第三部 第六章 図書館の主と言葉
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##第三部 「距離と信頼」
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## 第六章 図書館の主と言葉
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図書館に通い始めて、十日が経った。
毎日行った。
約束したわけではなかった。でも璃生は毎日、午前中に図書館へ向かった。神殿の廊下を歩いて、大きな木の扉を開けて、本棚の匂いの中に入った。
コールは、毎日いた。
最初から巣にいる日もあった。本棚の間を歩いている日もあった。璃生が入ると気づいて、じっとこちらを見る日もあった。
でも、出ていけとは言わなかった。
璃生も、何か特別なことはしなかった。
本を選んで、テーブルに座って、読んだ。分からない言葉があれば書き留めた。面白いと思ったら読み続けた。読み終わったら次の本を選んだ。
それだけだった。
コールは自分の場所で本を読んでいた。時々、本棚の間を移動した。璃生のそばを通るときは、距離を取った。半径二メートル以上の距離を、常に保っていた。
璃生もその距離を守った。
近づかなかった。話しかけなかった。
ただ、同じ空間にいた。
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十一日目の朝だった。
璃生がいつものテーブルに座って、借りていた地理書を読んでいると、声がした。
「……何を探している」
顔を上げた。
コールが、二つ隣の本棚の前に立っていた。
今日もローブにフードに布と眼鏡だった。完全装備だった。
こちらを向いていた。
「え」
「本だ。何の本を探している」
璃生は少し考えた。
「動物の本を全部読んでしまいました。植物の本を探していたんですけど、棚の配置がまだよく分からなくて」
「植物」
「はい。さっき一棚探したんですけど、なかったので」
コールは少し動いた。
本棚の間を、音もなく歩いた。
璃生のテーブルから離れた方向の、奥の棚へ向かった。
しばらく、背表紙を見ていた。
二冊抜いた。
璃生のテーブルへ向かって来た。
テーブルの端に、二冊を置いた。
璃生の近くには来なかった。テーブルの端、璃生から遠い側に本を置いた。
「植物の専門書は、奥の棚の下二段だ。薬草と食用は別の棚に分類してある。毒草は施錠してある棚に入っている」
「施錠してあるんですか」
「わたしが管理している。見たければ言え」
「毒草も読んでみたいです。いつか」
「……いつか、と言え」
コールは自分の場所へ戻った。
璃生はテーブルの端に置かれた本を取った。
植物図鑑の第一巻と、ハルノ王国の薬草事典だった。
「ありがとうございます」
返事はなかった。
でも、少し間を置いてから、本棚の奥でページをめくる音がした。
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それからまた三日が経った。
図書館に通い始めて、十四日目。
その日は、コールが珍しく最初から巣の外にいた。
本棚の前に立って、背表紙を確認していた。何か探しているようだった。
璃生はいつもどおりテーブルに座って、薬草事典を読み始めた。
しばらくして、コールが本棚から一冊抜いた。
それを持ったまま、璃生のテーブルの横を通った。
立ち止まった。
璃生は顔を上げた。
コールが、璃生の読んでいる本を見ていた。
「薬草事典」
「はい。面白くて」
「……どこを読んでいる」
「水辺に生える植物の章です。リムハナという植物が、医療にも染料にも使えると書いてあって」
「リムハナは、花の部分と根の部分で成分が全然違う。花は解熱に使えるが、根をそのまま食べると吐く」
「吐くんですか」
「適切に処理すれば胃の薬になる。処理方法は、その事典の後ろの方に書いてある」
璃生はページをめくった。後ろのほうへ飛んで、リムハナの項目を探した。
「ありました。乾燥させて粉にする、と」
「乾燥の工程で毒性が抜ける。ただし湿度が高い環境で乾燥させると不完全になる。この国は季節によって湿度が上がるから、乾季にまとめて処理するのが効率的だ」
璃生は書き留めた。いつの間にか手元に置いていた小さなノートに。
「詳しいんですね」
「……」
「植物も、鉱石も」
「インサクメア族の生態に、植物も関係する。必要だから調べた」
「どう関係するんですか」
コールは少し止まった。
長い止まり方ではなかった。でも、答えるかどうか迷う間があった。
「……インサクメア族の体液には、特定の植物成分と反応するものがある。強く反応すると、相手への影響が増す。だから把握しておく必要がある」
「相手への影響」
「……魅了の効果が、強まる」
平坦な声だった。
感情がなかった。
