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虹色の彼岸、あなたへ〜四色の花嫁〜  作者: 有寄之蟻
第三部 「距離と信頼」
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第八章 チョウチョウ事件(二)・謝罪と再出発

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## 第八章 チョウチョウ事件(二)・謝罪と再出発


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 三日間、チョウチョウは来なかった。


 代わりに、本物のヤコが来た。


 本物のヤコは、最初の日から動作が違った。スカートの裾の扱いが自然だった。声のトーンが一定だった。言葉が一つも揺れなかった。


 璃生はヤコに、何も言わなかった。


 ヤコも、何も言わなかった。


 ただ、最初の日の朝、部屋に入ってきたヤコが、深く頭を下げた。


「兄のことを、申し訳ございませんでした」


「ヤコさんが謝ることじゃないです」


「いいえ。兄を止められなかったのはわたしの責任でもあります」


 璃生はヤコを見た。


 真面目な顔だった。


 本当に申し訳なさそうだった。


「ヤコさんは、知っていたんですか」


「……薄々は」


「止めようとしましたか」


「しました。でも兄は、わたしの言うことをあまり聞かないので」


 それはそうだろうな、と璃生は思った。


「ヤコさんのせいじゃないです」


「でも」


「チョウチョウさんが自分でしたことです。ヤコさんが謝る必要はない」


 ヤコは、しばらく璃生を見ていた。


 それから、また頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 声が、少し低かった。


 璃生は窓の外を見た。


「チョウチョウさんは今、どこにいますか」


「商会の仕事を手伝っています。一度戻ると言って」


「そうですか」


「……怒っていらっしゃいますか」


「よく分からないです」


 ヤコは何も言わなかった。


「でも、もう少し考えれば分かるかもしれない。だから待っています」


---


 三日が経った。


 四日目の朝、ヤコが璃生のもとへ来て、少し改まった顔で言った。


「兄から、お伝えしたいことがあると連絡がありました」


「チョウチョウさんから」


「はい。直接お会いしてお詫びがしたいと。ご迷惑でなければ、お時間をいただけないかと」


 璃生は少し考えた。


「今日の午後でいいですか」


「伝えます」


---


 午後、中庭に面した小さな談話室に通された。


 城の談話室は、璃生が今まで使ったことのない部屋だった。小さかった。窓が二つあって、外の庭が見えた。テーブルと椅子が四脚。


 先に入って待っていると、扉が開いた。


---


 チョウチョウが入ってきた。


 今日は侍女服ではなかった。


 普通の、男性の服を着ていた。


 シャツに、動きやすそうなズボン。商人らしい、実用的な服だった。


 黄金色のくせっ毛が、今日は束ねていなかった。少し乱れていた。


 琥珀色の目が、璃生を見た。


 まっすぐだった。


 でも、その目に、何か複雑なものが混じっていた。


 璃生も、チョウチョウを見た。


 男の人だ、と思った。


 侍女服のヤコとして見ていた一ヶ月と、地の声のチョウチョウとして話した朝と、今とで、同じ人なのに印象が全部違った。


 男の人。


 怖い、という感覚がかすかに来た。


 でも、小さかった。


 この人は、怖い人ではない、という感覚のほうが、少し大きかった。


---


 チョウチョウはテーブルの前に来た。


 立っていた。


 璃生も立っていた。


 向かい合った。


 チョウチョウが、頭を下げた。


 深く。


「申し訳ありませんでした」


 声が、落ち着いていた。


 でも、落ち着きの中に、何かが混じっていた。


「入れ替わりで侍女として側にいたこと、ニジトセ様を見下していたこと、軽率なことをしたこと。全部、謝ります」


 頭を上げた。


 目が、璃生を見た。


「どんな罰でも受けます。もう一度だけ、チャンスをください」


---


 璃生は、チョウチョウを見た。


 チャンス、という言葉が、少し頭の中で転がった。


 どんな罰でも受ける、という言葉も。


 罰か。


 璃生は罰という概念を、仕事をしていた頃に随分考えた。


 自分が受けるべき罰として、ああいう仕事を選んでいたのかもしれない、と思っていた時期があった。自分には罰が必要で、それが形になっているのかもしれないと。


 でも今は、罰という言葉が、あまりぴんとこなかった。


 璃生が欲しいのは、罰ではなかった。


---


「チョウチョウさん」


「……はい」


「一つ、お願いしてもいいですか」


「なんでも」


「タメ口で話してください」


 チョウチョウが、止まった。


「……え」


「敬語じゃなくて。タメ口で」


「……なんで」


「みなさん、わたしに優しくしてくれます。丁寧に話してくれます。それはありがたいんですけど」


 璃生は少し間を置いた。


「きつい意見を言ってくれる人が、近くにいないなと思って。本当のことを言ってくれる人が、いないなと思って」


「……」


「チョウチョウさんは、わたしのことを見下していたと言っていましたね。でもそれは、わたしをちゃんと見ていたからでもあると思うんです。面白いと思っていたと言っていましたよね」


