第25話:元就の最期
第25話:元就の最期
元亀二年六月、蒸し暑い夜が安芸を包んでいた。
未明、安国寺の門を激しく叩く音が響いた。
「恵瓊殿! 元就様が……!」
使いの声はかすかに震えていた。
恵瓊は袈裟を纏い、闇を駆けた。数え三十三歳。この時が来ることを、彼は知っていた。
元就の臥所は、薬の重い匂いと一つの燭台の灯りに満たされていた。老将は寝床に横たわり、呼吸が浅かった。数え七十五歳。顔は既に死相を帯び、頰は深く落ちくぼんでいる。それでも目を開けた瞬間、かすかな光が宿った。
「恵瓊……来たか」
声は枯れていたが、老将の気迫はまだ消えていなかった。
「はっ。元就殿」
恵瓊は床几の傍らに膝をついた。
元就はゆっくり息を吸い、吐いた。「時間がない……要は一つだ」
彼は恵瓊を正面から見た。「お前は何を見ている」
いつもの問いだった。だが今夜、その声には最期の重みがあった。
恵瓊は静かに答えた。「安芸の未来を……そして、毛利の未来を」
元就の唇の端が、わずかに動いた。「輝元を、頼む。あの者は優しすぎる。元春と隆景が支えねば、持たぬ。……お前も、側にいてやってくれ」
その言葉は、紛れもない遺言だった。
「はっ。安国寺恵瓊、輝元殿のお傍を離れませぬ。毛利の未来を、微力ながら見守り、支えまする」
元就は小さく頷いた。満足と疲労が入り混じった、複雑な表情だった。「妙な僧よ……最後まで、わからぬ男だ」
それが、毛利元就の最後の言葉となった。
老将は静かに目を閉じた。呼吸が、徐々に遠のいていく。やがて、燭台の炎が一瞬、強く揺れた。
元亀二年六月十四日。毛利元就、七十五歳にて死去。
恵瓊は深く頭を下げた。「……お疲れ様でござりました」
僧としてではなく、一人の人間として漏れた言葉だった。
御座所を出ると、廊下には既に人影が集まり始めていた。輝元が青ざめた顔で立っていた。数え二十歳。目が赤く腫れている。
「恵瓊……祖父は」
「元就殿、逝去なされました」
輝元は一瞬よろめいたが、すぐに背筋を伸ばした。「……担う。祖父の志を」
そこへ吉川元春と小早川隆景が急ぎ足で現れた。元春の表情は硬く、隆景の目は冷静だったが、両者とも深い悲痛を湛えていた。
「兄上……泣く暇はない」隆景が低く言った。「葬儀の手配と家中への触れ回りだ。信長の動きもある。今、動揺を見せてはならぬ」
元春が頷いた。「輝元。祖父の遺志は我らが守る。お前一人に背負わせはせぬ」
三人の姿を見て、恵瓊は胸の奥で小さく安堵した。元就は逝った。だが毛利は、まだ終わらない。
やがて家臣たちが慌ただしく動き始めた。使者が走り、命令が飛び、城中に悲報が広がっていく。毛利元就の死は、一人の老人の死ではなかった。中国地方全体を揺るがす大事件だった。
安国寺の裏山で、恵瓊は一人、吉田の方角を眺めていた。夏の夜明けが近づき、山々の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
「元就殿……見届けました」
重く湿った夏の風が吹いた。
知っていた。この死を。変えられなかった。誰も、歴史の大きな流れを止められない。
だが——
恵瓊は拳を軽く握った。
元就が逝った今、毛利は輝元の時代を迎える。信長の勢いはさらに強まり、遠からず京では大きな災いが起きるだろう。自分にできることは限られている。それでも、知っているからこそ、次に何が来るかを考え、備えねばならない。
小さな一文で山師を救ったように。小さな言葉で輝元を支えるように。歴史を変えることはできなくとも、人の命や運命の余白に、わずかな筆を加えることはできる。
蔵に戻り、恵瓊は硯を洗った。墨の黒い水が、夏の夜明けの光に溶けていく。
彼は経典を開いた。元就の冥福を祈る声が、静かに蔵に響いた。
知っている。これから先、激動の時代が待っていることを。だが今は、ただの僧として、経を誦し、次の務めを果たす。
元就の死は、歴史の一頁に過ぎない。しかしその頁の余白に、毛利の未来を記す者として、自分はここにいる。
誦経の声は、朝焼けの空へ静かに溶けていった。