でも璃生には、その平坦さが何かを隠している気がした。
「コールさんは、それを望まないんですね」
言ってから、踏み込みすぎたかと思った。
でも引っ込めるより早く、コールが答えた。
「……望まない」
一言だけ。
短かったが、はっきりしていた。
璃生は頷いた。
「そうですか」
それ以上は言わなかった。
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コールが自分の場所へ戻ろうとした。
その背中に、璃生は言った。
「鉱石の話も、聞いてみたいです。いつか」
コールが止まった。
振り向かなかった。
「……インサクメア族の生態と関係する鉱石は、種類が多い。話せばきりがない」
「きりがなくても構いません。聞きたいので」
また止まった。
今度は少し長かった。
「……また今度」
それだけ言って、本棚の奥へ消えた。
璃生は薬草事典に目を戻した。
また今度、と言った。
また今度があるということは、また話してくれるということだ。
それで十分だった。
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図書館に通い始めて、二十日目。
その日、コールは珍しく機嫌が悪かった。
機嫌が悪いというのは、表情では分からなかった。布と眼鏡で顔が隠れているから。でも、本棚の間を歩く動きが、いつもより少し速かった。本を棚に戻す音が、いつもより少し大きかった。
璃生は気づいていたが、何も言わなかった。
黙って本を読んでいた。
しばらくして、コールが璃生のそばの本棚の前に来た。
何かを探しているようだった。
背表紙を見ては取り、戻し、別の本を取り、また戻す。
探し物が見つからないようだった。
「何をお探しですか」
「……鉱石の分類書の第四巻だ。ここにあったはずなのに」
「第四巻、あそこに」
璃生は入口に近い本棚を示した。
「昨日、わたしが読んでそのまま戻すのを忘れました。すみません」
璃生は立ち上がって、そちらの本棚へ向かった。
コールが後ろからついてきた。
本棚の前に来て、第四巻を見つけた。手を伸ばした。
取れなかった。
棚が高かった。璃生の身長では、上から二段目が限界で、その本は上から一段目の棚にあった。指先がかすかに触れたが、引き出せなかった。
背伸びをしてみた。
取れなかった。
璃生は見回した。
近くに、小さな踏み台があった。本棚の整理に使うためのものだろう。木製の、二段の踏み台だった。
それを引っ張ってきて、乗った。
届いた。
本を引き出した。
振り向いた。
コールが、そこにいた。
思ったより近かった。
踏み台に乗っているので、璃生の目線がコールの目線より少し高かった。
コールが見上げていた。
フードと布と眼鏡で顔が隠れていたが、目だけ見えた。
薄いピンクの目が、璃生を見上げていた。
距離が近かった。
璃生の心臓が、とくん、と跳ねた。
怖い、ではなかった。
ただ、近かった。思ったよりずっと近かった。
「あの、」
璃生は本を差し出した。
「どうぞ」
コールは本を受け取った。でも動かなかった。
まだ、璃生を見上げていた。
「……降りるか」
「あ、はい」
踏み台から降りようとした。
でも、踏み台が少し不安定だった。重心がずれた。
落ちる、と思った。
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落ちなかった。
誰かに支えられた。
腕だった。
細い腕が、璃生の腰に回った。
片腕だった。でも、しっかりしていた。
璃生は踏み台から降りた。床に足がついた。
コールの腕が離れた。
でも、距離が近かった。
踏み台を降りたことで、璃生の目線が下がって、コールを見上げる形になった。
コールが、璃生を見ていた。
至近距離だった。
璃生の頬が、熱くなった。
意図したことではなかった。反射だった。
男性に、こんなに近くで、こんなふうに触れられたことが、久しぶりだった。
いや、正確には。
触れられること自体は、仕事で慣れていた。でもそれは、感覚を遠ざけながらのことだった。
今は、感覚が遠ざかっていなかった。
ちゃんと、近さが分かった。体温が分かった。
「……待って」
璃生は言った。
「落ち着くので、待ってください」
「……」
「すみません、すぐ落ち着きますので。五分だけ」
コールは何も言わなかった。
でも、動かなかった。
璃生はその場でゆっくり呼吸した。
一回、二回、三回。
胸の文様のあたりが、じんわりと熱かった。
四回、五回。
少し落ち着いた。
「落ち着きました」と言おうとした。
その前に、コールが動いた。
璃生のほうへ、一歩来た。
距離が、また近くなった。
「どこが痛い」
コールが言った。
「え」
「さっき、顔色が変わった。どこかが痛いのか」
「あ、いいえ、痛くないです。驚いただけで」
「驚いた」
「近かったので」
コールが止まった。
