第18話:幼き輝元
第18話:幼き輝元
隆元の死後、恵瓊は安国寺に戻り、経を誦しながら歴史の流れの前に無力さを噛み締めた。数え十一の幼き輝元が毛利家を継ぐことを知りながらも、その現実をまだ遠いものとして見ていた。
隆元の葬儀から四十九日が過ぎた頃、恵瓊は元就の館に呼ばれた。
春の陽気が安芸の地を照らしている。
だが、館の空気は重かった。
隆元の死は、毛利家にとって単なる嫡男の死ではない。元就の後継者を失ったということだった。
「——来たか」
広間の奥で、元就が静かに座っていた。
数え六十七。
小柄な身体は以前と変わらぬはずなのに、どこか老いたように見える。
「はい。お呼びに預かり参りました」
「坐れ」
恵瓊は末席に膝をついた。
元就はしばらく黙っていた。
沈黙だけが広間を満たす。
やがて元就が口を開いた。
「輝元が家を継ぐ」
低い声だった。
恵瓊は頭を下げたまま答えた。
「左様でございますか」
知っていた。
毛利輝元。
隆元の嫡男。
数え十一。
後の中国地方最大の大名。
そして豊臣政権の五大老の一人。
さらに関ヶ原では西軍の総大将となる男。
だが、それは未来の話だ。
今は父を失ったばかりの幼子に過ぎない。
「まだ幼い」
元就が続けた。
「ゆえに、わしが後見となる」
「ごもっともにございます」
「恵瓊」
鋭い視線が向いた。
「輝元の傍に付け」
恵瓊は顔を上げた。
「私が、でございますか」
「文を教えよ。人を見せよ。世を見せよ」
元就は言った。
「武芸の師は他におる。家中の政も、当面はわしと隆景、元春がおる。じゃが、あの子には文と人を見る目が要る」
恵瓊は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「お前は遠くを見過ぎる」
元就がぽつりと言った。
「じゃが、それも役に立つことがある」
恵瓊は返答できなかった。
元就はどこまで見抜いているのだろう。
未来を知る自分の違和感を。
時折漏れる言葉を。
あるいは、それ以上を。
元就はそれ以上何も言わず立ち上がった。
「三日後に会わせる」
それだけ言って広間を出ていった。
◇
輝元を初めて間近で見たのは、その三日後だった。
館の庭。
若木の緑が風に揺れている。
その中で、輝元は木剣を振っていた。
汗を流しながら何度も何度も振る。
幼い。
だが、真剣だった。
「輝元様」
恵瓊が声を掛ける。
輝元は木剣を止めた。
「おお、お前が恵瓊か」
まだ少年の声だ。
だが受け答えには武家の嫡男らしい落ち着きがある。
「安国寺の恵瓊にございます」
「祖父上から聞いておる」
輝元は木剣を脇に置いた。
「文のことを教える僧じゃとな」
「微力ながら」
「わしは文より剣の方が好きじゃ」
そう言って笑う。
年相応の笑顔だった。
恵瓊は少し安心した。
史書の中の毛利輝元ではない。
まだ父を失ったばかりの子供だ。
「ですが当主には文も必要でございます」
「皆そう言う」
輝元は肩を落とした。
「祖父上も。叔父上たちも」
「皆、輝元様を案じておられるのでしょう」
「案じるというより期待しておる」
少年の顔が曇った。
「父上の代わりになれ、と」
恵瓊は言葉を失った。
父を失ったばかりの子供に向けるには重すぎる期待だった。
だが毛利家にそんな余裕はない。
中国地方の覇権を争う最中なのだ。
「隆元様は立派なお方でした」
「うむ」
「ですが、輝元様は輝元様でございます」
輝元が顔を上げた。
「同じにはなれませぬ」
「……そうか」
「なろうとする必要もございません」
しばらく沈黙が続いた。
やがて輝元は小さく笑った。
