第四部 第十章 図書館で倒れる
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##第四部 「崩壊と再生」
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## 第十章 図書館で倒れる
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王城に来て、三ヶ月が経った。
三ヶ月。
璃生は朝、窓から外を見ながら、そう思った。
三ヶ月、ここにいる。
日本にいた頃の自分を、最近あまり思い出さなくなっていた。
思い出そうとすると、思い出せる。六畳の部屋。薄い壁。コンビニのおにぎり。夜の繁華街。引き出しに鍵をかけていた日々。
でも、思い出そうとしなければ、浮かんでこない。
ここでの日常が、少しずつ上書きされていた。
それが良いことかどうかは、まだ分からなかった。
でも、悪いことではない気がしていた。
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その日の朝は、少し疲れていた。
昨夜、遅くまで本を読んでいた。王子のもとへ持っていく本を選んでいて、気がついたら深夜になっていた。睡眠が足りていなかった。
でも、図書館へ行かないという選択肢が、今の璃生にはなかった。
コールに予告なく休むのが、なんとなく申し訳なかった。
理由はよく分からなかった。
でも、毎日来る、と言ったから。毎日来ている。それだけのことだった。
「今日も図書館へ行きますか」
ヤコが璃生の顔を見て、少し心配そうに言った。
「目の下に隈が出ています」
「昨夜本を読みすぎました」
「少し休まれてはいかがですか」
「大丈夫です」
「……無理をなさらないでください」
「無理ではないです」
ヤコは納得していないような顔をしたが、それ以上は言わなかった。
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チョウチョウが廊下で待っていた。
璃生の顔を見て、一瞬止まった。
「顔色悪いぞ」
「少し眠れませんでした」
「休んだほうがいいんじゃないか」
「大丈夫です。行きましょう」
チョウチョウは何か言いたそうだったが、言わなかった。
璃生の隣に並んで、歩き始めた。
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神殿の廊下を歩いていると、光が見えた。
図書館の方向から来る、透明な白い光。
シャラシャラ、という音が聞こえた。
いつもと同じ光だった。
でも今日は、光が少し強い気がした。
璃生が疲れているから、感覚が鋭くなっているのかもしれなかった。
「ニジトセ様、本当に大丈夫か」
チョウチョウがもう一度聞いた。
「大丈夫です」
「そう言うとき、大抵大丈夫じゃない」
「チョウチョウさんは、いつからわたしのことが分かるようになったんですか」
「……一ヶ月くらい前から」
「早いですね」
「毎日見てれば分かる」
璃生は少し口元が動いた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「言います」
チョウチョウが、小さく息を吐いた。
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図書館に入った。
いつもの本棚の匂い。いつもの静けさ。
今日はコールが、本棚の間にいた。
棚の整理をしていた。
璃生が入ってきたのに気づいて、一瞬こちらを見た。
「……おはよう」
「おはようございます」
コールが棚の整理に戻った。
璃生はいつものテーブルに向かった。
チョウチョウが入口の棚で本を取る音がした。
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本を開いた。
昨日の続きだった。
植物の分類書。ハルノ王国に生育する植物を、科ごとに分類したもの。挿絵が多くて、璃生はこの本が気に入っていた。
読み始めた。
でも、文字が少し滲んだ。
目が疲れているからだろう、と思って、少し瞬きした。
また読んだ。
内容は入ってきたが、ペースが遅かった。
いつもより頭の回転が鈍かった。
眠い、というより、体が重かった。
睡眠不足と、ここ数日の疲れが、積み重なっているのかもしれなかった。
璃生は本を閉じた。
今日は少し早めに切り上げようと思った。
王子のところへ行く前に、部屋で少し横になろう。
そう思って、立ち上がった。
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昨日借りた本を返そうと思った。
昨日の本は、奥の棚に返す必要があった。
コールに頼んでもよかったが、コールは今、別の場所で整理をしていた。
自分で返そう、と思った。
奥の棚へ向かった。
棚の前に来た。
本の場所は分かっていた。上から二段目だった。
この棚は、以前踏み台が必要だった棚とは別の棚だった。
璃生は本を見上げた。
手が届くかどうか、微妙な高さだった。
背伸びをしてみた。
指先が本の背表紙に触れた。
もう少しだった。
璃生はつま先立ちになった。
本に指がかかった。
少し引き出した。
そのとき。
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「御機嫌よう」
