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虹色の彼岸、あなたへ〜四色の花嫁〜  作者: 有寄之蟻
第三部 「距離と信頼」
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第九章 王子との時間

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## 第九章 王子との時間


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 王城に来て、二ヶ月が経った。


 璃生の毎日は、少しずつ形を変えながらも、続いていた。


 午前は図書館。午後は王子のもとへ。


 チョウチョウが侍従として側にいるようになって、図書館へも王子の廊下へも、一緒に来るようになった。図書館では入口の棚で本を読んでいた。王子の廊下では、立入禁止の手前で待っていた。


 チョウチョウが待っている間に何をしているかというと、最初は何もしていなかった。廊下に立っているだけだった。でも三日目くらいから、本を持ってくるようになった。鉱石の分類書の第二巻を、何度も読んでいた。


 璃生は気づいていたが、何も言わなかった。


---


 王子との時間も、少しずつ変わっていた。


 最初は格子越しに本を読んで、それだけだった。


 でも二ヶ月目に入ったある日、神官長が璃生を呼んで言った。


「殿下が、外でお過ごしになりたいと仰っております」


「外、というと」


「廊下です。格子の扉を開けて、外に出ていただくということです」


 璃生は少し考えた。


「格子がなくなる」


「はい。殿下のほうからご要望がありました。初めてのことです」


 初めてのことだ、というのが、神官長の声に滲んでいた。


 感情の薄い神官長が、それでも声に何かを乗せていた。


---


 次の日。


 璃生が廊下を歩いてくると、格子の扉が、少し開いていた。


 開いている。


 璃生は止まった。


 いつも閉まっていた扉が、内側に向かって少し開いていた。


 中から、黒い鼻先が出ていた。


 狼の鼻先が、扉の隙間からのぞいていた。


 璃生は一歩近づいた。


 鼻先が、引っ込んだ。


 でも扉は閉まらなかった。


「……こんにちは」


 璃生は言った。


 格子の向こうから、金色の瞳が見えた。


 璃生から少し距離を取って、でも扉の近くにいた。


「今日は外に出てみますか」


 狼は動かなかった。


「出たくなければ、出なくていいです。わたしがいつもどおりここに座っていますので」


 璃生は扉の前に、いつもどおり座ろうとした。


 床に腰を下ろす前に、扉がゆっくりと、内側から押し開けられた。


 大きな黒い頭が、のぞいた。


 ゆっくりと、出てきた。


 全身が、廊下に出てきた。


---


 近かった。


 格子がない状態で、こんなに近くにいる。


 璃生は床に座ったまま、狼を見上げた。


 狼は璃生の前に立っていた。距離は、二メートルほどあった。


 でも格子がないというのは、今まで違う。


 璃生の心臓が、少し速くなった。


 怖い、が少し来た。


 でも、逃げる気にはならなかった。


 不思議だった。怖いのに、逃げる気がない。


 金色の瞳が、璃生を見ていた。


 璃生も、瞳を見た。


「出てきてくれたんですね」


 狼は答えなかった。


「嬉しいです」


 答えなかった。


 でも、尻尾が一度、床を叩いた。


---


 それからが始まりだった。


 毎日、格子の扉を開けて過ごすようになった。


 最初の一週間は、二メートルの距離だった。


 璃生が床に座って、本を読む。狼が少し離れたところで伏せている。


 それだけだったが、格子がないというのは、全然違った。


 空気が、直接つながっていた。


 同じ廊下の空気を、二人で吸っていた。


 その感覚が、璃生には不思議と落ち着いた。


---


 一週間が経って、距離が少し縮まった。


 気がついたら、狼が一メートル半のところにいた。


 気がついたら、そこにいた。


 璃生は本から顔を上げて、狼を見た。


 近かった。


 でも、狼は伏せていた。顎を前足の上に乗せていた。猫みたいな姿勢で、璃生を見ていた。


