第五章 三つめの光
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## 第五章 三つめの光
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璃生が王城に来て、五日が経った。
毎朝、神官長が声をかけてくれた。城内の案内をしてくれる日もあったし、神殿の見学に連れていってくれる日もあった。食事は侍女が運んでくれた。ヤコが侍女として世話をしてくれていた。
ユー王子のもとへは、毎日通った。
二日目に怒鳴られなかった。三日目も怒鳴られなかった。四日目、璃生が廊下に入った瞬間に一度だけ低く唸ったが、すぐに静かになった。五日目は、最初から静かだった。
毎日、璃生は格子の前の床に座った。本を持っていくこともあった。声に出して読んでみたら、狼の耳がぴんと立ったので、それからは毎日読んだ。
少しずつ、距離が縮まっている気がした。
怖いという感覚は、まだあった。でも恐怖の比率が、最初より下がっていた。きれいだという感覚と、かわいいという感覚が、少しずつ増えていた。
狼の尻尾が、璃生が来ると一度だけ床を叩く。
それにバクシンが気づいていて、毎回廊下の遠いところで一人でにやにやしていた。璃生はそれを横目で見ながら、何も言わなかった。
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五日目の夕方。
神官長が璃生の部屋を訪ねてきた。
「明日、お時間がありましたら、神殿の図書館へご案内したいのですが」
「図書館」
璃生は顔を上げた。
「はい。王城に併設された神殿の中に、かなり大きな図書館がございます。ニジトセ様は読書がお好きと伺っておりましたので」
「好きです」
即答した。
好きだったものが分からなくなっていた、と思っていたが、本だけは違った。王子のもとへ持っていく本を選ぶとき、棚を眺めていると、少し心が動いた。これが読みたい、という感覚が、かすかにあった。
「楽しみです」
「それは良うございました。では明日の午前中に」
神官長が帰りかけて、扉のところで立ち止まった。
「一つ、申し上げておくことがございます」
「はい」
「図書館に、その、常駐している者がおりまして」
「司書の方ですか」
「司書、というより……住んでいる、という表現のほうが近いかもしれません」
璃生は首を傾けた。
「インサクメア族の方でございます。シュクレスタ・クリストダール。わたくしの養子でもあります」
その名前に、璃生は覚えがあった。
女神が言っていた。縁結びの相手の一人。神官のシュクレスタ・クリストダール。
「コール、と呼んでいます。愛称で」
「コールさん」
「その方が、少々、人との接触を好まれなくて」
神官長の表情が、複雑だった。
「コミュニケーションを拒絶することがございます。驚かれるかもしれませんが、どうか穏やかに対応していただければと思いまして」
「分かりました」
「それと……インサクメア族の特性として、魅了の魔眼がございます。コールは普段眼鏡でそれを抑制しておりますが、万一外れた場合は、視線を合わせないようにしてください」
「魅了の魔眼」
「目が合うと、強い影響を受けることがあります。意識が朦朧としたり、感情が揺れたりします。コール自身はそれを非常に嫌がっておりますので、くれぐれも」
「視線を合わせない」
「お願いいたします」
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翌朝。
神官長に連れられて、神殿へ向かった。
城と神殿は、渡り廊下でつながっていた。渡り廊下から外が見えた。庭の向こうに、空が広かった。今日も青かった。
神殿に入ると、空気が変わった。
静かだった。温度が少し下がった。石の床が冷たくて、でも不快ではなかった。ここは涼しいな、と思った。
廊下を歩いていると、視界の端に光が見えた。
シャラシャラ、と音がした。
でも今回の音は、今まで聞いた音と少し違った。
もっと細かくて、涼しい音だった。水晶が触れ合うような、透明な音。
璃生は立ち止まらなかった。
この先に図書館があるのだということは、神官長に聞いていた。光はその方向から来ていた。
三つめの光だ、と思った。
三人、と女神は言っていた。縁結びの相手が三人。最初の光がチョウチョウで、二番目の光がユー王子で。
三番目が、この先にいる。
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図書館の扉は、木製だった。
