いた。信じてほしい、その一言が、これほどまでに恵瓊の口から重く発せられるとは思ってもいなかった。
恵瓊は、なおも続けた。
「未来を」
「信じていただきたいのではございません」
「拙僧を」
「信じていただきたかったのです」
その言葉が、書院の静けさの中に、長く尾を引いた。春忠は、しばらく言葉を発することができなかった。恵瓊という男が、ここまで自らの内側をさらけ出したのを、見たことがなかったからである。占いでもなく、託宣でもなく、ただ一人の人として、信じてほしいと願う——その姿は、外交僧としての恵瓊とは、また別の顔だった。
春忠は、これまで恵瓊を、どこか底の知れぬ男として見てきた。外交の場では抜け目なく、時に食えぬ僧だとさえ思うこともあった。だが今、目の前にいるのは、そうした駆け引きの衣を脱ぎ捨てた、一人の人間だった。何を知り、何を恐れ、何を望んでいるのか——その全ては、いまだ明らかにならぬ。それでも、この男が、誰にも打ち明けられぬ何かを、たった一人で抱え続けてきたのだということだけは、痛いほど伝わってきた。
長い沈黙が、二人の間に横たわった。春忠は、やがて書状を手に取り、それを再び懐へと戻した。
「まだ疑問は残る」
「だが」
「あの夜も申した」
「今は疑わぬ」
恵瓊は、深く一礼した。それ以上、何を言うでもなかった。その一礼の中に、感謝とも、詫びとも取れる何かが、確かに込められているように、春忠には感じられた。
春忠は席を立ち、書院を辞した。門前まで来て、供の者を待たせたまま、しばし振り返らずに立っていた。背後で、恵瓊が見送りに出てきた気配があったが、春忠はあえて振り向かなかった。振り向けば、また何かを問いたくなる。今日はここまでにしておくのが、互いのためだと、春忠は思った。
恵瓊は、遠ざかる春忠の背を、いつまでも見送っていた。信じてもらえたとは思わぬ。だが、一人ではなくなった。その思いだけが、恵瓊の胸に、静かに、しかし確かに残った。寺の鐘が、再び一つ鳴った。
この日の対話は、二人の間にあった疑いを、完全に消し去るものではなかった。しかし春忠は、恵瓊を異端の者として糾弾する道を選ばず、当面は見守るという道を選んだ。それは武人としての甘さではなく、事の真偽を見極めるまでは軽々に動くべきではないという、慎重な判断でもあった。その帰路、春忠は馬上で、あらためて毛利家を取り巻く情勢に思いを巡らせた。尼子の残党はいまだ収まらず、西では大友、東では織田が、それぞれに勢力を伸ばしつつある。家臣として考えるべきことは、山ほどあった。それでも、懐に収めた恵瓊の書状だけは、他のどの軍報よりも重く感じられてならなかった。木下藤吉郎という、まだ名も知られぬ一人の武将の名が、なぜあれほどまでに恵瓊の心を占めるのか。その理由だけは、どうしても分からぬままだった。
一方、安国寺へ戻った恵瓊は、春忠がそれ以上問い詰めることなく帰っていったことに、安堵を覚えていた。同時に、自らの危うさをも、痛いほど自覚していた。今回の書状は、歴史を変えようとして送ったものではない。ただ、誰か一人でも、自分の言葉を受け止めてくれる相手が欲しかった。その弱さを、春忠との対話を経て、初めてはっきりと自覚したのである。
その夜、恵瓊は書状の控えを、火鉢の炭火にくべた。残しておけば、いつか誰かの目に触れるかもしれぬ。炎の中で文字が黒く縮れ、崩れていく様を見つめながら、恵瓊は自らに言い聞かせるように呟いた。未来を知ることと、未来を語ることとは、違う。その戒めを、胸の奥深くへと刻みつけるように。
数日の後、安国寺には輝元よりの新たな使者が訪れた。播磨方面の情勢が急速に動き始めており、外交僧としての恵瓊にも、調査と意見具申が命じられるという知らせであった。尼子再興を目指す残党の動きも、いまだ収まる気配はなく、毛利家は内にも外にも、気の抜けぬ状況に置かれている。恵瓊は、その使者の口上を静かに聞きながら、深く頭を垂れた。
恵瓊は再び筆を執った。今度の筆は、未来を書くためのものではない。乱世を生きる一人の外交僧として、毛利家のために書く筆である。春忠との一件を経たことで、私情と使命とを切り分ける覚悟が、以前よりもわずかに固まりつつあるのを、恵瓊自身、感じていた。
その頃、京においては、将軍を追われた足利の跡地で、織田信長が着々と政権の地固めを進めていた。織田家中にあっては、いまだ木下藤吉郎と名乗るその男が、各地の戦や普請において、少しずつ実を積み重ね始めている。毛利家にはまだ届かぬ、遠い地の小さな報せに過ぎない。だが、歴史の歯車は、誰に気づかれることもなく、静かに、確かに回り続けていた。
恵瓊だけが、その先に待つものの重さを胸に抱いていた。




