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史実を知る僧は、歴史を変えようとした  作者: チャプタさん


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第20話:尼子の滅亡

第20話:尼子の滅亡


 安国寺の蔵に、秋の虫の声が忍び込んでいた。

 恵瓊は燭台の灯を見つめながら、硯に向かっていた。墨をすり、筆を執り、毛利輝元宛ての書状を起草する。表向きは尼子氏との国境情勢に関する報告に過ぎない。

 ふと筆が止まった。硯の黒い水面に、自分の顔が映る。

 数え二十八歳。転生して二十七年。現代の記憶も、未来の歴史も、いまだに色褪せずに脳裏に残っている。

 尼子氏は滅ぶ。その事実を、彼は幼い頃から知っていた。だが、知っていることと、変えられることは全く別だった。

 隆元を救えなかった時に学んだ。輝元を支えると決めた時に学んだ。そして元就という怪物を見続けたことで、深く思い知らされた。

 未来を知る者は、必ずしも未来を動かせない。むしろ歴史の巨大さを知るがゆえに、自らの無力を痛感するだけだ。

 翌日、恵瓊は毛利方の陣へ赴いた。

 若き当主・輝元は書状から目を上げた。「恵瓊、尼子の動向をどう見る」「内に乱れがございます。家中の結束は既に往時ほどではありませぬ」「滅ぶと思うか」

 恵瓊は一瞬、沈黙した。「このまま推移すれば……いずれは」

 嘘ではない。しかし真実でもない。恵瓊は“いずれ”ではなく、間もなく滅ぶことを知っていた。

 輝元はじっと彼を見つめた。「お前は時折、不思議な顔をする。まるで先を見ているようだな」「先を案じるのは僧の悪い癖にございます」

 そう答えるしかなかった。

 その後、軍は出雲へ進んだ。吉川元春と小早川隆景――毛利両川の軍勢は、着実に尼子氏を追い詰めていく。

 元春の本陣で軍議が開かれた夜、恵瓊は末席に控えていた。

「恵瓊」元春が呼んだ。「尼子が滅んだ後、出雲をどう治める」

 戦の最中から、すでにその先を見据えた問いだった。やはり元就の子だと、恵瓊は内心で苦笑した。

「百姓を安堵し、旧臣を見極め、従う者には道を残すべきかと」「威ではなく徳か」「威だけでは長く続きませぬ」

 元春は小さく笑った。「父上なら喜びそうな答えだ」

 恵瓊は返事をしなかった。元就なら、とうにその先まで計算し尽くしている。自分が知る未来など、あの老人にとっては不要なものだった。

 包囲は続き、戦死者は増えた。恵瓊は敵味方を問わず、経を唱え続けた。

 ある夜、本陣の外で若い武士と出会った。「尼子は終わりでござろうか」「城は落ちましょう」「だが心は落ちぬ」「その通りです」「山中鹿之介殿のような方もおられる……」

 その名に恵瓊は目を伏せた。知っている名前だ。しかし、その人物の人生の詳細までは知らない。大きな歴史の流れは知っていても、一人ひとりの命までは救えない。

 永禄九年十一月。月山富田城はついに開城した。尼子義久は降伏し、戦国大名としての尼子氏はここに滅亡した。

 輝元の陣では降伏文書の準備が進められていた。「恵瓊、文案を見よ」

 恵瓊は文面に目を通し、静かに筆を加えた。一行だけ。降伏した者に道を残す、わずかな慈悲の文言だった。

 輝元はそれを読み、眉をひそめた。「助命か」「出雲を治めるためにございます」「祖父ならどうする」「恐らく、許すべき者は許されましょう」

 しばらくの沈黙の後、輝元は小さく頷いた。「よかろう」

 その瞬間、恵瓊は胸の奥で小さく息を吐いた。

 尼子の滅亡は変えられない。だが、その後に生きる者を少しだけ増やせるかもしれない。それは歴史を変えることではない。それでも、無意味ではない。

 雪が降り始めた。

 安芸へ戻った恵瓊は、蔵で硯を洗った。黒い墨が白い雪に溶けていく。

 知っていた未来。止められなかった未来。だが今日、自分は一文を書き加えた。ほんの小さな一文。

「知っているがゆえに無力」そう思っていた。しかし本当に無力なら、一文すら書けなかったはずだ。

 窓の外では雪が静かに降り続いている。出雲は毛利のものとなった。だが歴史は止まらない。やがて織田信長が現れ、戦乱はさらに大きくなる。比叡山も焼かれ――。

 恵瓊はそこで思考を止めた。「まだ先の話でござる」

 燭台の火が静かに揺れる。風はない。ただ、自分の心だけが揺れていた。

 経典を開き、読経の声が蔵に響く。

 知っている。だが変えられない。それでも、何もできないわけではない。

 尼子の滅亡は歴史の一頁に過ぎない。しかしその頁の余白には、名も残らぬ人々の人生がある。恵瓊はその余白に、静かに目を向け続ける。

 一人の僧として。

 雪は、降り続けていた。

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