大きかった。天井まで届きそうな、分厚い木の扉。扉の隅に細かい彫刻があった。よく見ると、本の形が彫られていた。
神官長が扉を開けた。
中に入った。
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広かった。
本棚が、天井まで届いていた。
いくつもの本棚が、部屋の奥へ奥へと続いていた。本棚と本棚の間に、細い通路がある。通路の床に、柔らかそうな絨毯が敷いてある。
本の匂いがした。
古い紙と、インクと、何か植物系の匂いが混ざった、独特の匂い。璃生は深く息を吸った。
好きな匂いだ、と思った。
素直にそう思えた。
窓から光が入っていた。窓が高い位置にあって、柔らかい自然光が本棚の上のほうを照らしていた。本棚の下のほうは少し薄暗く、でも読むのに困るほどではなかった。
「いかがですか」
神官長が聞いた。
「すごいです」
璃生は正直に言った。
「本は自由にお読みいただけます。持ち出しも可能ですが、必ず記録を」
「はい」
「それから」
神官長が声を落とした。
「コールがおります。奥のほうにいると思いますが」
璃生は奥を見た。
本棚が続いていた。奥は薄暗かった。
光が、奥の方向から来ていた。
シャラシャラ、という音が、少し強くなった。
「ご挨拶だけでも」
「はい」
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本棚の間を歩いた。
絨毯が足音を吸収した。静かだった。
本のタイトルが目に入った。知らない言語で書かれているものもあったが、読めるものもあった。動植物の図鑑。歴史書。詩集。料理の本。魔法の理論書。璃生は歩きながら背表紙を目で追った。
奥へ進むにつれて、光が強くなった。
本棚の最奥に、角のような場所があった。
本棚が三方を囲んで、窓が一つある。小さな窓から光が差し込んでいた。
その光の中に、人がいた。
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ローブを纏った人物だった。
全身を覆うような、深い色のローブ。フードを被っていた。フードの下、顔の下半分を覆うように、布が巻かれていた。眼鏡をかけていた。分厚い眼鏡だった。
本を読んでいた。
膝の上に本を置いて、両膝を抱えるように体を小さくして、ソファに座っていた。ソファというよりも、本棚とソファと毛布と枕が組み合わさった、複雑な巣のような場所だった。まわりに本が積まれていた。床にも積まれていた。
璃生の視線が、銀色に気づいた。
ローブのフードから、髪がこぼれていた。
銀色の、細い髪だった。
腰まである長い髪が、ローブのフードから流れ出て、ソファの端に垂れていた。
璃生は立ち止まった。
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胸が、ぴりっとした。
文様のあたりが、熱くなった。
璃生は反射的に胸に手を当てた。
服の上から触れても、もちろん分からない。でも熱がある。
視界の端で、光がふわりと揺れた。
ローブの人物のまわりに、白い光が漂っていた。さっきまで距離があったから淡かったが、近づいたら強くなった。透明に近い白い光が、その人のまわりに、ゆっくりと漂っていた。
シャラシャラ、という音が、耳の近くで鳴った。
透明な、涼しい音だった。
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ローブの人物が、本から目を上げた。
眼鏡の奥の目が、璃生を見た。
一瞬だった。
でも、その一瞬で、璃生は目の色が分かった。
薄いピンクだった。
宝石のような、透き通った薄いピンク。
眼鏡のレンズ越しだったが、それでも分かった。
きれいだ、と思った。
でも思ったのは一瞬で、次の瞬間には状況が動いた。
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「……誰だ」
声がした。
低い声だった。でも声自体は細くて、男性にしては細い声だった。布でくぐもっていて、さらに低く聞こえたが、布がなければもっと細い声のはずだった。
「ニジトセ様です」
後ろから神官長が答えた。
「……なぜ来た」
「ご案内いたしました。ニジトセ様は読書がお好きですので」
ローブの人物は、しばらく何も言わなかった。
本から完全に目を上げて、璃生を見ていた。
眼鏡の奥から、じっと見ていた。
璃生も見ていた。