 璃生は本に目を戻した。


 読んだ。


 一ページ。二ページ。


 しばらく読んで、また顔を上げた。


 狼は、まだそこにいた。


「近いですね」


 璃生は言った。


 狼は動かなかった。


「……いいですよ、別に」


 そう言ったら、尻尾が二回、床を叩いた。


---


 本の朗読が、廊下でもできるようになった。


 璃生が床に座って、声に出して読む。


 狼が、璃生から一メートルほどのところで伏せている。


 耳がぴんと立っていた。


 読んでいる間、ずっと耳が立っていた。


 璃生は読みながら、その耳を横目で見ていた。


 かわいかった。


 かわいい、という感情が素直に来た。


 来るたびに、少し驚いた。


 怖い、より先に、かわいい、が来ることが、最近増えていた。


---


 ある日の朗読の途中。


 璃生が本のページをめくったとき、ふと視界の端で何かが揺れた。


 尻尾だった。


 狼の尻尾が、ゆっくりと揺れていた。


 左右に、ゆっくり。


 璃生は本を読む速度を落とさないまま、尻尾を見た。


 無意識に揺れているのだろう、と思った。


 狼自身は気づいていない様子だった。


 顎を前足の上に乗せて、耳を立てて、璃生の読む声を聞いていた。


 その間、尻尾が揺れていた。


 ゆっくり、ゆっくり、揺れていた。


---


 璃生は本を読み続けた。


 でも内心は、全然別のことを考えていた。


 尻尾が揺れている。


 機嫌がいいということだろうか。嬉しいということだろうか。


 机の下で足を揺らすみたいなものだろうか。無意識に出てしまうもの。


 かわいい。


 かわいいな。


 本当に、かわいいな。


 抱きつきたい、という気持ちが、少し湧いた。


 湧いて、すぐに止まった。


 駄目だ。


 まだ早い。


 というか、抱きついたら、王子が大変なことになる。


 感情が流れ込んでくる、という話だった。


 璃生が抱きつきたいという気持ちを持ったまま抱きついたら、その感情が全部流れ込む。


 それで王子がパニックになったら、また怒鳴られる。


 怒鳴られるのは怖い。


 だから我慢する。


 璃生は本に集中した。


---


 バクシンが、廊下の遠いところから様子を見ていた。


 璃生の隣にチョウチョウが立っていた。


 チョウチョウが、バクシンに小声で言った。


「あの、璃生様が急に本を読む速度を落としたのはなんでですか」


「王子の尻尾が揺れてるから」


「……ああ」


「気づいたんでしょうね」


「かわいいと思ってそう」


「思ってるでしょうね」


「王子は気づいてないんですか」


「気づいてない」


「……微笑ましいな」


「ですね」


 二人は小声で話しながら、廊下の端に立っていた。


 バクシンが口元を押さえていた。


 チョウチョウが壁を見ていた。


---


 朗読が終わって、璃生が本を閉じた。


 狼が顔を上げた。


「今日は終わりです」


 狼が、少し体を揺らした。


 不満そうだった。


「続きは明日読みます」


 不満そうな揺らし方が、続いた。


「……読みたいですか、続き」


 狼は答えなかった。


 でも、尻尾が一度、床を叩いた。


「分かりました。もう少し読みます」


 璃生は本を開いた。


 また読み始めた。


 狼の耳が、またぴんと立った。


---


 もう少し、が三十分になった。


 璃生の喉が少し疲れてきた頃、廊下の向こうからバクシンが来た。


「ニジトセ様、今日はこのくらいで。殿下もそろそろお休みの時間です」


「あ、すみません、長くなりました」


「いいえ。殿下も楽しそうでしたし」


 狼がバクシンを見た。


 楽しそう、という言葉に反応したような目だった。


「楽しかったですよ、わたしも」


 璃生は立ち上がった。


 狼と目が合った。


「また明日来ます」


 狼は答えなかった。


 でも、尻尾が揺れていた。


 小さく、ゆっくり、また揺れていた。


 今度は本人も気づいているだろうに、止まらなかった。


---


 ある日のこと。


 璃生が廊下に来ると、狼が扉の前で待っていた。


 いつもは、来てから扉が開く。


 今日は、扉が最初から少し開いていて、鼻先がのぞいていた。