「……近かった」
「はい。驚きました。すみません」
「……謝るのはこちらだ。了承なく触れた」
「助けてもらいました。ありがとうございます」
コールは何も言わなかった。
璃生は顔を上げてコールを見た。
コールが、璃生を見ていた。
眼鏡の奥の薄いピンクの目が、璃生を見ていた。
なんと言っていいか分からない顔をしていた。
表情のほとんどが隠れているから、そう読み取れたのは目だけの変化だったが。
迷っているような目だった。
「コールさん」
「……何だ」
「さっき、鉱石の話を聞きたいと言いましたよね」
「……言った」
「まだ聞いてもいいですか。よかったら、今日」
コールはしばらく璃生を見ていた。
長い間だった。
沈黙が、図書館の静けさに溶けていた。
「……来い」
コールは言った。
自分の巣のほうへ、歩き始めた。
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璃生は、図書館の奥のコールの場所へ、初めて入った。
入る、と言っても、本棚で区切られているわけではなかった。ただ、壁際の角のスペースが、コールのものだった。
ソファがあった。毛足の長い、深い緑色のソファ。その上に毛布が重なっていた。枕もあった。つまりここで寝ることもあるのだろう。
ソファのまわりに、本が積まれていた。床に直接積まれていた。四方から本に囲まれていた。崩れそうに見えるが、おそらく崩れたことはないのだろうという感じがした。積み方に習慣があった。
小さなテーブルがあった。その上に、茶器があった。ティーポットと、カップが二つ。カップが二つある、という事実を璃生は見たが、何も言わなかった。
窓からの光が、この一角だけ、他より明るく差し込んでいた。
「座れ」
コールは言った。
ソファとは別に、小さな椅子があった。その椅子を示していた。
璃生は椅子に座った。
コールはソファに座った。いつものように膝を抱えた。
二人の間に、一メートル半ほどの距離があった。
「……お茶を、飲むか」
「いただきます」
コールは茶器を使った。
手つきが、丁寧だった。
ポットのお茶をカップに注いだ。白い湯気が立った。
璃生のカップを、テーブルの端に置いた。
璃生が手を伸ばせる位置に。
璃生は受け取って、一口飲んだ。
温かかった。少し花の香りがした。
「美味しいです」
「……ニンフェリア族の神官長がよく持ってくる茶葉だ。ここの気候に合った植物で作られている」
「コールさんのお父様が?」
「……養父だ」
「仲良しなんですね」
コールが止まった。
「……仲良し、とは違う」
「そうですか」
「ただ、あの人が持ってくる茶葉は、美味しい」
璃生は口元が動くのを止めた。
笑いそうになったが、止めた。
笑われると嫌かもしれない、と思ったから。
「鉱石の話、聞かせてください」
「……どこから話せばいい」
「コールさんが話したいところから」
コールはしばらく黙った。
自分のカップに視線を落として、少し考えていた。
「……インサクメア族に関わる鉱石を話す。一般的な鉱石の分類から始めると長くなるから」
「はい」
「この世界の鉱石は、大きく四つの属性に分類できる。光属性、闇属性、水属性、土属性だ。インサクメア族の体に影響するのは、主に光属性と闇属性の鉱石だ」
コールの声が、変わった。
説明口調になると、声が少し早くなった。
さっきまでの、慎重に言葉を選ぶ話し方ではなくて、知っていることを知っているままに出す、という話し方になった。
「光属性の鉱石は、インサクメア族の魅了の能力を安定させる効果がある。ただし過剰に取り込むと、逆に不安定になる。代表的なものはソルカリアという白い鉱石で、純度によって効果が変わる。純度が高いものは希少で、市場にはほとんど出回らない」
「眼鏡のレンズも、鉱石ですか」
「……よく気づいた」
「少し光る感じがしたので」
「ソルカリアを加工している。魅了の魔眼を抑制するために、特別に作ってもらった。神官長に手配してもらった」
「養父さんが」
「……ああ」
コールはカップを持った。お茶を一口飲んだ。
「闇属性の鉱石は、逆に能力を増幅させる。インサクメア族が望まない形での力の行使を避けるためには、闇属性の鉱石には接触しないほうがいい。ただ、コントロールできれば、回復の補助に使えるものもある。ナクタリアという黒い鉱石は——」
そこで、止まった。
璃生を見た。
「……聞いているか」
「聞いています。すごく面白いです」
「…………面白い」
「はい。続き、気になります」
コールは璃生を見た。
しばらく、じっと見た。
眼鏡の奥の薄いピンクの目が、璃生を見ていた。
「……面白い、とは」
「単純に、知らなかったことが分かるのが面白いです。あと、コールさんが詳しいのが伝わってきて、もっと聞きたくなります」
「……」
「やめますか」
「やめない」
少し間があった。
「やめないでくれ」
それは、ほとんど独り言のような声だった。