「……ああ」


「だから、タメ口で話してください。きつい意見も、ちゃんと言ってください。遠慮しなくていいです」


 チョウチョウは璃生を見ていた。


 長い間、見ていた。


 琥珀色の目が、複雑だった。


「……そんなんで許すのか」


「許す、というか」


 璃生は少し考えた。


「怒っていないんです、そんなに。だから許すも何もなくて。ただ、もったいないなと思って」


「もったいない」


「チョウチョウさんが持っているものを、丁寧さで包んでしまうのが、もったいない」


 チョウチョウは、しばらく何も言わなかった。


 窓から光が入っていた。


 庭の木が、風に揺れていた。


「……本当におもしれー女だな」


 ぽつりと、言った。


 タメ口だった。


 地の声だった。


 璃生は口元が動いた。


「それです。その話し方のほうがいいです」


「……慣れるかどうか分かんないけど」


「慣れなくても大丈夫です。ずれても大丈夫です。むしろずれてるほうが、本当っぽくて好きです」


 チョウチョウが、また止まった。


 なんか言おうとして、でも何も出てこないという顔をした。


 璃生は手を差し出した。


「よろしくお願いします」


 チョウチョウが、手を見た。


「握手か」


「はい。チョウチョウさん、契約相手とは握手する人だと聞きました」


「……誰に聞いた」


「ヤコさんに少し」


 チョウチョウは手を見ていた。


 しばらく見ていた。


 それから、手を出した。


 しっかりした手だった。指が太くて、手のひらが広くて、温かかった。


 がっちりと、握られた。


「……よろしく」


 タメ口だった。


 璃生はその感触を、ちゃんと感じた。


 引き出しの鍵が、かかっていない状態で。


 温かい、と思った。


 怖くなかった。


 大きい手だったが、怖くなかった。


---


 握手を解いて、二人は椅子に座った。


 チョウチョウが、椅子に座るとき一瞬不思議な動きをした。スカートの裾を押さえようとして、スカートがないことに気づいて、普通に座り直した。


 一ヶ月ちかく侍女をしていたからだろう、と璃生は思った。


「侍女の格好、長かったので染みついてきましたか」


「……言うな」


「すみません」


「ヤコのほうが上手いんだよ、なんでも。おれよりずっと女の子っぽく動ける。なのになんであいつが入れ替わりを嫌がったかって言うと」


「どうしてですか」


「おれが先にやり始めたから、お前がやれって言われたら、あいつは断れないんだよ。妹だから。そういうやつなんだよ、ヤコは」


 チョウチョウの声に、少し苦いものが混じった。


「妹思いなんですね」


「……どっちかっていうと、妹に甘えすぎてる」


「自覚があるんですね」


「あるから余計に、タチが悪い」


 璃生はそれを聞いた。


「さっき、見下していたと言っていましたね」


「……ああ」


「詳しく聞いてもいいですか」


「詳しく」


「どんなふうに見下していたのか」


 チョウチョウは少し間を置いた。


「……最初は、縁結びの相手だって分かった。女神から来た、特別な人だって。でも会ってみたら、普通の人だった」


「普通」


「小さくて、静かで、特別な力もなくて、ただ読書が好きな普通の人に見えた。それで、ああ、これはうまくやれば懐に入れるって思った」


「それが見下す、ということですか」


「……情報として見ていた。利用できるかどうかで判断していた。ニジトセ様が何者か、本当のところを知ろうとしなかった。それが見下すってことだ」


 チョウチョウは、自分の手を見ていた。


「おれは、人を情報として見る癖がある。商人の家で育ったから、ものを見るとき、使えるか使えないかで判断する。それが人間に対しても出る。悪い癖だと分かってる。分かった上で、やめられてない」