「……待っていてくれたんですか」


 狼は答えなかった。


 でも鼻先が、もぞもぞと動いた。


「今日は何を読みますか。昨日の続きにしますか」


 狼は廊下に出てきた。


 今日は距離が縮まるのが早かった。璃生が床に座るより前に、ほぼ隣にいた。


 一メートル以内の距離だった。


 璃生は心臓が少し速くなるのを感じた。


 怖い、という感覚が来た。


 でも同時に、温かい、という感覚も来た。


 そちらのほうが、少し大きかった。


「近いですね」


 狼は動かなかった。


「……いいですよ、別に」


 また言った。


 また言えた。


 一ヶ月前は、こんなに近くで言えなかった。


---


 璃生が本を読み始めた。


 狼が、璃生の横に伏せた。


 横に。


 隣に。


 肩が触れそうな距離ではなかったが、同じ方向を向いて、横に伏せた。


 璃生は本を読みながら、横目で狼を見た。


 大きかった。


 自分の横に、これだけ大きい生き物がいる。


 怖い、という感覚がまた来た。


 でも、その大きさが今日は怖さよりも、圧倒的な安心感に似た何かを連れてきた。


 大きくて、温かくて。


 隣にいてくれることが、少し嬉しかった。


---


 本を読んでいると、狼の毛が視界に入った。


 深い黒。光が当たると深群青に滲む。


 きれいだな、と思いながら読んでいた。


 ページをめくるとき、少し手が毛に近づいた。


 触れそうで、触れなかった。


 触れたかった。


 触れたかったが、触れていいか分からなかった。


 聞こうか、と思った。


 でも、どう聞けばいいか分からなかった。


 触らせてもらえますか、と聞いて、怒鳴られたら怖い。


 でも聞かないで触ったら、もっと怖いことになるかもしれない。


 璃生は本を読みながら、内心ぐるぐると考えていた。


 聞く。


 聞こう。


 今日は聞こう。


「殿下」


 読むのを止めた。


 狼が顔を上げた。


「少し、触らせてもらえますか」


 狼は璃生を見た。


「毛が、きれいだと思って。触ってみたかったんですけど、いいですか」


 静かだった。


 廊下が静かだった。


 バクシンとチョウチョウが、遠くで固まっているのが気配で分かった。


 狼は、しばらく璃生を見ていた。


 金色の瞳が、璃生を見ていた。


 何かを、考えているような目だった。


 逡巡しているような。


 やがて。


 狼が、頭を少し、璃生のほうへ向けた。


 それだけだった。


 でも、それだけで分かった。


---


 璃生は、ゆっくり手を伸ばした。


 焦らなかった。


 ゆっくり、ゆっくり、近づけた。


 狼の頭に、指先が触れた。


---


 柔らかかった。


 毛が、思ったより柔らかかった。


 見た目は硬そうだった。でも触れてみると、しっかりしているが、とても柔らかかった。


 密度があった。奥まで毛がつまっていた。


 温かかった。


 璃生の手のひらが、黒い毛に触れた。


「……柔らかい」


 独り言のようにつぶやいた。


 狼は動かなかった。


 璃生は、少し手を動かした。毛並みに沿って、ゆっくりと。


 滑らかだった。


 手のひら全体に、毛の感触が広がった。


 温かかった。


 とても温かかった。


---


 璃生の内心が、ひっそりと思った。


 猫だ。


 猫科の何かだ。


 大きい、夜の色の、猫科の何か。


 抱きつきたい。


 やっぱり抱きつきたい。


 でも我慢する。


 感情を全部持ったまま抱きついたら大変になる。


 だから手のひらだけで我慢する。


---


 狼が、ゆっくりと頭を傾けた。


 璃生の手のひらに、重さがかかった。


 もたれてきた。


 軽くだったが、確かに、もたれてきた。


 璃生は手を止めなかった。


 撫で続けた。


 ゆっくりと。


---


 廊下の遠い端で。


 バクシンが、壁に額を当てていた。


「……バクシンさん、大丈夫ですか」


 チョウチョウが小声で言った。


「大丈夫です。感動しています」


「静かな感動の仕方ですね」


「こういうときは静かにしていないと泣いてしまうので」


「……そうですか」


 チョウチョウも壁を見た。


 壁を見ながら、廊下の向こうを意識した。


