第35話 フレッドの帰還
マリーが大いに心配した魔物討伐も、フレッド・クラスト辺境伯にとっては当たり前にこなすべきルーティンワークであったので、軽傷者を二名出しただけで騎士団を引き連れて無事に戻って来た。
「フレッド! お帰りなさい!」
軍馬にまたがって帰宅したフレッドを見たマリーが、玄関の扉を開けて外に飛び出した。
だが、彼は馬から降りずに「近寄るな! 止まれ!」と鋭く言った。
「ひっど! 久しぶりに会った奥方さまに、なんつーことを言いやがるんですかあなたはっ」
少し後ろからついてきたアランが、小声でフレッドに注意したが、彼は「いや、だが……」と言い訳をする。
フレッドの塩対応にすっかり慣れているマリーは、言われた通りにその場に足を止めると、「おかえりー」と手を振って「遠征、お疲れさまでした。怪我はないと聞いているわ、それに元気そうなお顔で安心したわ。お守りが効いたのかしら」と明るく笑った。
立派な馬にまたがったアランは「こんな夫なのに優しく労わって、奥方さまが健気すぎる……というか、フレッドさまに辛く当たられてもめげない強靭な精神力が素晴らしすぎる……」と、感極まったように呟いた。
そして、「降りて! フレッドさまはここで降りて奥方さまに謝って! ちゃんとただいまをして!」と、遠慮なく主人を馬から蹴り落とした。
「アラン! 貴様、なにをする!」
なんとか転ばずに着地したフレッドは、アランを見上げて文句を言った。
「それはこっちのセリフ! ほら、馬は面倒見ておくからさっさと行きなって」
アランはフレッドの馬の手綱をつかむと、馬たちをパカパカ言わせて厩へと連れて行った。
「……まったく、もっと主人を敬えというのだ」
アランは振り返ると「それなら、もっと尊敬されるような振る舞いをしてくださーい」と言った。
「……」
身に覚えのあるフレッドは黙ってアランの背を見送った。
ぱっこぱっことアランが去り、残されたフレッドをマリーがじっと見つめた。もちろん、きちんと距離を空けている。
フレッドはもう一度「俺に近づくなよ」と言った。
「狩りの間には水浴びもろくにできない野営暮らしをしていたから、今の俺はとても臭いのだ」
フレッドは『ただでさえおっさん臭い歳なのに、そこに汗臭さや魔物臭さが加わっているからな』と、体臭を気にしてマリーを近づけなかったようだ。
「まあ、そうだったのね」
「話があるなら風呂の後で聞く」
「わかったわ。ロバート、フレッドのお風呂は沸かしてあるの?」
「ご用意してございます」
「それじゃあ、いい匂いのする香草袋をお風呂に入れてくるわね。森で摘んだ香草を干して作ったんだけど、お湯に浸けるととてもいい香りがするのよ。あとでわたしが嗅いで綺麗になったか確かめるから、しっかりと身体を洗うのよ」
マリーはそう言うと香草袋を取りに自分の部屋へと走って行った。
途中まで「うむ、そうか」と頷いていたフレッドは、マリーが嗅いで確かめる話で「おい!」と突っ込んだが、マリーの姿はとっくになかったので「まったく、あの女は……」とがっくり肩を落とした。
健脚のマリーはあっという間に屋敷の端にある自室に到着したらしく、窓を開けてそこから叫んだ。
「フレッドー、耳の後ろまでちゃんとこするのよー。わたしが背中を洗ってあげましょうかーっ?」
マリーは面倒見のよいお姉さんなのだ。
「いらんわ! 双子たちと一緒にするな!」
フレッドは『洗ってもらえばいいのに……』『ご褒美なのに……』という使用人たちの視線を振り払うようにして屋敷に入ったのであった。
そして、騒がしい妻のいる日常生活に戻ってきたことを実感し、胸の奥がほんのりと温かくなった。