「正直に言ってくれてありがとうございます」


「……礼を言うな」


「言います」


 チョウチョウは、少し困った顔をした。


「面白いとも言っていましたよね」


「……ああ。面白かった。心が読めないから何考えてるか分からなくて、見下してた部分もあるけど、それと別に、純粋に面白かった」


「何が面白いんですか」


「王子のとこに毎日行くこと。コールと図書館に入り浸ること。誰も近づけない二人に、あっさり入っていくことが。おれにはできないことだから」


「そうですか」


「……そうだよ。おれはどっちにも近づけない」


 チョウチョウの声が、少し低くなった。


「王子は、おれが近くに来ると感情が流れ込みすぎてパニックになる。コールは、インサクメア族の能力の影響を受ける人間を近くに置かない。どっちも、おれには壁がある」


「壁があるなら、壁を越える方法を考えるんじゃないですか」


「……考えたこともある。でも、向こうが辛いなら、無理して近づく必要もないかと思って」


「それは、相手を思いやっているんですか。それとも、諦めているんですか」


 チョウチョウが、璃生を見た。


 鋭い目だった。


「……両方だ」


「正直ですね」


「おもしれーことを言う」


「わたし、正直な人が好きです。自分が正直になれないから」


 チョウチョウは、少し止まった。


「正直になれない?」


「自分の気持ちが、よく分からないことが多いんです。だから、正直に言いたくても、何が本当かが分からない」


「……それは」


「難しいですよね」


「難しいな」


 二人とも、しばらく黙った。


 窓から外の光が入っていた。


 庭の木が、また風に揺れた。


---


「チョウチョウさん」


「なんだ」


「侍従として、改めて側にいてもらえますか」


 チョウチョウが、璃生を見た。


「……侍従」


「ヤコさんは侍女として。チョウチョウさんは侍従として。正式に、お願いしたいんですけど」


「おれが、ニジトセ様の側についていいのか」


「チョウチョウさんじゃないと頼めないことがある気がします」


「何だ」


「本当のことを言ってくれる人として、側にいてもらいたいんです」


 チョウチョウはしばらく何も言わなかった。


 テーブルの端に、指を置いた。


 トントン、と二回叩いた。


 考えるときの癖らしかった。


「……いいよ」


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


「言います」


「……だから面白いんだよな、おまえ」


 今度は、チョウチョウの口元が動いた。


 笑いかけていた。


 完全には笑わなかったが、笑いの手前まで来ていた。


「よろしくな」


 チョウチョウが、手を出した。


 今度は璃生から求めなかった。チョウチョウから出してきた。


 璃生は手を出した。


 握手した。


 さっきと同じ温かさだった。


 さっきより、少しだけ力が込もっていた気がした。


---


 談話室を出て、廊下を歩きながら、チョウチョウが言った。


「一個、聞いていいか」


「はい」


「キスのこと、本当に怒ってないのか」


 璃生は少し考えた。


「……怒っていないというより、悲しかったかもしれないです」


「悲しい」


「眠っているときにされたから。起きていたら、きちんと答えられたのに」


「答える」


「断るか、受け入れるか。どちらにしても、ちゃんと答えたかった。眠っているときに判断できなかったことが、悲しかった」


 チョウチョウは、廊下を歩きながら、しばらく黙っていた。


「……そうか」


「はい」


「次は、眠っているときにはしない」


「次があるかどうかは分かりませんよ」


「……分かってる」


 チョウチョウの声が、少し低くなった。


「でも、もしあったとしたら、眠っているときにはしない。それだけ言いたかった」


 璃生は、廊下の窓の外を見た。


 空が青かった。


「……ありがとうございます」


「礼を言うな」


「言います」


 チョウチョウが、小さく息を吐いた。


 あきれているような音だったが、嫌そうではなかった。


---


 その日の夕方。


 ヤコが夕食を持ってきたとき、璃生は言った。


「チョウチョウさんに、侍従をお願いしました」


 ヤコは一瞬止まった。


「……兄から聞きました」


「迷惑でしたか」


「いいえ」


 ヤコは夕食の準備をしながら、静かに言った。


「兄は、ニジトセ様に謝りたがっていました。でも、どう謝ればいいか分からなくて、焦っていました」


「そうでしたか」


「兄は……正直な人間ではないんです。情報として人を見る、と言ったと思いますが、それが身についてしまっていて。自分の気持ちに正直になるのが、苦手です」


「気持ちに正直になれないのは、分かります」


「……ニジトセ様も、ですか」


「はい。わたしも、自分の気持ちがよく分からないことが多いので」