「……王子、初めてですか、あれ」


「あれ、というのが何かにもよりますが」


「自分から頭を向けた、というのが」


「はい、初めてです」


 チョウチョウは、しばらく黙った。


「……ニジトセ様は、すごいな」


「ほんとうに」


---


 毛に触れながら、璃生は上を見た。


 耳が、すぐそこにあった。


 大きい耳だった。黒い毛に覆われた、大きな耳。


 触れたかった。


 触れていいか分からなかった。


「耳、触っていいですか」


 狼がぴくりとした。


 頭が、少し動いた。


 怒っているのか、嫌なのか、璃生には読めなかった。


「嫌なら言ってください」


 狼は、また璃生を見た。


 少しの間があって、頭を傾けた。さっきよりもっと大きく傾けた。耳が、璃生の手のほうへ、近づいた。


 璃生はゆっくり手を動かした。


 耳の付け根に触れた。


 やわらかかった。


 毛がふかふかしていた。付け根のところは特に密度があって、温かかった。


「……ふかふかです」


 また独り言のようにつぶやいた。


 狼がぴくりとした。


 でも、頭を引かなかった。


 璃生はゆっくり、耳の付け根を撫でた。


 狼の目が、細くなった。


---


 本当に猫だ。


 璃生の内心が、また言った。


 猫科だ。耳を触られるのが好きな大きい猫だ。


 こんなにかわいい生き物が、あんな大声で怒鳴るんだな、と思うと、不思議だった。


 でも、かわいかった。


 怒鳴られるのは怖い。


 でも、今この瞬間は、かわいかった。


 両方、本当だった。


---


 璃生は、しばらく耳を撫で続けた。


 狼は動かなかった。


 耳が、璃生の手のひらに押しつけられていた。


 尻尾が、ゆっくり揺れていた。


 最初は小さく揺れていたのが、だんだん大きくなっていた。


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 ある日、感情が高ぶる瞬間があった。


 朗読していた本のクライマックスだった。


 登場人物が、大切なものを失う場面だった。


 璃生は声に出して読んでいて、内側に何かが来るのを感じた。


 悲しい、という感覚が、じわりと来た。


 久しぶりだった。本を読んで、ちゃんと悲しいと思えることが、久しぶりだった。


 声が、少し揺れた。


 そのとき、狼が動いた。


 体が、少し揺れた。


 璃生は気づいた。


 感情が高ぶると、狼が動く。それが、一ヶ月以上かけて分かってきたパターンだった。


 暴れる前に退散するのが、ここ最近の習慣だった。


 璃生はすっと本を閉じた。


「今日はここまでにします」


 立ち上がった。


 狼が璃生を見た。


 混乱した目だった。


「続きは明日読みます。今日は帰ります」


 璃生は頭を下げた。


 素早く、でも走らないように、廊下を歩いた。


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 チョウチョウが待っていた。


「大丈夫か」


「大丈夫です。王子の感情が高ぶりそうだったので引いてきました」


「引き際が早いな」


「早めに動いたほうが、お互いに良いので」


 チョウチョウは璃生を横目で見た。


「王子のことを、よく見てるな」


「見ていないと分からないので」


「……おれ、正直に言っていいか」


「どうぞ」


「最初は、ニジトセ様が王子に近づけると思っていなかった。あの廊下に毎日行くのが、理解できなかった」


「今は」


「……今は、そういうものかと思っている」


「そういうもの」


「縁結びっていうのが、そういうものなんだろうな、と。理屈じゃなくて、ただそこに行きたいっていう、そういうもの」


 璃生は少し考えた。


「近いかもしれないです」


「近い」


「理屈じゃないのは、本当にそうかもしれない」


「じゃあ何なんだ」


「光があるので」


「光か」


「あと、」


 璃生は少し間を置いた。


「王子が、かわいいんです」


 チョウチョウが止まった。


「……かわいい」


「はい。尻尾が揺れるのが、かわいいです。耳がふかふかしていて、かわいいです。伏せながらこちらを見るのが、かわいいです」


「……そういう視点で見てたのか」


