第24話:元亀の乱と炎
第24話:元亀の乱と炎
元亀二年、初夏の陽が安芸の山々を照りつけていた。
恵瓊は安国寺の蔵で経典を誦していた。数え三十三歳。転生して三十二年。現代の記憶は今も鮮明に頭の中に燦然と輝いている。
信長包囲網の激化——その報せは数日前に届いていた。姉川の戦いの後、浅井・朝倉との争いは続き、将軍義昭との対立も深まる一方だ。天下の流れは激しく揺れ、炎の気配を帯び始めていた。
だが恵瓊の心を最も苛んでいたのは、別の火だった。元就の病状。
夕方、本城からの使いが駆け込んできた。
「恵瓊殿。元就様が急変なされました」
恵瓊は経典を閉じた。胸が鋭く締めつけられる。
知っている。今年、元就は逝く。だが正確な日付も、病の末期の様子も、知らない。
「すぐに参る」
元就の臥所は重苦しい空気に満ち、薬の匂いが淀んでいた。元就は寝床に横たわり、目を閉じていた。数え七十五歳。顔は土色に痩せこけ、呼吸も浅い。だが目を開けた瞬間、その双眸にはまだ老将の鋭さが宿っていた。
「恵瓊、来たか」
「はっ。元就殿の御加減、いかがでございまする」
「加減か……」
元就は自嘲するように小さく笑った。「もう、立ち上がれぬ。昨日まではまだ座れたのだが」
恵瓊は黙って頭を下げた。
「座れ。今日は話がしたい」
「はっ」
燭台の火が灯され、部屋が薄暗くなった。
「隆元が、もう八年になるか……」
「はっ。永禄六年のことでございます」
「八年……」
元就は天井を見つめた。「元春は武に、隆景は智に長じる。輝元は誠実だ」
元就の声は静かだったが、確かだった。「家は一人で背負うものではない。支える者がいて、支えられる者がいる。一人が欠けても、弱る」
恵瓊は知っていた。後世に「三矢の訓」と語られる団結の教え。その真偽は曖昧だが、今この瞬間、老将の言葉は重い。
「元就殿。皆、それぞれに毛利を思っておりまする」
「そうであればよい」
元就は小さく笑った。「お前はいつもそう言う。安芸の未来を見ている、と」
その視線が、恵瓊を射抜いた。「だが、お前の目は未来と過去を同時に見ている。妙な僧だ」
「わたくしは、ただの僧でございまする」
「ただの僧が石見の山師を動かし、天下の動きを予測できるか」
元就は燭台の炎を見つめた。「私はお前を見定めたつもりだった。だが、違ったようだ……お前は私の知る何者でもない。だが、敵でもない。それだけは確かだ」
恵瓊は深く頭を下げた。
「ならば、頼みがある」
「はっ」
「これからも毛利を支えてやってくれ」
その言葉は、遺言に聞こえた。
「微力ながら、尽くしまする」
「そうか……」
元就は目を閉じた。「今日は、それでよい」
声に深い疲労が滲んでいた。
恵瓊は静かに部屋を辞した。
廊下で輝元と出会った。数え十九歳。顔色は青白く、目は腫れていた。
「恵瓊。祖父は……」
「御意識はまだ明瞭でございまする。しかし、御加減は芳しくありません」
輝元は唇を噛み、呟いた。「……祖父がおられなくなった後が、怖い」
恵瓊は静かに言った。「輝元殿。誰しも最初から強いわけではござりませぬ。元春様、隆景様、そして多くの者がおります。あなたは一人ではありません」
輝元は長く息を吐いた。「……わかった。逃げはせぬ」
帰路、恵瓊は安国寺の裏山に立ち寄った。初夏の風が山々を吹き抜ける。本城の灯が遠くに揺れている。
「元就殿。もう、お時間はござりませぬ……」
独り言が風に溶けた。
知っている。元就の死期を。信長の炎がさらに広がることを。多くの寺社が戦乱に呑まれることを。そして老将が、その先を見届けられぬことを。
現代の知識があっても、何もできない。薬の作り方も、治療の方法も、手に届かない。ただの僧として、祈ることしかできない。
蔵に戻り、恵瓊は硯を洗った。墨の黒い水が、初夏の雨に混じる。
元就はもう、立ち上がれない。知っていたこと。変えられなかったこと。
石見で山師の命を救った小さな成功はあった。しかし、歴史の大きな流れは止まらない。
恵瓊は経典を開いた。誦経の声が、静かな蔵に満ちていく。
遠からず、元就は逝く。その後も天下は動き、炎は広がる。だが今は、ただの僧として、経を誦すことしかできない。