お風呂上がりのフレッドの匂いを嗅ぐの嗅がないのという騒ぎはあったものの、クラスト辺境伯夫妻の仲は相変わらずであった。
マリーはさっそくフレッドを転がそうとして、彼の周りをうろついたりダンスの練習に誘ったりしたが、やはり付け焼き刃のテクニックなのでなかなか成功しない。不審に思ったフレッドが「おまえはなにがしたいんだ? 言ってみろ」と迫ったが、マリーは「やあん、恥ずかしいから言えないわ」と言って逃げてしまう。
しばらく殺伐とした生活をしていたので、そんな妻の愛らしい姿を見ていたフレッドは絆されそうになったが、下手に距離を縮めないようにといっそう気を遣っていた。
そしてマリーは「さすがはフレッドね、手強い相手だわ」と鼻息を荒くして、レベッカとカトレアに「大丈夫でございます。このようなことはたゆまぬ努力と繰り返しの施行が大切です」「諦めたらそこで負け。奥方さまは筋がいいからいつかきっとフレッドさまを殺れる……じゃなくて転がせる」などと応援されていた。
そうこうしているうちに、披露宴のためのドレスが仕上がった。
上質なシルクの生地にさりげなく花々の刺繍が施された淡いブルーのドレスは、胸元と腕を繊細なレースが包み込んで露出を減らした上品な仕上がりで、ウエストから下は軽く透けた布がふんわりと重ねられて、若妻の愛らしさを引き立てている。
「素敵だわ、まるで夢の国から現れたようなドレスよ。わたしが着ていいのかしら」
「奥方さまが着てこそですわ。たいそうよくお似合いでございます」
(うはああああああ可愛い可愛い可愛いそして若妻萌えというニッチなジャンルに見るものをぐいぐい押し込んでくるこの姿! さすがはわたしのマリーたん、ラブリー天使たん、尊いが過ぎます!)
「このお姿をご覧になったら、おそらくフレッドさまもその辺に転がってお腹を見せるのではないでしょうか」
「え?」
「いえ、奥方さまの魅力に完全降伏されるという意味でございます」
「まあ、レベッカったら。フレッドに気に入ってもらえるといいな」
「絶対に気に入ります。これで気に入らなければ男でございませんので、き……目ん玉をくり抜くべきでございましょう」
最近のレベッカは、カトレアの闇の気配に影響されたのか、ちょっとばかりおかしいようである。
王都へは、フレッドとマリーの他にはアラン、カトレア、レベッカが同行する。
向こうで滞在するヤウェン男爵家は家令のエルクと家政婦長のダーナが完全に掌握し、使用人たちも揃えているので、マリーの身の回りの世話には困らない。
フレッドも、しっかり者の両親の教育方針により、自分のことは自分でできる珍しい貴族として育てられたので、アランがいれば充分に手が足りるのだ。
「こんなに荷物があるの? 多過ぎない?」
巨大な旅行用の鞄がカートに積まれているのを見て、マリーは家令のロバートに尋ねた。
「奥方さまのお荷物は、衣類が多いですね。普段着の他に、外出用のドレスを多数お持ちしますゆえ。奥方さまはクラスト辺境伯夫人になられたのでございますから、王都での生活では服装にも身分にふさわしい格が求められるのです」
「面倒なのね。クラスト領では自由だからのびのび暮らせていいわ。わたしはこの地が性に合っているみたいよ」
「楽しそうにお暮らしになられて、わたし共も嬉しゅうございます」
食べられる木の実を取るために、しばしば野生の猿に変身するマリーを、ロバートは優しく見た。
「奥方さまは、きっとこの地の辺境伯夫人になるべくお生まれになった、選ばれし女性なのだと信じております。どうぞ、フレッドさまと末永く仲良く過ごされてくださいませ」
「んー、仲良くしたいのはやまやまなんだけどね」
唇を尖らせる辺境伯夫人であった。




