第30話 そんなに嫌わなくても……
(キ、ス? キスってわたしとフレッドが?)
マリーは、双子のケリーとヤリーへのおやすみのキスを、おでこにしたことは、もちろんある。ご褒美のキスを頬にするのも当たり前のことだ。
だが、今の場面のキスは、明らかに親愛の意味のものとは違うキスだろう。
若い(……フレッドも、まだ若い。いろいろな意味で元気である)男女が、しかも夫婦が、顔と顔を近づけて見つめあっているのだから。
(キスする時は……目をつぶるんだわ!)
目を見開いてフレッドの顔をガン見していたマリーは慌てて目をつぶる。ついでに口も閉めて、ちょっとだけ突き出してみる。
このチャンスを逃さないとばかりに、彼女なりにキスをしやすい環境を整えたのだ。
(さあ、フレッド! さあ! わたしの唇をどうぞ! これはキスから始まる恋愛なのよ)
彼の首に回した手に力を入れて、ぐいっと引っ張ってしまいたい気持ちを抑えて、乙女は恋する相手の口づけを待った。
(……まだ? あら?)
だが、ドキドキしながらいつまで待っても、フレッドの唇は接触してこない。それどころが、この不安定な体勢をキープしてびくともしないのだ。
さすがは猛禽紳士、体幹が鍛えられてる。
(どうしたのかしら?)
マリーはそっと右目だけ開けてみた。
黒い瞳が目の前にあった。
急いで閉じて、待つ。
だが、いくら待っても恋の始まりを告げるキスはやって来ない。
と、マリーの背中と腰を支えていたフレッドの手が、ウエストの辺りをホールドし、そのまま持ち上げて、少し離すようにしてマリーを立たせた。
目を開けたマリーに、表情をこわばらせたフレッドが温度のない声で「出ていけ」と言った。
「魔物の討伐に出る前に、済ませねばならない仕事が山積みで、俺はとても忙しい。この部屋から出て行ってくれ」
「そう、なのね」
「カトレアをやるから、メイドのレベッカと共に『旅の扉』と顔合わせをしてこい。王都には扉の力を使うからな」
「わかったわ……」
うつむいて、靴のつま先を見る。
(ひとりで期待して、わたし、馬鹿みたい……)
マリーは力のない声で「お仕事がんばってね」と言うと、執務室をあとにした。
現在、執務室はなんとも言えない嫌な空気になっている。
「ええと、フレッドさま?」
「なんだ?」
「すごく怒ってます?」
「……いや」
彼は机に向かうと、仕分けられた書類を確認し始めた。
「そんな急ぎの書類はないですよ」
「……」
「ずばり聞いちゃうけど、どうしてキスをしなかったんですか?」
「できるかっ!」
バン! と手のひらで机の上を叩く。
「あいつがどんな顔をしていたか見えたら、おまえだってそんな浮かれたことは言わなかっただろうよ!」
思わず立ち上がってしまったフレッドは、ため息をひとつつくとゆるゆると椅子に腰掛けた。
「あれは……酷い顔だった。まるで苦くて渋いものを口に入れてしまったように顔を歪め、逃げることができない小動物のように震えていたのだ。あれの立場では俺を拒否することができないからな、懸命に我慢していたのだろう。だが……」
「そんなに?」
「ああ。さすがの俺も、アレは堪えたぞ……」
フレッドはわかっている。
マリーへの振る舞いは、決して好意を抱かれるようなものではなかった。
それでも彼は「そんなに嫌わなくてもいいだろう……」と沈む気持ちを隠せなかった。
マリーは重い足を引きずるようにして、部屋に戻った。
勘のいいレベッカが、主人の気配を察知したのか「お帰りなさいませ」とドアを開けてマリーを迎え入れた。
彼女は正式にマリー付きに配置替えされてから、表面は冷静を保っているが、その下には熱い萌え心が燃えたぎっていた。
「どちらにいらしたのですか?」
「……フレッドの執務室よ。あとでカトレアがここに来るわ。いよいよ『旅の扉』に会わせてくれるんですって。もちろん、レベッカも一緒よ」
側仕えとして王都への同行が許されたレベッカも、『旅の扉』を使うことになるのだ。
「それは、楽しみ半分、緊張半分でございますね」
稀に扉に拒否される者も出てくるというので、レベッカは『可愛いマリーたんはずええええーったいに大丈夫! だと思うけれど、わたしは旅の扉を使わせてもらえるのだろうか』と不安が消せない様子だ。
「クラスト家の『旅の扉』だから、クラスト家の役に立つ人物なら快く送ってもらえると思うわ。頼りになるメイドのレベッカなら大丈夫よ」
「ありがとうございます」
(わたしはどうかな。役立たずだと判定されたら辛いな)
マリーは落ち込んだ気持ちを表さないようにして「ちょっと喉が渇いちゃったわ。お茶をくださいな」と笑顔でレベッカに頼んだ。
「少し摘める甘いものもあると嬉しいわ」
「そうでございますね……では、焼き菓子と、小さなサンドウィッチを準備いたしますね。少々お時間をいただきます」
「ええ、お願い」
有能なメイドは、マリーがひとりになりたい気分であることを察して、時間をかけたお茶の仕度をしようと考えた。
レベッカが部屋を出ていくと、マリーは悲しみに顔を歪めた。頬を涙が転がり落ちていく。
「わかってはいるけれど、あんなにあからさまに拒絶をされるとさすがにショックだわ」
最近、がんばりが認められて、マリーへの当たりも柔らかくなっていたため、フレッドとの仲が近づいたような気がしていたのだ。
だが、先ほど見せた固い表情と声音は……マリーを寄せつけない、攻撃にも似た態度だった。
「仕方がないわ。わたしではフレッドに釣り合わないし、彼に好きになってもらえる要素なんてわたしにはない。だけど……仮にも、奥さんなんだもん……」
マリーは両手で顔を覆って「あんなに嫌わなくたっていいじゃない……フレッドの馬鹿……もう知らないから……」と声を殺して泣いた。




