第19話:元就の試金石
第19話:元就の試金石
輝元の家督継承から二年、恵瓊は輝元の傍らで文書を学ばせる役を務めていた。
元就の後見の下、安芸の地は平穏に見えた。しかし恵瓊は、尼子氏の滅亡が近づく歴史を知りながら、ただ見守ることしかできなかった。
永禄八年の秋、恵瓊は数え二十七になっていた。
安国寺の寺領は、恵瓊の知識によって少しずつ豊かになっていた。山から引いた水路は田畑を潤し、輪作を取り入れた畑は収穫を増やした。蔵の管理も見直され、凶作への備えも進んでいた。
大きな改革ではない。だが、小さな積み重ねが百姓の命を確かに支えていた。
それでも恵瓊の心は、寺だけに留まってはいなかった。安芸の未来。毛利の未来。そして自らの未来。その全てが、館の方角へと繋がっていた。
輝元は数え十三になっていた。まだ少年である。しかし隆元を失った毛利家にとっては、すでに当主だった。元就の厳しい教育の下で学問を学び、武芸を学び、人を使う術を学んでいる。恵瓊もまた、その傍らで文書の手ほどきを続けていた。
そんな折、元就から呼び出しが来た。
久しぶりのことだった。恵瓊は館へ向かった。
書斎に通されると、障子の向こうから秋の陽が差し込み、静かな光が畳を照らしていた。元就は窓際に立っていた。数え六十九。確かに老いていた。だが、その背中から漂う気配は、少しも衰えていなかった。
「——来たか」
「はい。お呼びに預かり、参りました」
「坐れ」
恵瓊は末席に膝をついた。しばらく沈黙が続いた。元就は外を見たまま動かない。やがて、低い声が落ちた。
「——安芸の未来を見よ」
恵瓊の胸が僅かに強張った。忘れるはずのない言葉だった。初めて元就と会った日、まだ若い僧だった頃、同じ問いを受けた。あの時、恵瓊は「毛利氏が中国地方を統一する」と答えた。元就は笑って「当たり前のことを申すな」と言った。
十二年が過ぎ、再び同じ問い。試されている——恵瓊はそう悟った。
「……お答えいたします」
「申してみよ」
「毛利家は、さらに勢力を広げられるでしょう。尼子は追い詰められつつあります。石見でも毛利方の優勢は揺らいでおりませぬ」
元就は何も言わない。恵瓊は続けた。
「安芸、周防、長門のみならず、備後、出雲、石見にも影響は及びます」
「それだけか」
元就が振り返った。鋭い視線が突き刺さる。「十二年前と大差ないな」低い笑いが漏れた。「十二年も側に置いておきながら、まだそれか」
「恐れ入ります」
「恐れ入るな」
元就はゆっくりと近づいてきた。
「十二年前、お前は結果を語った。今も結果を語る。わしが聞きたいのは道筋じゃ」
恵瓊は頭を下げた。確かに自分は結果を知りすぎている。だから途中を飛ばしてしまう。だが元就は違う。未来を知らぬからこそ、道筋を考え続ける。それが戦国を生きる者の在り方だった。
「……失礼いたしました」
「申せ」
「尼子が弱れば、毛利の勢力は山陰へ広がります。ですが、その先に新たな敵が現れましょう」
元就の眉が僅かに動いた。「新たな敵とな」「はい」「どこから来る」
恵瓊は息を呑んだ。知っている。尾張から来る織田信長という、圧倒的な強者が。だが、それは口にできない。
「……東でございましょう」
「東」
「京を握る者が現れれば、やがて西を望みます」
元就は黙った。書斎に重い静寂が落ちる。やがて、静かに言った。
「京ですら定まらぬ世ぞ」
「はい」
「誰が握ると言う」
「わかりませぬ。ただ、京を握った者は必ず周囲へ手を伸ばします」
「なぜそう思う」
「大内もそうでした。力ある者は、更なる力を求めます」
元就はじっと恵瓊を見つめた。心の奥底を覗き込むような目だった。
「……なるほどな」小さく頷く。「面白い」
再び窓際へ戻りながら、元就は言った。
「お前は昔からそうじゃ。まるで見てきたように語る」
恵瓊の背筋に冷たいものが走った。
「恐れ入ります」
「恐れ入るな」
元就は笑った。「その目が、お前の価値じゃ」
静かな声に、しかし警戒の色が混じっていた。
「わしはお前を信用しておらぬ」
突然の言葉に、恵瓊は黙った。
「だが、使う。信用できぬほど先を読む者は、敵に回れば厄介じゃ」
元就らしい考え方だった。情でも、損得でもない。必要だから使う。それだけだ。
「お前は先を読み過ぎる。だが、未来を知っておるわけではない」
元就は振り返らない。独り言のように続けた。「知っておるなら、もっと上手く隠すはずじゃ。だから、お前はただ先が見える男なのじゃろう」
恵瓊は何も答えられなかった。
やがて元就は、短く命じた。
「恵瓊」
「はっ」
「輝元の側に居れ。わしが居なくなった後もじゃ」
恵瓊の胸の奥が重くなった。元就の死は、もう遠い未来ではない。あと数年。歴史は確かにそこへ向かっている。
「輝元は優しい。優しさは長所じゃ」
「はい」
「だが、それだけでは国は守れぬ。支えてやれ」
それは命令であり、祖父としての願いでもあった。
「承知しております」
深く頭を下げる。
館を出た頃には、夕暮れが迫っていた。恵瓊は山道を歩く。秋風が吹き、赤く染まった山々の向こうに石見の山並みが見えた。
尼子は滅び、毛利は伸びる。そして東では、まだ誰も気づいていない大きな変化が始まろうとしている。
知っている。だが、止められない。元就が自分を警戒するのも当然だった。未来を知る者など、本来この世に存在してはならない。
「……変えられない」
呟きが風に溶けた。
変えられない。だが、見届けることはできる。記録することもできる。歴史を知る者として、そして歴史の中を生きる者として。
恵瓊は空を見上げた。秋空は高く、澄み渡っていた。
明日もまた、館へ向かう。輝元の傍へ。元就の視線の中へ。歴史という大河の流れの中で、小さな歯車として回り続けるために。