真後ろから、声がした。
低い声だった。
静かな図書館に、突然声が来た。
璃生は「ひッ!?」と声を出した。
反射だった。
体が跳ねた。
つま先立ちをしていたバランスが崩れた。
本棚に手をついた。
でも本が半分引き出されていて、棚の縁に手が引っかかった。
体が後ろに傾いた。
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落ちる、と思った。
次の瞬間。
落ちなかった。
何かに、受け止められた。
片腕が、璃生の腰のあたりに回った。
しっかりとした腕だった。
細いのに、力があった。
璃生の体が、後ろから支えられた。
落ちなかった。
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呼吸を整えた。
一回、二回。
体が、ちゃんと立っていた。
腕が、まだ璃生の腰のあたりにあった。
璃生は振り向こうとした。
振り向かなかった。
振り向く前に分かった。
銀色の髪が、視界の端に見えた。
コールだった。
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コールが、璃生を後ろから支えていた。
片腕が璃生の腰に回っていた。
コールの顔が、璃生の頭のすぐ上にあった。
至近距離だった。
璃生が振り向いたら、鼻先が触れそうな距離だった。
振り向かなかった。
振り向けなかった。
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そのとき。
璃生の胸の文様が、ぴりっとした。
痛みに近い熱さだった。
いや、熱さに近い痛みだった。
どちらとも言えない、鋭い何かだった。
水仙の輪郭が、今まで感じたことのない強さで、熱くなった。
璃生は思わず胸に手を当てた。
「どうした」
コールの声が、すぐ上から来た。
「い、」
声が出た。
「痛いのか」
「……少し」
「どこが」
「胸が、少し」
コールの腕が、璃生から離れた。
でも、璃生の肩に手がかかった。
「痛むのか、今も」
「大丈夫です、少し落ち着きます」
「落ち着く、とはどういう」
コールが、璃生の前に回り込もうとした。
璃生は反射的に後退した。
棚に背中がぶつかった。
コールが、璃生の正面に来た。
至近距離だった。
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見えた。
今日のコールは、フードを被っていなかった。
ローブは着ていたが、フードが背中に落ちていた。棚の整理をしていたから、邪魔になって外していたのだろう。
顔が見えた。
布はまだ鼻の上まで巻かれていて、眼鏡もかけていた。
でも、上半分が、見えた。
髪が見えた。
銀色の長い髪が、ローブから流れていた。
目が見えた。
眼鏡の奥の、薄いピンクの目が、璃生を見ていた。
眉が見えた。
形のいい、細い眉が、下がっていた。
心配している眉の形だった。
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璃生は、コールの顔の上半分を見た。
知らない男の人だ、と思った。
反射的にそう思った。
フードなしのコールを、こんなに近くで見たことがなかった。
髪が長くて、目が薄いピンクで、眉が細くて。
死ぬほど顔がいい。
璃生の内心が、素直にそう言った。
死ぬほど顔がいい。
眼鏡と布で半分以上隠れているのに、それでも分かる。
骨格が整っていた。鼻筋が通っていた。見えている部分だけで、圧倒的に顔がいいと分かった。
璃生は、コールを見ていた。
コールも、璃生を見ていた。
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体が、固まった。
怖い、という感覚が来た。
いつもよりも強く来た。
知らない顔の男の人が、こんなに近くにいる。
ローブを着ているが、背が高くて、腕の力が強かった。
さっき、腰に腕が回った。
体が、後退しようとした。
でも棚があった。
どこにも逃げられなかった。
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「待って」
璃生は言った。
声が、少し震えていた。
「……落ち着くので、待ってください」
「分かった」
コールが、一歩後退した。
距離が少し開いた。
「五分、待ってください」
「……待つ」
コールは動かなかった。
璃生は棚に背中をつけたまま、呼吸した。
一回。二回。三回。
胸の文様が、まだじんじんしていた。
水仙が、熱かった。
四回。五回。
少し落ち着いた。
少し、落ち着いた。
コールを見た。
コールは、璃生から二歩分の距離を保って、立っていた。
動いていなかった。
言ったとおり、待っていてくれていた。
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「……主さん、ですか」
璃生は言った。
「は?」
「いつものローブと、フードがないので、一瞬分からなくなりました。すみません」
コールは止まった。
「……わたしが分からなかったのか」
「顔が、ちゃんと見えたことがなかったので」
「……」
「眼鏡と、布と、フードで、いつも隠れているので」
「……」
「きれいな方ですね」
コールが、固まった。
完全に固まった。
璃生は続けた。
「髪も、眉も。目も、きれいな色で」
「……やめろ」
「はい」
