第七章 チョウチョウ事件(一)
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## 第七章 チョウチョウ事件(一)
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王城に来て、一ヶ月が経った。
璃生の日常は、少しずつ形になってきていた。
朝、ヤコが支度を手伝ってくれる。朝食を取って、午前中は図書館へ行く。お昼を食べて、午後はユー王子のもとへ行く。夕方に部屋へ戻って、夕食を取って、夜は借りてきた本を読む。
それが、璃生の一日だった。
変わっていないことも、変わってきたこともあった。
変わっていないこと。引き出しの中に、押し込めたものがある。鍵を開けないようにしている。それは変わっていない。
変わってきたこと。ご飯が美味しい。本を読むのが楽しい。朝起きたとき、今日は何があるかと考える習慣が、少しずつついてきた。
大きな変化ではなかった。
でも、毎朝今日は何があるかと思えることが、以前はなかった。
それが、璃生には少し不思議だった。
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ヤコとの関係も、少しずつ変わっていた。
最初は、注意深い目をした侍女だった。
でも毎日一緒にいると、色々分かってきた。
ヤコは真面目だった。几帳面だった。璃生の部屋の整理整頓が、毎日完璧だった。本が増えても、どこに何があるか把握していた。
口数は多くなかった。でも、必要なことはきちんと言った。
気が利いた。璃生が何かを探していると、言う前に持ってきてくれた。疲れているときは、余計な話をしなかった。
璃生はヤコのことが好きだった。
ただし、ヤコが本当に誰なのか、璃生はうっすら気づいていた。
気づいていたが、生活に支障はなかったので、放置していた。
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最初に気づいたのは、王城に来て二週間目だった。
ヤコが、本棚の整理をしているときだった。
高い棚に手が届かなくて、踏み台に乗ろうとしたヤコが、自然な動作でスカートの裾をさっと押さえた。
女性的な動作だった。
でも、その直前、踏み台に足をかける動作が、どこか違った。重心の取り方が、スカートに慣れた人のそれではなかった。体が、スカートの存在を忘れているような動き方だった。
璃生は見ていたが、何も言わなかった。
別の日。
ヤコが外から戻ってきたとき、何かにぶつかって、ちょっと、と言いかけて、あいたっ、に言い直した。
ちょっと、という言葉の頭の音が、女性的ではなかった。
璃生は聞いていたが、何も言わなかった。
また別の日。
璃生が眠ったと思ったヤコが、部屋を出るときに、「ハー疲れた」と低い声でつぶやいた。
廊下に出てからつぶやいたのか、扉の近くでつぶやいたのか分からない。でも璃生の耳に届いた。
ハー疲れた、の声が、いつものヤコの声より半音低かった。
璃生は布団の中で、目を開けていたが、何も言わなかった。
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ヤコがチョウチョウではない日があることにも、気づいていた。
本当のヤコは、もう少し動作が滑らかだった。踏み台に乗るとき、スカートを忘れることがなかった。言葉が、一つも揺れなかった。
チョウチョウの日は、どこかがほんの少し、ずれていた。
ただ、どちらの日も、璃生の世話を丁寧にしてくれた。どちらの日も、必要なことをしてくれた。
だから、どうでもいいといえばどうでもよかった。
どうでもいい、というより、今は他に考えることがあった。
ユー王子のこと。コールのこと。縁結びのこと。
チョウチョウ本人と会っていないことは気になっていたが、急ぐ必要もない気がしていた。
光は感じていた。時々、廊下の向こうや庭の方向に、金色がかった白い光が揺れているのが見えた。縁結びの光だった。
どこかに、いる。
それだけ分かっていれば、今は十分だった。
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一ヶ月と五日目。
その日は、ヤコのずれが少し大きかった。
朝から、普通のヤコよりも声が低かった。仕草が、少し大雑把だった。
チョウチョウの日だ、と璃生は思った。
でも特に言わなかった。
その日の午前中、図書館でコールと話して、戻ってくると、ヤコが茶を用意して待っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいまです」