「お前は変わったことを言う」
「そうでしょうか」
「皆、父上のようになれと言う」
恵瓊は答えなかった。
未来を知るからこそ言える。
輝元は隆元にはなれない。
そして元就にもなれない。
輝元は輝元として歴史に名を残すのだから。
◇
それから恵瓊は館へ通うようになった。
文書の読み書き。
他家から届く書状の説明。
家中の者たちの紹介。
僧としての教養。
教えることは多かった。
ある日のことだった。
「恵瓊」
書見を終えた輝元が尋ねた。
「何でございましょう」
「祖父上は怖いか」
思わず苦笑しそうになった。
「恐ろしいお方ではございます」
「やはりそうか」
輝元は頷いた。
「わしも時々そう思う」
「ですが」
「うむ?」
「毛利家を誰よりも案じておられます」
輝元は黙った。
窓の外を見ている。
「祖父上は、わしに優しい」
「はい」
「父上が亡くなってから、なおさらじゃ」
恵瓊は頷いた。
元就は孫を鍛えている。
だが同時に守ってもいる。
隆元を失った今、輝元まで失うわけにはいかない。
「祖父上はわしを当主にできると思うか」
「思うからこそ厳しいのでございましょう」
「そうか」
輝元は少し嬉しそうだった。
まだ十一歳。
祖父の評価を気にする年頃だ。
◇
永禄六年の夏。
輝元の家督相続に関する諸手続きが進められた。
家中へ向けた触れ。
諸勢力への通知。
同盟相手への挨拶。
恵瓊は文案作成を手伝った。
元就が文面を確認し、修正し、最終的な形を整える。
輝元は横で学んでいた。
「当主とは面倒なものじゃな」
輝元が漏らした。
「まだ何もしておらぬのに文ばかり増える」
「それも務めでございます」
「戦の方が楽そうじゃ」
「元就様ならお怒りになります」
輝元は吹き出した。
「違いない」
その笑顔を見ながら、恵瓊は思う。
この少年が後に百万石を超える大大名となる。
だが今はまだ遠い未来だった。
◇
夏の終わり。
ある日の夕刻。
家督継承に関する一連の行事が終わった後、恵瓊は廊下で立ち止まった。
庭では輝元と元就が並んで立っている。
何かを話しているようだ。
声は聞こえない。
だが様子だけは見えた。
元就が孫の肩に手を置いた。
その手は大きくはない。
戦国を震わせる英雄の手にも見えない。
ただの祖父の手だった。
輝元は真剣な顔で頷いている。
その姿を見て、恵瓊は不意に胸が締め付けられた。
歴史書には書かれない光景だ。
謀聖と呼ばれる男も。
五大老となる男も。
今は祖父と孫に過ぎない。
「……変わらぬな」
思わず呟いた。
歴史は流れていく。
隆元は死んだ。
輝元が継いだ。
知っている通りだ。
だが。
その途中にある人々の感情までは知らなかった。
元就の悲しみも。
輝元の不安も。
知らなかった。
◇
その夜。
安国寺へ戻った恵瓊は蔵に座っていた。
灯火が揺れる。
外では虫が鳴いている。
輝元の顔が脳裏に浮かんだ。
「わしは父上のようになれるか」
あの言葉。
未来を知る自分には答えられない問いだった。
なれるとも言えない。
なれないとも言えない。
輝元は輝元として生きるのだから。
知っている。
栄光も。
挫折も。
後悔も。
だが、それはまだ先の話だ。
今の輝元は父を失った十一歳の少年でしかない。
「……変えられぬか」
静かに呟く。
歴史の大きな流れは変わらない。
隆元の死も。
輝元の継承も。
おそらくは。
だが、人の心に寄り添うことはできる。
記録を残すこともできる。
それだけは、自分にもできる。
恵瓊はゆっくり目を閉じた。
明日もまた館へ向かう。
輝元の傍へ。
未来の大名ではなく、一人の少年を支えるために。