「見てたというか、自然にそう思えてきました。最初は怖かったんですけど」


「今は」


「今も怖い、は少しあります。でもかわいいのほうが、最近は大きいです」


 チョウチョウは、しばらく璃生を見ていた。


「……ニジトセ様、本当に面白い人だな」


「よく言われます」


「誰に」


「チョウチョウさんによく言われます」


「おれだけか」


「今のところ」


 チョウチョウが、小さく笑った。


「そうか」


「はい」


 廊下を歩きながら、チョウチョウが言った。


「王子、人間の姿に戻れると思うか」


「戻れると思います」


「根拠は」


「尻尾が揺れているので」


「……それが根拠か」


「あと、少しずつ距離が縮まっているので。毎日、少しずつ」


 チョウチョウは黙った。


「……そうか」


「チョウチョウさんは、王子とどんな話をしてみたいですか」


「おれが王子と?」


「いつかできるようになったら、の話です」


 チョウチョウは少し考えた。


「……商売の話がしてみたい」


「王子と商売の話」


「ルールー族は心が読めるから、交渉が上手いと聞いた。交渉術を聞いてみたい」


「面白い動機ですね」


「不純か」


「純粋だと思います。チョウチョウさんらしい」


「らしい、か」


「はい。チョウチョウさんらしいと思います」


 チョウチョウは黙った。


 らしい、という言葉を、頭の中で繰り返しているような顔をした。


「……ニジトセ様に言われると、なんか変な感じだな」


「変ですか」


「悪い意味じゃない。ただ、自分らしいって言われることが、あんまりなかったから」


「そうですか」


「商人の家だと、らしいより、利益になるかどうかだから」


「チョウチョウさんは、利益より商売の話が面白そうで、それがらしいと思いました」


「面白そう、か」


「楽しそうに言っていました」


 チョウチョウは、また小さく笑った。


「……そうかもな」


---


 その夜。


 璃生は窓の外を見ながら、胸の文様に触れた。


 黒椿の輪郭が、そこにあった。


 白かった。


 でも、今日、毛に触れたとき。


 毛の温かさが手のひらに伝わったとき。


 白さの中に、ほんの一瞬だけ、深い青が滲んだ気がした。


 夜空の色に、近い青。


 気のせいかもしれなかった。


 でも、ちゃんと見た。


---


 その夜、城の奥の部屋で。


 黒い狼が、床に伏せていた。


 バクシンが格子の外から声をかけた。


「今日、毛を触らせてくれたんだって?」


 狼は答えなかった。


「珍しいな、王子が自分から頭を向けるなんて」


 狼はまだ答えなかった。


「嬉しかったか」


 長い沈黙があった。


 バクシンは待った。


 やがて、低い声が来た。


「……うるさい」


「それ、肯定ですね」


「うるさいと言った」


「はい、聞こえてます」


 また沈黙があった。


「……あの人は」


 狼が言った。


 低い声だった。でも、さっきより静かだった。


「何も、流れてこない」


「そうだね、心が読めない人だから」


「……怖かった、最初は」


「うん」


「今は」


 止まった。


 バクシンは待った。


「……静かだ」


 静かだ、と狼は言った。


「心が流れてこない人が、こんなに静かだとは思わなかった」


「静かって、どんな感じ?」


「……何もない、んじゃなくて。何かあるのに、流れてこない。でも、温かい」


 バクシンは何も言わなかった。


 言わないで、ただ聞いていた。


「今日、触れた」


「うん」


「手が、温かかった」


「そうか」


「……温かい人だ」


 狼は言った。


 それだけ言って、また黙った。


 バクシンは、壁に背を預けた。


 天井を見た。


 泣きそうだった。


 泣くものか、と思いながら、泣きそうだった。


「良かったな、王子」


 つぶやいた。


 狼は答えなかった。


 でも、尻尾が、ゆっくりと、一度だけ、床を叩いた。


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*(第十章へ続く)*

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