「そういうことを言うな」
「すみません」
「言われると、困る」
「分かりました」
コールはローブのフードを引き上げた。
銀髪が、フードに隠れた。
璃生は見なかったふりをした。
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そのとき。
図書館の入口のほうで、音がした。
チョウチョウが、本棚の端から顔を出した。
「ニジトセ様、大丈夫か」
「大丈夫です」
「声がしたから」
「びっくりしただけです」
チョウチョウがコールを見た。
コールがチョウチョウを見た。
二人が、一瞬、互いを見た。
「コール様」
「……ファーブ族」
「チョウチョウです。侍従をしております」
「……知っている」
「ニジトセ様のことを驚かせたのは」
「わたしだ。悪かった」
チョウチョウは少し間を置いた。
「……ニジトセ様がつま先立ちをしていたのに、後ろから声をかけるのは危ない」
「分かった」
「以後気をつけてほしい」
「……分かった」
短い交渉だった。
コールが素直に認めたので、チョウチョウはそれ以上言わなかった。
コールの場所のほうへ視線を向けて、自分の棚へ戻った。
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コールが璃生を見た。
「胸が痛む、と言っていたが」
「大丈夫です。今は落ち着きました」
「医者を呼ぶか」
「いいえ、大丈夫です」
「……本当に?」
コールの声が、少し低くなった。
「本当に大丈夫です」
「では、お茶を飲め」
「はい」
コールが自分の場所へ歩いた。
璃生もついていった。
いつもの椅子に座った。
コールが茶器を使った。
カップに注いで、璃生のほうへ差し出した。
璃生は受け取った。
温かかった。
一口飲んだ。
花の香りがした。
体が、少し緩んだ。
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「コールさん」
「何だ」
「さっき、びっくりして、怖くなりました」
「……そうだったな。すまなかった」
「コールさんが怖いのではなくて、知らない顔の人が急に近くにいて、怖くなりました」
「……」
「混乱しました」
コールはカップを持ったまま、璃生を見た。
「それは、わたしが近くにいたせいか」
「フードなしのコールさんが近くにいたせいです」
「……つまり、わたしのせいだ」
「違います」
「どう違う」
「コールさんだと分かっていたら、怖くなりませんでした」
コールは黙った。
「……それは、わたしなら怖くないという意味か」
「そうです」
「……」
「コールさんのことは、怖くないです。いつもと違う顔が急に見えたので、混乱しました。それだけです」
コールは長い間、璃生を見ていた。
眼鏡の奥の目が、また下がっていた。
心配、だろうか。
困惑、だろうか。
両方のような気がした。
「……わたしを、怖くない、と言う人間は少ない」
コールが言った。
静かな声だった。
「そうですか」
「インサクメア族は、怖いと思われることが多い。魅了の能力があるから。近づくと何かされると思われるから」
「はい」
「お前は、怖くないのか。本当に」
「コールさんは、ちゃんと距離を保ってくれます。わたしが決めた距離を、守ってくれます。だから怖くないです」
コールは、何も言わなかった。
お茶を一口飲んだ。
「……さっき、距離を保てなかった」
「助けてくれたので、仕方ないです」
「落ちそうだったから、反射的に」
「ありがとうございます。助かりました」
「……礼を言われることをした覚えはない」
「助けてもらいました。ありがとうございます」
コールは、少し黙った。
「……どういたしまして」
初めて聞く言葉だった。
コールの口から、どういたしまして、が出た。
璃生は少し驚いたが、顔には出さなかった。
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お茶を飲み終わる頃、璃生は少しまた体が重くなってきた。
眠気が、波のように来た。
いけない、と思った。
今日は早めに切り上げるつもりだったのに、また長くなってしまった。
「今日は早めに失礼します」
璃生は立ち上がった。
立ち上がったとき、体が少し揺れた。
眠気と疲れと、緊張からの反動が、一度に来た感じだった。
コールが立ち上がった。
「どこが悪い」
「眠れていないだけです。大丈夫です」
「顔色が悪い」
「少し疲れています」
「……医者を呼ぶ」
「呼ばなくていいです」
「お前が判断することではない」
「コールさん、」
「呼ぶ」
コールが、扉の方向へ向かった。
璃生はついていこうとした。
足が、少しふらついた。
棚の端に手をついた。
大丈夫だ、と思った。
でも、体が言うことを聞いていなかった。
手についた力が、抜けていく感覚があった。
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「ニジトセ様っ」
チョウチョウの声が来た。
遠かった気がしたが、すぐ近くに来た。
体が、支えられた。
今度は両腕に、しっかりと。
チョウチョウだった。
「おい、しっかりしろ」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔してる」
「チョウチョウさんは医者じゃないので判断できないです」
「できるわ、こんだけ顔色悪かったら」
コールが戻ってきた。
