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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第23話:老将の憂い

第23話:老将の憂い


 元亀元年、夏の陽が安芸の山々を照りつけていた。

 恵瓊は安国寺の蔵で経典を誦していた。数え三十二歳。転生して三十一年。現代の記憶は今も鮮明に脳裏に焼き付いている。

 信長と浅井・朝倉の争いが始まったという報せは、数日前に届いていた。姉川の戦い。天下の流れは大きく揺れ始めている。

 だが恵瓊の心を占めていたのは、別のものだった。元就の老い。

 夕方、本城からの使いが来た。

「恵瓊殿。元就様が御座所にお呼びです。ただし……今朝より腰を痛められ、長くお座りになれぬとのこと」

 恵瓊は経典を閉じた。胸が鋭く締めつけられる。

 知っている。元就の死期を。元亀二年——あと一年足らずで、この老将は逝く。だが、病の詳細も、進行の速さも、正確には知らない。

「すぐに参る」

 元就の御座所は、いつもより空気が重かった。元就は床几に腰掛け、背を深く丸めていた。数え七十四歳。白髪と深い皺が、老いを如実に物語っている。だが、その双眸だけは、なお獣のような鋭さを宿していた。

「恵瓊、来たか」

「はっ。元就殿の御加減、いかがでございまする」

「加減か……」

 元就は自嘲するように小さく笑った。「腰が言うことを聞かぬ。長く座れば痛み、長く立てば震える。馬に乗ることも減った。老いというものだ」

 恵瓊は黙って頭を下げた。

「座れ。今日は話がしたい」

「はっ」

 燭台の火が灯され、部屋が薄暗くなった。

「隆元が、もう七年になるか」

「はっ。永禄六年のことでございます」

「七年……」

 元就は窓の外、夏の夜空を見上げた。「元春は武に長じ、隆景は智に長じる。輝元は——誠実だ」

 恵瓊は静かに耳を傾けた。

「誠実は乱世を生き抜くには足りぬ。だが、誠実でない者は人を集められぬ」

 元就はゆっくりと続けた。「元春、隆景、輝元。三人が争えば毛利は滅び、協えば興る。それだけのことだ」

 恵瓊は知っていた。後世に「三矢の訓」として伝えられる教え。史実か伝説か、その境界は曖昧だ。

「お前はどう思う」

「三人は協いまする。元就殿の御志を継ぎ——」

「継ぐ、か」

 元就は小さく笑った。「お前はいつもそう言う。安芸の未来を見ている、と」

 その視線が、恵瓊を射抜いた。

「だが、お前の目は未来だけを見ていない。過去も同時に見ている」

 恵瓊の背筋に冷たいものが走った。

「恵瓊。お前は妙な僧だ」

「わたくしは、ただの僧でございまする」

「ただの僧が、石見の山師を懐柔し、天下の動きを予測できるか」

 元就は燭台の炎を見つめた。「私はお前を見定めたつもりだった。だが、違ったようだ」「……」「お前は私の知る何者でもない。だが、敵でもない。それだけは確かだ」

 恵瓊は深く頭を下げた。

「ならば、頼みがある」

「はっ」

「輝元を見てくれ。元春と隆景も、だが——輝元を特にな」

 知っている。最期の言葉に近いもの。

「輝元殿ならば、担えまする」

「担う、か……」

 元就は目を閉じた。「私も、そう信じたい」

 言葉はそこで途切れ、深い疲労が老将の顔に落ちた。

 御座所を出ると、廊下で輝元と出会った。数え十八歳。顔色は青白く、目は赤く腫れていた。

「恵瓊。祖父は……」

「御意識は明瞭でございまする。ですが、御加減は芳しくありません」

 輝元は唇を噛んだ。「……祖父がおられなくなった後が、怖い」

 恵瓊は静かに言った。「輝元殿。元就殿はあなたを信じておられます。三人が協えば毛利は興る——それは輝元殿を含めたお言葉です」

 輝元は目を見開き、やがて大きく息を吐いた。「……わかった。担う。祖父の御志を、必ず」

 帰路、恵瓊は安国寺の裏山に立ち寄った。夏の風が山々を吹き抜け、遠く蝉の声が響く。本城の灯が、かすかに見える。

「元就殿。あと一年……いや、もう少しで……」

 独り言が風に溶けた。

 知っている。元就の死期を。信長の勢いがさらに強まることを。多くの寺社が戦乱に巻き込まれることを。そして老将が、それを目にする機会を失うことを。

 蔵に戻り、恵瓊は硯を洗った。墨の黒い水が、夏の雨に混じる。

 元就の老いは、既に深い。知っていたこと。変えられなかったこと。誰も、老いを止められない。

 石見で山師の命を救った小さな成功。しかし、歴史の大きな流れは変わらない。

 恵瓊は経典を開いた。誦経の声が、静かな蔵に満ちていく。

 知っている。元就の死後、天下が激しく動くことを。だが今は、ただの僧として、経を誦すことしかできない。

 老将の憂いは、歴史の一頁に過ぎない。恵瓊の知識も、無力も、そこには記されない。それでも彼は知っている。遠からず、信長の覇道が安芸にまで迫り、自分は再び「知っているがゆえの歯痒さ」を味わうことを。

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