第22話:元就の老い
第22話:元就の老い
安国寺の庭に、初夏の風が吹いていた。
恵瓊は石段に腰掛け、苔むした石灯籠を眺めていた。永禄十二年、西暦一五六九年。数え三十一歳の、ある日のことだった。
本城からの使いが届いたのは、午後のことだった。
「恵瓊殿。元就様が晩餐にお召しです」
毛利本城の奥座敷は、夕陽を受けて薄暗かった。元就は床几に腰掛け、背を丸めていた。数え七十三歳。髪は白く、顔には深い皺が刻まれている。だが、その目だけは今も鋭く、若い頃のままだった。
「恵瓊、来たか」
「はっ。元就殿のお招き、光栄に存じまする」
「光栄か……」
元就は小さく笑った。老いた獣の、わずかに緩んだ笑みだった。「座れ。今夜はただ飯を食うだけだ」
膳が運ばれた。鯛の煮付け、山菜の和え物、味噌汁。質素な食事だった。元就は常にそれを好んだ。
「恵瓊、石見の銀はどうなった」
突然の問いに、恵瓊は箸を止めた。「某山師頭が毛利の庇護に入り、採掘は順調でございます」
「ああ、知っている」
元就は味噌汁を啜った。「お前の文書が山師の心を掴んだそうだ。武力より飯か。妙な僧だな」
「お恥ずかしい限りでございます」
「謙遜はよい」
元就は箸を置き、静かに言った。「お前は、何を見ている」
その問いは、初めて会った時から繰り返されてきたものだった。
「わたくしは、安芸の未来を——」
「安芸の未来、か」
元就は窓の外を見た。夕陽が山々を赤く染めている。「私もそう見ていた。だが今は、もう少し先が見えぬ」
恵瓊の胸が締めつけられた。知っている。元就の死期を。元亀二年——あと二年ほどで、この老将は逝く。信長の台頭を、最後まで見届けられずに。
「元就殿。お殿様の御目は、まだ鋭く——」
「鋭いかもしれぬ」
元就は独り言のように続けた。「だが、体がついてこぬ。昨年、石見の山に登った時、息が上がった。あの時、初めて老いを自覚した」
膳が下げられ、燭台の火が灯された。
「隆元がいれば、楽だったのだが……」
「はっ」
「元春は武に長じ、隆景は智に長じる。だが、二人とも隆元のような器ではない」
恵瓊は黙って聞いていた。知っている。元就の死後、元春と隆景は輝元を支える。だが、長期的には毛利家は苦境に立つ。それ以上の細部は、恵瓊にもわからない。
「輝元はどうか」
「輝元殿は誠実でございます」
「誠実か……」
元就は燭台の炎を見つめた。「誠実は乱世を生き抜くには足りぬ。だが、誠実でない者は人を集められぬ」
元就は静かに語った。「元春、隆景、輝元。三人が争えば毛利は滅び、協えば興る。それだけのことだ」
恵瓊は知っていた。後世に「三矢の訓」として語られる教え。だが、それが本当にこの場で語られたものか、史実と伝説の境は曖昧だった。
「元就殿。三人は協いまする」
「協う、か」
元就は小さく笑った。「お前は、何を見ているのだろうな」
夜が更け、元就は臥所へ退いた。
恵瓊が廊下で初夏の風を浴びていると、輝元が現れた。数え十七歳。少年の面影はもう薄れていた。
「祖父は、何を語られた」
「元春様、隆景様、輝元殿の三人が協わねばならぬと。毛利の将来は三人の結束にかかっていると」
輝元はしばらく黙っていた。「……私にはまだ重い」
「はっ」
「だが、重いからこそ担わねばならぬ。祖父の志を継ぐのは私だ」
恵瓊は輝元の顔を見た。若さの中に、確かな責任感が宿っていた。
「輝元殿ならば、担えましょう」
「……そうか」
輝元は窓の外を見た。「信長殿の動きが、最近気になる」
恵瓊は内心で緊張した。永禄十一年に上洛し、将軍義昭を擁立した信長。もはや尾張の小大名ではない。
「信長殿は、大きなうねりを起こしておられます」
「うねりか……」
輝元は眉を顰めた。「祖父は信長をどう見ておられるのだろう」
「……わたくしには分かりませぬ」
帰路、恵瓊は安国寺の裏山に立ち寄った。本城の灯が遠くに見える。
「元就殿。あと二年……いや、もう少しで、お殿様は去られまする」
独り言のように呟いた。「その時、わたくしは何を申し上げられるでしょう。ただ、安芸の未来を見ておりまする、と。それだけでしょう」
初夏の風は、わずかに温かかった。
恵瓊は経典を取り出し、元就の長寿を祈る経を誦した。無駄だと知りながら。
蔵に戻り、硯を洗う。墨の黒い水が、初夏の雨に混じる。
元就は老い始めた。知っていたこと。変えられなかったこと。誰も、老いを止められぬ。
石見の銀山で山師の命を救った小さな成功。しかし、元就の老いは止められない。歴史の大きな流れは変わらない。
窓の外、初夏の風が安芸の山々を吹き抜ける。本城の方角は見えない。見えなくとも、知っている。元就が今も老いの身を横たえていることを。そして、自分はその老いを変えられないことを。
恵瓊は経典を開いた。誦経の声が、静かな蔵に満ちていく。
知っている。元就の死後、天下が大きく動くことを。だが今は、ただの僧として、経を誦すことしかできない。
元就の老いは、歴史の一ページに過ぎない。恵瓊の知識も、無力も、そこには記されない。それでも彼は知っている。遠からず、信長の覇道が安芸にまで近づいてくることを。そしてまた、「知っているがゆえの無力」を、深く味わうことを。