「……衛兵を呼んだ。医務室に運ぶ」
「大げさです」
「大げさではない」
「コールさんが顔を出したら、衛兵が驚きませんか」
コールが止まった。
少し間があった。
「……考えていなかった」
「ほら、」
「では、ファーブ族が運べ」
「……了解した」
チョウチョウが、璃生を抱えた。
横抱きになった。
「えっ、待ってください、自分で歩けます」
「歩けない」
「歩けます」
「さっきふらついた」
「見ていたんですか」
「見てた。歩けない」
璃生は抵抗しようとした。
でも、体が重かった。
チョウチョウの腕の中で、少し力が抜けた。
「……降ろしてください」
「嫌だ」
「チョウチョウさん」
「医務室まではおれが運ぶ。嫌なら帰ってから怒鳴れ」
「……帰ってからなら怒鳴らないです」
「そうだろうな」
チョウチョウが歩き始めた。
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コールが後ろから言った。
「……衛兵が来る前に、フードを被る」
「はい」
「医務室には、行けない」
「分かっています」
「……本当に、大丈夫か」
チョウチョウが振り返った。
コールが、図書館の入口に立っていた。
フードを被っていた。
璃生を見ていた。
「大丈夫です」
璃生は言った。
「コールさんのお茶が美味しかったです。また明日来ます」
コールは何も言わなかった。
でも。
フードの奥から、何かが動いた気がした。
顔の表情は見えなかった。
でも、目が。
薄いピンクの目が、璃生を見ていた。
心配の色だった。
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廊下に出た。
衛兵が二人来ていた。
チョウチョウが事情を説明した。
「医務室へ連れていく。先導してくれ」
「承知いたしました。至急、セイネ様にもご連絡を」
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医務室は、城の中ほどにあった。
チョウチョウが璃生を運ぶ間、廊下を歩く人たちが振り返った。
璃生は、横抱きにされているのが恥ずかしかった。
「……やっぱり歩きます」
「駄目だ」
「歩けます、本当に」
「信用しない」
「チョウチョウさん」
「なんだ」
「これ、城の人たちに見られてますよ」
「見られてていい」
「恥ずかしいです」
「倒れるよりいい」
璃生は何も言えなかった。
チョウチョウは歩き続けた。
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医務室に着いた。
チョウチョウがベッドに璃生を下ろした。
侍医のセイネが来た。
シーニャ族のネ氏族だった。ネ氏族は翼を持つと聞いていたが、セイネの翼は今日は小さく折りたたまれていた。有能そうな顔をしていた。冷静な目をしていた。
「どうなさいました」
「図書館でふらつきました。倒れる前に運んできました」
「ニジトセ様、今日の体調はいつから」
「朝から少し重かったです。昨夜眠れませんでした」
「昨夜だけですか」
「……ここ数日、少し睡眠が短かったです」
「何日くらいですか」
「五日ほど」
セイネが少し眉を動かした。
「痛む場所はありますか」
「胸が、さっき少し」
「今は」
「落ち着いています」
「拝見しても」
「はい」
セイネが診始めた。
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廊下がざわついた。
扉が開いた。
王族が来た。
全員来た。
国王、王妃、第一王子、第二王子、第一王女。全員、医務室の入口に集まった。
「ニジトセ様がっ」
王妃の声が聞こえた。
「落ち着いてください、お母様」
第一王女の声が続いた。
「中に入ってもよろしいか」
第一王子の声が聞こえた。
「少々お待ちください」
セイネが答えた。
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しばらくして、セイネが診察を終えた。
「疲労と睡眠不足です。深刻な問題はありませんが、今日は休んでいただく必要があります」
「分かりました」
「今日の午後の予定は、全て中止です」
チョウチョウが「了解した」と言った。
「王子のところへ行くのも、ですか」
璃生が聞いた。
「今日は休んでください」
「……分かりました」
セイネが扉を開けた。
「どうぞ、ただし長居は禁止です」
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王族が入ってきた。
王妃が、璃生のベッドの前に来て、手を握った。
「ニジトセ様……ご無事で」
「大丈夫です、疲れが出ただけで」
「無理をなさっていたのですね」
「無理ではなかったんですけど、少し眠れていなくて」
「眠れない理由があったのですか」
「本を読んでいました」
王妃が、ほっとしたような、でも困ったような顔をした。
「読書のせいですか」
「はい。つい読みすぎてしまって」
「それなら、まあ」
「心配をかけてすみませんでした」
王妃がまた手を握ってきた。
「いいえ、いいのです。ニジトセ様がご無事なら」
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第一王子が、チョウチョウに聞いていた。
「図書館でふらついたと聞いたが」
「はい。棚から本を取ろうとして、バランスが崩れかけて。コール様が支えてくださいました」