背格好は分からなかった。全身ローブなので。でも、体を丸めて座っていても、細いことは分かった。腰まである銀髪が、光の中でかすかに光っていた。
「……図書館に来るなら一人で来い」
ローブの人物は言った。
神官長に向かって言っていた。
「案内はいらん」
「承知いたしました」
神官長が、あっさり言った。
「ではニジトセ様、ご自由にお過ごしください。コール、後ほど」
神官長が去った。
足音が絨毯に吸われて、すぐに聞こえなくなった。
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璃生と、ローブの人物が、図書館の奥に残った。
静かだった。
ローブの人物は、璃生を見ていた。
璃生も、その人を見ていた。
「……何だ」
ローブの人物が言った。
「見るな」
「すみません」
璃生は視線を外した。
隣の本棚の背表紙を見た。動植物図鑑の第三巻、と書いてあった。
「あなたも本を読むんですか」
「……」
「さっき、本を読んでいましたよね」
「……読んでいた」
「何を読んでいたんですか」
沈黙があった。
長い沈黙だった。
璃生は本棚の背表紙を眺めながら待った。
「……鉱石の分類書だ」
「鉱石」
「インサクメア族の生態に、鉱石が関係する。専門書が少ない。だからここにある分は全部読んだ」
「全部」
「七冊ある。全部読んだ」
璃生は、ほんの少し口元が動いた。
「詳しいんですね」
「……詳しくもなる」
そこで、言葉が止まった。
ローブの人物は、自分から話し過ぎたと気づいたようだった。布の向こうで、口を閉じた気配がした。
璃生はそのまま、本棚を眺めた。
別に、続きを求めなかった。
話してくれたことが、少し嬉しかった。でもそれを言うのは、たぶんまだ早い。
「動植物図鑑は読めますか」
璃生は本棚を見ながら聞いた。
「この第三巻」
「……読める。何語でも読める」
「この世界の動物や植物を知りたいんですけど、借りていいですか」
「……図書館の本は誰でも借りられる」
「そうですか。ありがとうございます」
璃生は第三巻を棚から抜いた。
分厚かった。両手で持った。
「他に、初心者向けのおすすめはありますか。この世界に来たばかりで、何も知らないので」
また沈黙があった。
「……何が知りたい」
「なんでも」
「なんでもは答えられん」
「じゃあ、動物と植物と、あとこの世界の地理が知りたいです」
ローブの人物は、何も言わなかった。
でも、体が動いた。
ゆっくり、ソファから立ち上がった。
立ち上がると、背が高かった。璃生より頭一つ以上高かった。細かった。ローブの中でも分かるくらい、細い体だった。
本棚の間を、音もなく歩いた。
璃生は少し後退した。
ローブの人物は璃生を一瞥して、別の本棚へ向かった。
棚の前に立って、しばらく背表紙を見た。
二冊、抜いた。
璃生のほうへ向いて、差し出した。
璃生の手が届く位置に、本を差し出した。
距離を保っていた。
意識的に、距離を保っていた。
璃生はそっと本を受け取った。
「ありがとうございます」
「……地理書と、気候の書だ。動植物図鑑と合わせて読め」
「はい」
「質問があれば……」
そこで止まった。
何かを言いかけて、止まった。
璃生は待った。
「……図書館に来い。ここに、おる」
それだけ言って、ローブの人物は自分の巣のような場所へ戻った。
ソファに座って、また本を開いた。
続きはない、という雰囲気だった。
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璃生は本を三冊抱えて、近くの小さなテーブルと椅子を見つけた。
そこに座って、本を開いた。
動植物図鑑の第三巻だった。
この世界の生き物が載っていた。知らない生き物ばかりだった。羽が六枚ある虫。木の形をした動物。水の中を泳ぐ、魚ではない何か。
璃生は図鑑を眺めた。
面白かった。
素直にそう思えた。
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一時間ほど読んでいると、視界の端で影が動いた。
ローブの人物だった。
本棚の間を、静かに歩いていた。
璃生に気づいて、立ち止まった。
まだいるのか、という雰囲気があった。
「まだいます」
璃生は言った。
「……そうか」
「邪魔ですか」
「……いや」
それだけ言って、また歩いた。
別の本棚から本を一冊抜いて、璃生の近くの本棚の前に立って、立ったまま読み始めた。
座らなかった。
でも、近くにいた。
璃生は図鑑に目を戻した。
二人とも、黙って本を読んだ。
静かだった。
でも、嫌な静かさではなかった。
