第17話:隆元の病
第17話:隆元の病
永禄六年の秋。
安芸の山々が少しずつ色づき始めた頃、恵瓊は寺領の見回りを終え、安国寺へ戻っていた。
住職となって三年。
寺領の収穫は安定し、蔵の備蓄も増えた。百姓たちは以前より飢えに苦しまずに済むようになり、元就の館から届く文書の依頼も年々増えていた。
変えられない大きな流れの中で、小さな成功だけは積み重なっていた。
そんな折だった。
「住職様!」
小僧が息を切らして駆け込んできた。
「毛利様の館から使いの方が!」
恵瓊は足を止めた。
使者は若い武士だった。
顔色が悪い。
ただ事ではない。
「安国寺殿」
武士は息を整える間もなく言った。
「隆元様がご病気になられた」
恵瓊の胸が冷たくなった。
毛利隆元。
元就の嫡男。
毛利家の未来を担う男。
そして――。
恵瓊が知る歴史では、この年に没する人物。
「症状は」
「高熱が続いております。食も進まず、日に日に衰えておられる」
恵瓊は静かに目を閉じた。
知っている。
だが知らない。
隆元が永禄六年に死ぬことは知っている。
しかし、いつ発病し、何日苦しみ、何を思って死ぬのかは知らない。
「元就様がお呼びです」
「承知しました」
恵瓊はすぐに支度を整えた。
毛利の館は重苦しい空気に包まれていた。
廊下を行き交う家臣たちの足取りは速く、誰もが不安そうな顔をしている。
次代の当主が病に伏した。
その意味を理解しているからだ。
恵瓊は元就のもとへ通された。
元就は机の前に座っていた。
以前より老いたように見える。
しかし目の鋭さだけは変わらない。
「来たか」
「はい」
「お前に薬草の知識はあるか」
「多少は」
現代知識と僧として学んだ知識を総動員しても、医師には程遠い。
それでも何もしないよりはましだった。
「熱を和らげる薬草なら存じております」
「書け」
元就は紙を差し出した。
「可能な限り集めさせる」
恵瓊は筆を取った。
柴胡。
黄芩。
その他、知る限りのもの。
書きながら胸の奥が重くなる。
もし歴史通りなら。
もし本当に隆元の死が近いなら。
これらは無力かもしれない。
だが、書かずにはいられなかった。
「これでございます」
元就は紙を受け取った。
「すぐに手配せよ」
家臣たちが動き出す。
部屋に静寂が戻った。
元就は恵瓊を見た。
「お前は諦めておるな」
「……」
「わしには分かる」
恵瓊は返答できなかった。
「効くかどうかは誰にも分からぬ」
元就は低く言った。
「ならば試すしかない」
その言葉は恵瓊自身へ向けられているようでもあった。
隆元の部屋は薬の匂いに満ちていた。
病は既に十日近く続いていた。
熱は上がったり下がったりを繰り返し、食もほとんど喉を通らない。
元就は日に何度も見舞いに訪れていた。
だが病は回復しない。
戦であれば知略で勝てる。
外交なら言葉で動かせる。
しかし病だけはどうにもならなかった。
「……安国寺の僧か」
隆元が薄く目を開いた。
「はい」
「父上が頼りにしておるそうだな」
「恐れ入ります」
隆元はかすかに笑った。
「父上は人を滅多に褒めぬ」
その顔はやつれていた。
まだ四十にもならぬ男とは思えない。
「わしはまだ死ねぬ」
突然、隆元が言った。
「毛利を継がねばならぬ」
その声には確かな意思があった。
「父上の後を継ぎ、家を大きくする」
恵瓊は答えられなかった。
歴史を知る者だからこそ。
返す言葉が見つからない。
「薬を」
恵瓊が勧める。
隆元は少しだけ口に含んだ。
しかし大半は飲み込めず、唇から零れ落ちた。
もはや身体そのものが衰弱していた。
「……情けないな」
隆元が苦笑した。
「こんな病ごときに」
恵瓊は黙っていた。
その後も病状は好転しなかった。
恵瓊は経を誦し、薬を運び、できる限りのことをした。
元就も毎日見舞った。
だが病は容赦なく進んだ。
そして数日後。
夜更け。
静かな部屋で。
隆元は息を引き取った。
恵瓊は枕元で経を唱えていた。
最後まで。
最後の瞬間まで。
だが結果は変わらなかった。
歴史はそのまま進んだ。
「……隆元様」
返事はない。
部屋の中には沈黙だけが残った。
やがて襖が開いた。
元就だった。
老人はゆっくりと息子の亡骸へ近づいた。
何も言わない。
ただ見つめている。
その背中が、ひどく小さく見えた。
長い沈黙の後。
元就はようやく口を開いた。
「最期に何か申したか」
「……まだ死ねぬ、と」
恵瓊は答えた。
それは事実だった。
元就は目を閉じた。
「そうか」
それだけだった。
だがその一言に、父としての思いが全て込められているように感じられた。
恵瓊は部屋を辞した。
廊下を歩きながら空を見上げる。
秋の夜空は高い。
冷たい風が吹いていた。
変えられなかった。
薬草も。
祈りも。
知識も。
隆元を救うことはできなかった。
だが、本当に何も残らなかったのだろうか。
元就は最後まで諦めなかった。
隆元もまた最後まで生きようとした。
その姿だけは確かに見届けた。
遠い未来の記憶が脳裏をよぎる。
輝元。
まだ幼い少年。
やがて毛利家を継ぐ者。
そして自分が仕えることになる人物。
歴史は次の頁へ進もうとしていた。