璃生は聞こえたが、聞こえなかったふりをした。
「続き、お願いします」
「……ナクタリアは、黒い鉱石だが、光の当たり方によって紫に見える。産地が限られていて——」
コールの説明が、また始まった。
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気がついたら、二時間が経っていた。
コールは途中で止まらなかった。
鉱石の話が植物の話に繋がって、植物の話が気候の話に繋がって、気候の話がルールー族の習性の話に繋がった。
知識が、あちこちに繋がっていた。
璃生はずっと聞いていた。ノートに書き留めながら聞いていた。
コールが話すのが速くなっても、璃生はついていった。
難しい言葉が出てくると、さっと手を挙げた。
「そのエルメキアというのは」
「精霊の一種だ。物質に宿る……分かりやすく言えば、石に宿る魂のようなものだ」
「魂が宿った石が、インサクメア族に影響するんですか」
「……精確には、エルメキアが持つ波動が、インサクメア族の体内の——」
そこでコールが止まった。
自分の頭を、フードの上から押さえた。
「……長くなる」
「長くて大丈夫です」
「いや、今日は……」
コールはソファの背に凭れた。
「……疲れた」
それは正直な声だった。
璃生はノートを閉じた。
「そうですね、長くしすぎました。すみません」
「……謝るな。おまえが訊いたわけではない」
「わたしが聞き続けたので」
「……わたしが話し続けた。それだけだ」
コールは目を伏せた。
疲れた、と言ったが、嫌そうではなかった。
なんというか、久しぶりに話して、でもそれが嫌ではなかった、という雰囲気があった。
「また来ていいですか」
「……来るな」
璃生は少し間を置いた。
「来ます」
「……」
「また教えてください。続きが気になります」
コールは、フードの奥で何か言おうとした。
でも言わなかった。
窓の外を見た。
光が、夕方の色になっていた。
「……明日も来るのか」
「はい」
「……そうか」
それだけだった。
来るな、とは言わなかった。
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璃生が立ち上がって、帰ろうとしたとき。
なんとなく、本棚の端に手が触れた。
コールの場所のすぐ近くの本棚だった。
そこに、ちょうど背表紙の向きが逆になっている本があった。
本棚の整理が行き届いているこの図書館で、一冊だけ向きが逆だった。
璃生は、その本を正しい向きに直そうとした。
手を伸ばした。
本の背表紙に指が触れた。
「触るな」
コールの声が、鋭くなった。
璃生は手を止めた。
「……すみません」
「……いや」
コールが立ち上がった。
璃生の近くへ来た。でも距離は保っていた。
「その本は、そのままにしてある」
「向きが逆でしたが」
「……分かっている。そのままにしてある」
理由は言わなかった。
璃生は聞かなかった。
「そうですか。失礼しました」
「……ああ」
「では、また明日」
「……明日」
コールは繰り返した。
明日、という言葉を、確認するように言った。
「明日来るな」
「来ます」
「…………そうか」
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廊下を歩きながら、璃生は振り返った。
図書館の扉が、静かに閉まっていた。
胸の水仙の輪郭が、じんわりと温かかった。
まだ白かった。でも、最初よりは少し、温かさに色の気配があった。
透明な白の中に、ほんのかすかに、真珠のような光がある。
気のせいかもしれなかった。
でも、気のせいではない気もした。
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その夜、コールは一人で図書館にいた。
向きの逆になっている本の前に立って、しばらくそれを見ていた。
その本は、ずっとそのままにしてあった。
本棚を整理するとき、この一冊だけ、向きを直さなかった。
理由は、自分でも分からなかった。
ただ、向きが逆のほうが、どこかに手をかけているような気がして。
何に手をかけているのかは分からなかったが。
コールは背を向けて、自分の場所へ戻った。
明日も来る、と言っていた。
来るな、と言った。でも来る、と言った。
毎日来て、騒がしくなく、近づかず、話を聞いて、また来る。
コールは膝を抱えて、お茶の残りを飲んだ。
カップが、二つあった。
片方は、今日初めて使われた。
コールは二つのカップを見た。
しばらく見ていた。
片付けようとした。
やめた。
明日も、来ると言っていた。
だから、そのままにしておいてもいいかもしれなかった。
合理的な判断だった。
そういうことにした。
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*(第七章へ続く)*