 ヤコは璃生を見た。


「兄は、おそらく本当のことを言っていないことがたくさんあります。でも、昨日の謝罪は、本当のことを言っていたと思います」


「わたしもそう思いました」


「それを信じてくださって、ありがとうございます」


「ヤコさん、またお礼を言ってくれましたね」


「……はい」


「お礼より、一つお願いがあります」


「何でしょう」


 璃生は少し間を置いた。


「チョウチョウさんのこと、教えてください。ヤコさんが知っているチョウチョウさんのことを」


 ヤコは止まった。


「……何を知りたいですか」


「何でも。好きな食べ物でも、癖でも、嫌いなものでも」


 ヤコは、しばらく考えていた。


「……甘いものが好きです。わたしと同じで」


「そうなんですね」


「辛いものが苦手で、でも苦手だと言えなくて、食べようとして顔が赤くなります」


「かわいいですね」


「本人には言えませんけど」


「わたしも言いません」


 ヤコが、少しだけ笑った。


 璃生が王城に来て初めて見る、ヤコの笑顔だった。


「整理整頓が苦手です。すぐ散らかします」


「意外です」


「商売の帳簿だけは几帳面につけます。でも部屋はいつも散らかっています」


「面白いですね」


「昔から、そうでした。わたしがいつも片付けていました」


「ヤコさんが大変だったんですね」


「慣れました」


 ヤコは夕食の準備を続けながら、続けた。


「本当は優しい人です。でもそれを、なかなか素直に出せない人です」


「タメ口で話すのも、最初難しそうでしたよ」


「タメ口で……」


「お願いしました。正直に話してほしくて」


 ヤコは少し笑った気配がした。


「それを素直に受け入れたなら、兄も少し変わってきているのかもしれません」


「そうだといいです」


「……わたしも、そう思います」


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 その夜、璃生は胸の文様を確認した。


 三つの花の輪郭が、ある。


 金木犀を、じっと見た。


 白かった。


 でも今日、握手したとき。


 あの温かさを感じたとき。


 白さの中に、ほんの一瞬だけ、黄色がかった光が混じった気がした。


 気のせいかもしれなかった。


 でも、確かに見た。


 金色の光が、白の中に、一瞬だけ。


 璃生は服を戻した。


 窓の外に、星があった。


 今日は、良い日だったと思った。


 怒鳴られなかった。泣かなかった。


 ただ、話した。


 それだけで、何かが少し動いた気がした。


 璃生は目を閉じた。


 温かい手の感触が、まだ残っていた。


---


 翌朝。


 チョウチョウが、侍従として璃生の部屋へ来た。


 男の服を着ていた。


 璃生の前に立って、少し居心地悪そうな顔をした。


「……改めて、よろしく」


「よろしくお願いします」


「何からすればいいんだ」


「とりあえず、今日の予定を聞きたいです。午前に図書館、午後に王子のところへ行きます」


「付いていくのか」


「付いてきてもいいし、来なくてもいいです。部屋で待っていてくれても」


「……付いていく」


「じゃあ一緒に」


 チョウチョウが、璃生の隣に並んで立った。


 背が、璃生と同じくらいだった。


 璃生よりほんの少し高いくらい。


「コールとこ、おれ入っていいのか」


「分かりません。コールさんに聞いてみます」


「断られたら」


「外で待っていてください」


「……了解」


 廊下に出た。


 チョウチョウが、璃生の少し後ろを歩いた。


 璃生は歩きながら、横目でチョウチョウを見た。


 侍女服ではなく、男の服を着ていた。


 背筋が伸びていた。歩き方が、侍女のときより大股だった。自然だった。


 この人は、こういう人なんだな、と思った。


 侍女服も似合っていたが、今のほうが自然だった。


「チョウチョウさん」


「なんだ」


「侍女服、似合っていましたよ」


 チョウチョウが、止まった。


「……言うな」


「ヤコさんとそっくりでした」


「言うなって言った」


「かわいかったです」


「おれに向かってかわいいとか言うな」


 でも、耳が少し赤かった。


 璃生は口を閉じた。


 笑わなかった。


 笑いそうになったが、ぐっとこらえた。


---


 図書館の前に着いた。


「おれはここで待つ」


「コールさんに聞いてみます」


「いい。急がなくていい」


 璃生は扉を開けた。


 中に入った。


 いつもの本棚の匂い。いつもの静けさ。


 コールは奥の巣にいた。


「おはようございます」


「……おはよう」


 最近、コールが先に挨拶を返してくれることが増えていた。最初は無視されることもあったのに。


「一つ聞いてもいいですか」


「何だ」