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二時間後に璃生が立ち上がると、ローブの人物はまた自分の場所に戻っていた。
「また来ます」
璃生は言った。
ローブの向こうで、何かが動いた気がした。
「……本の返却は棚に戻すか、わたしに渡せ」
「はい。では次来たとき持ってきます」
「……そうしろ」
璃生は図書館を出た。
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廊下を歩きながら、胸に触れた。
服の合わせをそっと開いた。
彼岸花の文様のそば。金木犀の輪郭のそば。
また別の花の輪郭が、白く浮いていた。
細い花びらが、六枚。すっと伸びた茎。
水仙だ、と思った。
白い水仙の輪郭が、かすかに光っていた。
三つ、揃った。
三つ、白い花の輪郭が、朱色の彼岸花のまわりに浮いていた。
璃生は服を戻した。
廊下の窓から、外の光が入っていた。
手の中に、本が三冊あった。
重かった。でも、その重さが嬉しかった。
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その日の夕食のあと、ヤコが食器を片付けながら言った。
「図書館はいかがでしたか」
「良かったです」
「コール様にはお会いになりましたか」
「会いました」
ヤコは少し手を止めた。
「……いかがでしたか」
「静かな方ですね」
「……怖くありませんでしたか」
「怖くなかったです」
ヤコはまた手を動かした。
「コール様は、その、」
「あまり人に慣れていない感じがしました」
「はい」
「でも、本の場所を教えてくれました」
「……そうですか」
ヤコの声が、少し柔らかくなった気がした。
「コール様は、本当は親切な方なんですよ」
「そう思いました」
「ただ、その……慣れていなくて、どうしていいか分からなくなることがあるだけで」
「はい」
「また行くつもりですか」
「毎日行こうと思っています」
ヤコは、止まった。
短い沈黙があった。
「……毎日、ですか」
「本もたくさんありますし。何より、もっと知りたいことがあります」
「何を」
「コール様のことを」
ヤコは璃生を見た。
注意深い目だった。でも今日の目は、最初に会ったときより、ずっと柔らかかった。
「……よろしくお願いいたします」
ヤコは静かに言った。
頭を下げた。
璃生は首を傾けた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
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夜。
璃生は窓の外を見た。
星が多かった。
今日も光が見えた。
三か所から。
庭の方向。城の奥の方向。そして神殿の方向。
三つの白い光が、夜の中で、それぞれに揺れていた。
璃生は胸に手を当てた。
三つの花の輪郭が、そこにある。
金木犀と、黒椿と、水仙。
みんな、まだ白かった。
これから、少しずつ色づいていくのだろう。
璃生は夜空を見た。
星が、きらきらしていた。
この世界に来て、まだ六日だった。
怖いことも、戸惑うことも、たくさんあった。
でも今日、図書館で本を読んでいた時間は、久しぶりに、ただそこにいることが苦ではなかった。
本が好きだという感覚が、ちゃんとあった。
静かに本を読む時間が好きだという感覚が、ちゃんとあった。
璃生は目を閉じた。
まぶたの裏に、薄いピンクの目が浮かんだ。
眼鏡の奥の、透き通った目。
宝石みたいだった。
どんな人なんだろう、と思いながら、眠りに落ちた。
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神殿の図書館では。
銀色の髪の人物が、まだ本を読んでいた。
本のページを繰る手が、一瞬止まった。
巣の中に、今日だれかが来た。
見知らぬ人間が来て、本の場所を聞いて、静かに本を読んで、帰っていった。
騒がしくなかった。
近づいてこなかった。
距離を守ってくれた。
ローブの人物は本のページに目を落としたまま、しばらく動かなかった。
また来る、と言っていた。
毎日来る、と神官長が後で教えてくれるだろう、とぼんやり思った。
……まあ、それでも。
本を読む邪魔をしないなら。
別に、困りはしない。
ページを繰った。
本の内容が、しばらく頭に入らなかった。
それが何故かは、考えないことにした。
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*(第六章へ続く)*