璃生はソファに腰を下ろした。
ヤコがお茶を持ってきた。
テーブルに置くとき、少しだけカップが揺れた。お茶がこぼれそうになった。ヤコが素早く布で拭いた。
「すみません」
「大丈夫です」
璃生はお茶を受け取った。
「……ヤコさん」
「はい」
「今日は疲れてますか」
ヤコは少し止まった。
「いいえ、そのようなことは」
「そうですか」
璃生はお茶を飲んだ。
美味しかった。コールのところで飲む花の香りのお茶とは違う、すっきりした茶だった。
「ヤコさんて、どんな食べ物が好きですか」
「え?」
「急に思い立って聞いてみました。好きな食べ物」
ヤコは少し間を置いた。
「……甘いものが好きです」
「どんな甘いもの」
「焼き菓子が、特に好きです。バターと砂糖を使った焼き菓子」
「美味しいですよね。わたしも好きです」
「ニジトセ様のご出身の世界にも、似たものがあるのですか」
「あります。クッキーとか、パウンドケーキとか」
「……クッキー」
「さくっとした焼き菓子です。薄くて、固めで」
「……それは美味しそうですね」
ヤコの声が、すこし素に近くなっていた。
甘いものの話をすると、声のコントロールが少し崩れるらしかった。
璃生はそれを見ていたが、何も言わなかった。
「この国に似たものはありますか」
「城の厨房で作るカラカリという焼き菓子が、近いかもしれません。薄くて、さくさくしています」
「食べてみたいです」
「……今度、持ってきましょうか」
「ぜひ」
ヤコは、また少し止まった。
「自分から言っておいて、持ってこられるか確認してみます」
「お願いします」
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その日の午後。
ユー王子のもとから戻ってきた璃生に、ヤコが言った。
「ニジトセ様、少々お疲れではありませんか。今日は早めに休まれてはいかがでしょう」
「そうですね、少し疲れました」
王子のもとへ通う日課は続いていた。最近は、格子越しに本の朗読をするのが定例になっていた。璃生が声に出して読むと、王子の耳がぴんと立つ。それが璃生には、ちょっと嬉しかった。
今日は少し長く読んでいたので、喉が疲れていた。
「お湯を用意します。湯浴みをされますか」
「お願いします」
ヤコが浴室の準備をしてくれた。
璃生は湯浴みをして、部屋着に着替えた。
ソファに座って、ぼんやりしていた。
窓から夕方の光が入っていた。
今日は良い一日だった、と思った。
コールが、初めて「植物の成分の変化」について話してくれた。璃生が聞いたのではなく、コールが話し始めた。それが少し嬉しかった。
王子が、今日は本の朗読の途中で、格子の近くまで来てくれた。ほんの少しだけ。でも、昨日より近かった。
焼き菓子の話が出た。
いい一日だった。
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ヤコが部屋の片付けをしていた。
璃生はソファでぼんやりしながら、窓の外を見ていた。
夕日が傾いていた。
外の木々が、橙色に染まっていた。
きれいだな、と思った。
思いながら、眠くなってきた。
昨夜、本を遅くまで読んでいたので、睡眠が少し足りていなかった。
目が重くなってきた。
そのまま、うとうとした。
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どのくらい経ったか、分からなかった。
ふっと、意識が戻った。
眠っていたようだった。
ソファに座ったまま、少し眠っていた。
部屋が静かだった。
ヤコは、片付けを終えてどこかへ行ったのだろうか。
璃生はゆっくり目を開けた。
そのとき。
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唇に、何かが触れた。
一瞬だった。
本当に、一瞬だった。
でも確かに触れた。
温かくて、柔らかいものが、璃生の唇に触れた。
璃生は目を開けた。
目の前に、顔があった。
近かった。
ヤコの顔だった。でも、普段のヤコよりずっと近い。ほとんど鼻先が触れそうな距離に、ヤコの顔があった。
琥珀色の目が、璃生の目を見ていた。
目が合った。
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璃生の中で、何かが、すっと消えた。
怖い、でもなかった。
驚き、でもなかった。
何も、なかった。
無になった。
完全に、無。
感情の引き出しが、全部一瞬で閉まった。
鍵がかかった。
中に何もないかのように、全部、閉まった。