「コールが?」
「はい」
「コールが、人に触れたのか」
「……はい」
第一王子が少し黙った。
「それは、珍しいな」
「はい」
「コールから連絡はあったか」
「衛兵を呼びに行ってくれました。自分では医務室に来られないので」
「そうか」
第一王子は何か考えているような顔をした。
「後でコールのところへ行ってくる」
「はい」
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第一王女が、璃生の隣に座った。
「ニジトセ様、本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
「顔色が悪い」
「休めば治ります」
「チョウチョウさんが横抱きで運んだって衛兵から聞いたけど」
「……恥ずかしかったです」
「かわいいじゃない」
「全然かわいくないです」
王女が笑った。
「ニジトセ様は本当にそういうことを言うのね」
「本当のことを言っているだけです」
「うん。だから好きよ」
璃生は少し目を細めた。
「王女殿下」
「メイでいいよ。殿下は長い」
「……メイ様」
「何?」
「ありがとうございます」
「何が」
「好きって言ってくれて」
メイが止まった。
それから、またにっこりした。
「こちらこそ。ニジトセ様のこと、大好きよ」
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セイネが戻ってきた。
「そろそろ、患者に休んでいただかないといけません」
「はい、はい、分かりました」
王族が立ち上がった。
王妃が璃生の手を放した。
「ゆっくり休んでくださいね」
「はい」
「何か欲しいものがあれば言ってください」
「ありがとうございます」
王族が出ていった。
チョウチョウが最後に出る前に、振り向いた。
「王子のところへ行けなくて、悔しいか」
「……少し」
「明日行けばいい」
「はい」
「今日はちゃんと休め」
「はい」
「……本を読むな」
「……努力します」
「努力じゃなくて、読むな」
「……はい」
チョウチョウが出ていった。
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璃生一人になった。
セイネが薬を持ってきた。
「これを飲んで、眠ってください」
「今日一日、寝ていれば大丈夫ですか」
「はい。ただし、明日以降も無理をしないでください」
「分かりました」
「図書館で毎日何時間も過ごして、その後王子のところへ行って、夜は本を読んでいるのでしょう」
「……はい」
「少し、ペースを落としてください」
「でも、縁結びを」
「縁結びも、あなたが倒れては進みません」
璃生は黙った。
「焦る気持ちは分かります。でも、ペースを保って続けることのほうが、大切です」
「……はい」
「では、休んでください」
セイネが部屋を出た。
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璃生は薬を飲んだ。
天井を見た。
医務室の天井は、部屋の天井より少し低かった。でも、清潔で、白かった。
胸の文様に触れた。
三つの花の輪郭がある。
水仙が、さっきよりは落ち着いていた。
でも、まだじんわりと温かかった。
さっき、コールが璃生を支えた。
細いのに、力があった。
温かかった。
怖かった。でも、分かってから、怖くなかった。
コールさんだから、怖くない。
その感覚が、自分でも少し不思議だった。
男の人が近くにいることが怖いのに、コールだと分かると怖くない。
それは、信頼があるからだろうか。
三ヶ月、毎日会って、距離を守ってくれて、本の話をして、お茶を飲んで。
その積み重ねが、怖さより先に来るようになっていた。
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薬が効いてきた。
眠くなった。
目が、重くなった。
璃生は目を閉じた。
まぶたの裏に、図書館が浮かんだ。
本棚の匂い。本の重さ。お茶の花の香り。
コールの声が、頭の中で聞こえた。
やめろ、と言う声。困った声。
どういたしまして、と言う声。
璃生はその声を聞きながら、眠りに落ちた。
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図書館では。
コールが、璃生が座っていたテーブルの前に立っていた。
椅子を、見ていた。
さっきまで、璃生がそこにいた。
本が、テーブルの端に残っていた。璃生が途中まで読んでいた植物分類書だった。
コールはそれを手に取った。
開いたページを確認した。
どこまで読んでいたか、確認した。
しおりを挟んだ。
璃生が使っていた栞ではなく、自分の栞を。
本を、テーブルの端に戻した。
明日も来る、と言っていた。
来るな、と言わなかった。
最近、来るな、と言っていない。
コールは自分の場所へ戻った。
お茶を一口飲んだ。
カップが、二つあった。
璃生のカップが、まだテーブルにあった。
片付けようとした。
やめた。
明日も来る、と言っていたから。
コールは本を開いた。
読んだ。
でも、しばらく内容が頭に入らなかった。
胸の文様のあたりが、じんわりとしていた。
白い彼岸花の輪郭が、今日は少し温かかった。
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*(第十一章へ続く)*