「侍従の方が一人、廊下で待っています。図書館に入ってもいいか、聞いてほしいと言われました」


 コールが、止まった。


「……侍従」


「チョウチョウさんです。ファーブ族の方で」


 コールの目が、少し動いた。


「……ファーブ族か」


「はい」


「インサクメア族の能力の影響を、ファーブ族は受けにくい。ただし、ゼロではない」


「そうなんですか」


「……入ってもいいが、近くには来るな、と伝えろ」


「分かりました」


 璃生は扉のところへ戻った。


「チョウチョウさん、入っていいそうです。ただし近くには来るなとのことで」


「……了解。どこまでなら近いんだ」


「聞いてきます」


 璃生がコールのところへ行って戻ってきた。


「入口から二つめの本棚の前まで、ということです」


「具体的だな」


「几帳面な方なので」


 チョウチョウが図書館に入った。


 入口付近の棚の前で止まって、本を一冊手に取った。


 そのまま、棚の前に立って読み始めた。


 それ以上中へ入らなかった。


 璃生はコールのほうへ向かった。


 コールが、璃生が座る椅子の方向を、一瞬だけ見た。


「……今日もお茶を用意する」


「ありがとうございます」


「……侍従の分は、ない」


「チョウチョウさんは入口にいるので大丈夫です」


「……そうか」


 コールがお茶を用意し始めた。


 璃生は本棚から昨日の続きを探した。


 入口のほうから、かすかにページをめくる音がした。


 図書館が、今日は少し賑やかだった。


 三人分の気配があった。


 コールがそれを嫌がるかと思ったが、黙って茶器を使っていた。


 嫌ではないのかもしれなかった。


---


 昼前に図書館を出るとき、璃生はコールに言った。


「また明日来ます」


「……来い」


 最近、来るなと言われなくなっていた。


 璃生は扉のほうへ向かった。


 チョウチョウが、本を棚に戻していた。


「おれが読んだ本、どこに戻せばいい」


「持ってきてください、確認します」


 コールの声が、入口のほうに向かって言った。


 チョウチョウが少し驚いた顔をした。


 本を持って、コールが指定した棚の前まで来た。コールが指差した。チョウチョウが本を戻した。


「……ありがとうございました」


 チョウチョウが言った。


「……ああ」


 それだけだった。


 でも、それだけで十分だった。


---


 廊下に出て、璃生とチョウチョウは歩いた。


「コール、思ってたより話するんだな」


「最近はそうです。最初は黙っていることが多かったです」


「……おれに話しかけてくるとは思わなかった」


「コールさんは本のことになると、ちゃんと話します」


「本か」


「チョウチョウさんが読んでいた本、何でしたか」


「……鉱石の分類書の第二巻」


「面白かったですか」


「さっぱり分からなかった」


 璃生は少し笑いそうになった。


「分からなくて最後まで読んだんですか」


「分からないことが多すぎて、かえって面白かった」


「今度コールさんに聞いてみます。教えてくれますよ」


「……あの人が、おれに教えるか?」


「本の話なら、たぶん」


 チョウチョウは少し黙った。


「……そうか」


「入口から近づかなければ、大丈夫だと思います」


「了解した」


 廊下を歩きながら、チョウチョウが少し先を見た。


「ニジトセ様」


「なんですか」


「なんで、こんなに簡単に人を信用するんだ」


 璃生は少し考えた。


「簡単ではないですよ」


「じゃあなんで信用した」


「チョウチョウさんが、本当のことを言ったから」


「本当のことを言えば信用するのか」


「全部は信用しません。でも、本当のことを言おうとしている人を、完全に遠ざけることはしたくないです」


 チョウチョウは黙った。


「……難しい人だな、ニジトセ様は」


「よく分からない人、だと思います。自分でも」


「似たようなもんだ」


「チョウチョウさんもですか」


「おれもよく分からない。自分のことが」


 璃生はチョウチョウを見た。


 横顔が、少し正直だった。


「なら、一緒に分からないままでいましょう」


「……どういう意味だ」


「分からないまま、でも隣にいるということです」


 チョウチョウは止まらなかった。


 でも、少しだけ、歩く速度が落ちた。


「……変なやつ」


「よく言われます」


「誰に」


「自分に」


 チョウチョウが、小さく笑った。


 ちゃんと笑った。


 口の端が上がって、目が細くなった。


 璃生は前を向いたまま、それを横目で見た。


 いい笑顔だな、と思った。


 素直にそう思えた。


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*(第九章へ続く)*

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