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ヤコが、璃生から顔を離した。
素早く、後退した。
璃生はヤコを見た。
ヤコは、壁際まで後退していた。
顔が、赤かった。
でも赤いというより、青かった。
赤くなっていたのが、一瞬で青くなった。
ヤコの目が、璃生の顔を見ていた。
璃生の顔が、どう見えているのか。
璃生には分からなかった。
ただ、自分の顔から何の感情も出ていないことだけは、なんとなく分かった。
無、だから。
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しばらく、静寂があった。
夕日が、窓から差し込んでいた。
璃生は、ゆっくり息を吸った。
「……ヤコさん」
「はい」
ヤコの声が、いつもより低かった。いつもより、もっと低かった。完全に地の声だった。
「今のは、何ですか」
「……」
「ヤコさん」
「……申し訳、ございません」
「謝罪は聞きました」
璃生は言った。
「何だったか、聞いています」
ヤコは、璃生を見ていた。
琥珀色の目が、固まっていた。
「……軽率な行動でした」
「はい」
「本当に、申し訳ありませんでした」
「……はい」
璃生はソファの背に、ゆっくりと体を預けた。
窓の外を見た。
夕日が、少しずつ沈んでいた。
木々の影が長くなっていた。
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璃生の中は、まだ無だった。
怒っているのかと言われると、怒っている気がしなかった。
悲しいのかと言われると、よく分からなかった。
ただ、無だった。
引き出しが全部閉まった状態。鍵がかかった状態。
このまま開かなければいい、と思った。
开かなければいい。
でも、一つだけ、頭の中でぐるぐるしていることがあった。
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璃生は窓の外を見たまま、つぶやいた。
「自分の問題も解決できていないのに」
「……え」
「人の縁結びをしている場合なのかな」
ヤコは、何も言わなかった。
「わたし、人が近づくのが怖いです。男の人が、特に。どうしてかは、分かっています」
璃生は言った。
自分に向かって言っていた。
「それが解決していないのに、縁を結ぶとか、子どもを産むとか、できるのかな」
「……ニジトセ様」
「できるのかもしれない。できないのかもしれない。分からない」
璃生はソファの背から体を起こした。
「今日は早く寝ます」
「……はい」
「ヤコさん」
「はい」
「今日のことは、一晩考えます。明日、話しましょう」
ヤコは頭を下げた。
「……承知いたしました」
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ヤコが部屋を出た。
扉が閉まった。
璃生は一人になった。
ベッドに横になった。
天蓋を見た。
白い布が、揺れていた。
風がないのに揺れていた。
気のせいかもしれなかった。
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引き出しの鍵を、少しだけ開けてみた。
何が出てくるか、確認するように。
怒り。
少しあった。でも、大きくなかった。
怖さ。
あった。あの瞬間、目が覚めたとき、怖かった。体が反応した。
でも、体が固まったのは怖さからか、それとも無になったのは別の理由からか。
よく分からなかった。
引き出しを閉めた。
また考えると、また無になりそうだった。
今夜は、考えるのをやめようと思った。
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夜空が、窓から見えた。
星が、いつもと同じように出ていた。
璃生は星を見ながら、王子の話を思い出した。
今日の朗読の途中で、王子が格子の近くまで来た。
金色の瞳が、近くで璃生を見ていた。
あの距離が、怖かった。
でも、本を読む声が止まらなかった。
続きが気になったから。
それだけだった。
続きが気になって、読み続けていたら、王子が近づいていた。
怖かったが、続きが気になる気持ちのほうが大きかった。
不思議だと思った。
怖いより、別のことが大きくなる瞬間が、最近少しずつある。
それが、なんというか。
良いことなのか、悪いことなのか、まだ分からなかった。
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眠る前に、胸の文様に触れた。
三つの花の輪郭が、そこにあった。
金木犀と、黒椿と、水仙。
まだ白かった。
