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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第21話:石見の銀

第21話:石見の銀


 雪解けの水が、安国寺の石段を伝い落ちていた。

 恵瓊は蔵の窓際に立ち、遠く石見の方角を眺めていた。あの山脈の奥には、まだ見えぬ銀の脈が眠っている。転生前の記憶が告げる通り、後世に名高い石見銀山となる地だ。大陸への貿易を支え、幾多の政権を潤した富の源。

 今は永禄十年、西暦一五六七年。恵瓊は数え二十九歳の春を迎えていた。

 彼は硯に向き直り、石見国の年貢帳を広げた。尼子滅亡後の空白地帯。出雲の統治が優先される中、石見の真の価値に気づく者はまだ少ない。

「銀は、目に見えぬ剣よりも鋭い」

 その言葉を、誰にどう進言すべきか。

 翌日、恵瓊は本城へ向かった。雪解けの道は泥濘み、袈裟の裾が重い。湿った空気に梅の香りが混じっていた。

 輝元の御座所には、若き当主と側近の老臣の姿があった。

「恵瓊、春だな」

 輝元は窓の外、散り始めた梅を眺めた。

「はっ。雪解けの季節、石見の山々も動き出した頃かと」

「石見か……」

 輝元はさほど興味を示さなかった。「尼子を滅ぼしたばかりだ。出雲の統治が先であろう。石見は後でよい」

 恵瓊は一瞬言葉を詰まらせた。十五の少年に、銀山の経済的意義はまだ見えまい。軍事ばかりが目につく年頃だ。

「輝元殿、石見の銀山はただの山ではありませぬ。あの銀は軍資金となり、兵糧となり、他国を懐柔する力となります。今、尼子の旧領が空白の今こそ——」

「出雲の残党が奪う、と言いたいのか」

 輝元はわずかに眉を上げ、不機嫌さを露わにした。「その心配は祖父が既にしておられる。私に進言するまでもない」

 恵瓊は深く頭を下げた。知っていた。元就が石見に目を向けていることを。だが、知っていても、黙っていられなかった。これが未来を知る者の重荷だ。

「わたくしの浅知恵、お恥ずかしい限りでございます」

 帰路、恵瓊は安国寺裏手の丘に立ち寄った。雪は解け、土の匂いが立ち上る。遠く石見の山並みは霞んで見えない。だが彼は知っている。あの山の中で、今も銀が静かに眠っていることを。

「恵瓊殿」

 後ろから声がした。吉川元春の家臣だった。

「元春様がお呼びです」

 元春の陣屋は簡素で、武具の匂いが春の空気を刺した。

「座れ」

 元春は地図を広げ、石見の地形を指し示した。

「先日、輝元殿に石見のことを進言したそうだな」

「はっ。小僧の戯言でございます」

「戯言か……」

 元春は地図上の一点を叩いた。石見銀山の位置だ。「父上は既に目を付けている。だが、目を付けることと、押さえることは別だ」

 恵瓊が顔を上げると、元春は腕を組んだ。「銀山より大事なのは、そこに棲む山師たちだ。某山師頭が毛利への帰順を拒んでいる。兵を送れば従うだろうが、山師が散れば銀は掘れぬ」

 恵瓊は内心で計算を巡らせた。「元春様、山師は武士とは違います。彼らは山に棲み、銀に棲む。脅しでは従いませぬ」「では何で従う」「安堵と利益でございます。毛利殿が技を重んじ、採掘を妨げぬ。家族を守ると約せば、耳を傾けましょう」

 沈黙の後、元春は小さく頷いた。「父上の方針は既に定まっている。だが、山師への使者文は別に起こせる」元春は白紙を差し出した。「お前が書け」

 蔵に戻り、恵瓊は硯を洗った。墨の黒い水が、雪解けの雨に混じる。彼は筆を執った。

「石見の山師衆に告ぐ。毛利殿は汝らの技を重んじ、山を守ることを誓う。採掘を妨げぬ。代わりに毛利の庇護の下に入れ。他国の侵寇より守らん。銀の分け前を正当に支給する」

 数日後、元春の使いが届いた。「某山師頭、降伏を受け入れた」「山師は無事でござるか」「無事だ。兵を動かさずに済み、村も焼かれなかった。お前の文が最後の一押しになったそうだ。父上も面白い策だと申された」

 恵瓊の指がわずかに止まった。元就が評価した。それは褒美であり、同時に不吉な視線でもあった。

「父上はお前を見ている。山師の心を動かす僧……その知恵がどこまで届くか、見定めておられる」

 背筋に冷たいものが走った。元就は常に、自分を量っている。

 安国寺の裏手の丘で、恵瓊は再び石見の方角を見た。春の風が袈裟を揺らす。

「僧様」

 振り返ると、石工姿の男が立っていた。

「石見の者か」

「かつては尼子の山師でございました。今は毛利殿の下で」

 男は肩をすくめ、ふっと笑った。「今回は兵が来ずに済みました。それが一番でございます」

 恵瓊は黙って頷いた。男の背を見送りながら、彼は思った。

 大きな歴史は変わらない。尼子は滅び、毛利は伸び、信長も現れる。だが、その合間に救われる命はある。

 蔵に戻り、恵瓊は再び硯を洗った。墨の黒い水が、春の雨に溶ける。

 石見銀山の実権は毛利へ傾いた。それは自分がいなくても起きたことだろう。だが、山師たちは生き、村は焼かれなかった。それは自分が動いたからかもしれない。

 窓の外では、春の陽が安芸の山々を照らしていた。

 恵瓊は経典を開いた。誦経の声が静かな蔵に満ちる。

 知っている。後世に名高い銀山となることを。だが、それを誰かに語ることはできない。今の自分は、ただの僧だ。

 それでも、今日だけは。目の前の誰かを救えたかもしれない。その事実が、心をわずかに軽くした。

 春の風が吹く。元就は老いていく。だがその眼差しはなお鋭い。そして恵瓊は知っている。これからも、変えられぬ歴史と、変えうる人の運命の間で、揺れ続けることを。

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