第16話:新住職
第16話:新住職
永禄年間に入った頃のことである。
恵瓊は毛利元就の館を訪れていた。
近年は外交文書の起草を任されることも増え、安国寺の若い僧でありながら、毛利家中の空気に触れる機会も少なくなかった。
その日も書状の整理を終えて帰ろうとした時だった。
「恵瓊」
呼び止めたのは志道であった。
「今日は別の話じゃ」
「と申しますと」
志道は少し言いにくそうに目を伏せた。
「安国寺の住職様が倒れられた」
恵瓊の胸に冷たいものが落ちた。
自分を育てた老僧。
幼い頃から自分を見守り、警戒し、時に導いてくれた人物である。
天文の飢饉の折、何もできずに死んだ小僧の夜も見ていた。
東福寺へ送り出したのも、その住職だった。
「重いのでございますか」
「年齢も年齢じゃ。お前に会いたがっておる」
恵瓊は静かに頷いた。
個人の死は知らない。
歴史の大きな流れは知っていても、この老僧がいつ命を終えるかなど知りようがない。
だが、人は老いる。
それは予言ではなく現実だった。
安国寺へ戻ると、山門も本堂も昔のままだった。
幼子として目覚めた場所。
飢饉を見た場所。
そして自分が何かを知っていると最初に見抜かれた場所。
住職は方丈で横になっていた。
痩せてはいたが、目だけは昔と変わらず鋭かった。
「戻ったか」
「お見舞いに参りました」
「見舞いではない」
老僧はかすかに笑った。
「引き継ぎじゃ」
恵瓊は黙って座り直した。
「お前を住職にする」
その言葉は静かだった。
だが迷いはなかった。
「私には務まりませぬ」
「務まる」
老僧は即座に言った。
「お前は昔から人より多くを見ておる」
「買いかぶりでございます」
「そうではない」
老僧は恵瓊を見た。
「わしは十五年見てきた」
恵瓊は返す言葉を失った。
「お前は何かを知っておる」
昔と同じ言葉だった。
「だが、わしはついにそれを聞かなかった」
老僧は小さく息を吐く。
「聞けば寺のためになったかもしれぬ。だが聞かぬ方がよいと思った」
恵瓊は頭を下げた。
「住職様」
「お前は安国寺を守れ」
それが遺言だった。
老僧はその夏に息を引き取った。
葬儀は質素だった。
近隣の百姓たちと寺の僧たちが集まり、静かに送り出した。
毛利家からは使者が訪れた。
「元就様より弔意じゃ」
志道が包みを差し出した。
「ありがたく頂戴いたします」
「恵瓊」
「はい」
「館へ戻る道もあるぞ」
恵瓊は少し考えた。
確かに元就の近くにいれば出世は早い。
だが――。
「私は僧でございます」
そう答えた。
「まずは寺を守ります」
志道は苦笑した。
「お前は時々、欲がないのか深いのかわからぬ」
「私にもわかりませぬ」
それは本音だった。
こうして恵瓊は安国寺住職となった。
小さな寺だった。
寺領も多くない。
豊かな寺とは言えない。
だからこそ、恵瓊は工夫を始めた。
まず寺領の管理を見直した。
水路を整え、荒れた田を修復した。
蔵の保存方法も改めた。
湿気を避ける工夫を施し、備蓄の損耗を減らした。
派手な改革ではない。
だが効果は確実だった。
一年後には収穫が増えた。
寺の備蓄も安定した。
「最近は飢えずに済む」
「安国寺の坊様はありがたい」
そんな声が百姓から聞こえるようになった。
恵瓊は喜びきれなかった。
目の前の人々は救える。
だが国全体は救えない。
それを知っているからだ。
戦は続く。
飢饉も来る。
疫病も来る。
自分は歴史の先を知っている。
だが歴史そのものを止める力はない。
夜。
蔵の中で一人になると、幼い頃に死んだ小僧の顔が浮かんだ。
名も知らない。
墓も知らない。
それでも忘れられない。
あの時、自分は歴史を知っていた。
だが救えなかった。
「変わらぬな……」
小さく呟く。
寺は豊かになった。
百姓も助かった。
それでも世界は変わらない。
局所的成功。
大局的不変。
それが自分の立つ場所だった。
ある秋の日。
恵瓊は再び元就に呼ばれた。
「住職の務めはどうじゃ」
「なんとか果たしております」
「噂は聞いておる」
元就は笑った。
「百姓どもがお前を褒めておるそうだな」
恵瓊は黙って頭を下げた。
「だが、お前の目はまだ遠くを見ておる」
その言葉に背筋が冷えた。
元就は鋭かった。
「寺だけを見ておる男の目ではない」
「恐れ入ります」
「よい」
元就は地図へ目を向けた。
「これから先、毛利はさらに大きくなる」
静かな声だった。
だが確信に満ちていた。
「その時、お前にも働いてもらう」
恵瓊は深く頭を下げた。
「力の及ぶ限り」
帰路。
山道から見下ろす田畑は黄金色に輝いていた。
百姓たちが収穫に励んでいる。
自分の工夫で救われた者もいるだろう。
それは確かな事実だった。
だが、その向こうにはさらに大きな流れがある。
毛利家。
尼子家。
織田信長。
そして、まだ表舞台の端にいる木下藤吉郎。
歴史は止まらない。
自分の有無に関わらず進み続ける。
恵瓊は夕空を見上げた。
「それでも――」
見届けるしかない。
知っている者として。
そして、この時代を生きる一人の僧として。
風が吹いた。
その風は、やがて訪れる新たな別れの気配を運んでいるようだった。
毛利隆元。
その名が、ふと胸をよぎる。
まだ何も起きてはいない。
だが歴史は、静かに次の頁をめくろうとしていた。