でも、三つとも、確かにそこにある。
消えていなかった。
璃生は目を閉じた。
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翌朝。
ヤコが来た。
ドアのノックが、いつもより遠慮がちだった。
「おはようございます」
「おはようございます」
ヤコは部屋に入って、支度の手伝いを始めた。
璃生はヤコを見た。
「昨日、考えました」
「……はい」
「怒っているかと言われると、怒っているかよく分からなかったんですけど」
「……はい」
「ヤコさんが謝ってくれたので、それはちゃんと受け取りました」
「……ありがとうございます」
「ただ」
璃生は少し間を置いた。
「ヤコさんが本当にヤコさんなのか、それともお兄さんなのか、どちらですか」
静寂があった。
長い静寂だった。
ヤコが、璃生を見た。
琥珀色の目が、固まっていた。
「……どちらだと思われますか」
「お兄さんだと思います」
また静寂があった。
今度は、短かった。
「……正解です」
声が、地の声になった。
女性の声ではなく、男性の声。いつもより低くて、少し乱暴な質感のある声だった。
「チョウチョウさん、ですか」
「……そうです」
その名前を言われたとき、ヤコ——チョウチョウが、少しだけ顔を歪めた。
「初日から、気づいてたのか」
「うっすら、途中から」
「……なぜ言わなかった」
「生活に支障がなかったので」
チョウチョウは、少しの間、璃生を見ていた。
昨日とは違う目だった。
昨日の目は、青ざめていた。
今日の目は、複雑だった。
「昨日のことは」
「謝罪は受け取りました」
「……ニジトセ様が眠ってたから、少しだけ、と思って。本当に軽率だった」
「はい」
「怒鳴ったり、泣いたりしないんですか」
「怒鳴るほど怒っていないし、泣くほど悲しくない。でも良いことだとも思っていないです」
チョウチョウは、また複雑な顔をした。
「……なんでそんなに落ち着いてるんだ」
「落ち着いているというより、よく分からなくなっています」
「よく分からない」
「はい。自分の感情が、よく分からない」
チョウチョウは黙った。
璃生も黙った。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
璃生は言った。
「……なんだ」
「縁結びの相手だと分かっていて、していたことですか」
チョウチョウは、一瞬固まった。
「……」
「分かっていたなら、分かっていたで、話が変わります。分かっていなかったなら、それはそれで別の話です」
「……分かっていた」
チョウチョウは言った。
「分かっていて、それでも、見下していた」
璃生は聞いた。
「女神から来た縁結びの相手だから大事にしなくちゃいけない、でもそれをちゃんとしなかった。ニジトセ様が何を考えているか分からなくて、面白いと思って、なめてかかっていた」
「そうですか」
「昨日のことは、軽率だったし、最低だった。分かった上で言っている」
チョウチョウの声は、今は地の声だった。
飾りがなかった。
璃生はその声を聞いた。
「ありがとうございます。正直に言ってくれて」
「礼を言われることじゃない」
「そうかもしれないですけど、言います」
璃生は窓の外を見た。
今日も空が青かった。
「チョウチョウさん」
「……なんだ」
「続き、は、もう少し待ってください。わたしも、整理したいことがあるので」
「……続き」
「昨日の話の続き。怒っていないかとか、どうするかとか、そういう話の続きです」
「……急がなくていい」
「じゃあ、少し待ってください」
チョウチョウは頷いた。
短く、一度だけ。
「……分かった」
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チョウチョウが部屋を出た。
いや、正確には。
チョウチョウが扉に向かって、扉の手前で止まった。
「……本当に、申し訳なかった」
振り向かずに言った。
「受け取りました」
璃生は言った。
扉が、静かに閉まった。
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璃生は窓の外を見た。
空が青かった。
胸の文様に触れた。
金木犀の輪郭がそこにあった。
白かった。
まだ白かった。
でも、消えていなかった。
どんな色に変わるのかは、まだ分からなかった。
でも、消えていないということは。
まだ、何かが続くということだ。
璃生はそう思いながら、今日の支度を自分で始めた。
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*(第八章へ続く)*




