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虹色の彼岸、あなたへ〜四色の花嫁〜  作者: 有寄之蟻
第四部 「崩壊と再生」
11/16

第四部 第十章 図書館で倒れる

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##第四部 「崩壊と再生」


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## 第十章 図書館で倒れる


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 王城に来て、三ヶ月が経った。


 三ヶ月。


 璃生は朝、窓から外を見ながら、そう思った。


 三ヶ月、ここにいる。


 日本にいた頃の自分を、最近あまり思い出さなくなっていた。


 思い出そうとすると、思い出せる。六畳の部屋。薄い壁。コンビニのおにぎり。夜の繁華街。引き出しに鍵をかけていた日々。


 でも、思い出そうとしなければ、浮かんでこない。


 ここでの日常が、少しずつ上書きされていた。


 それが良いことかどうかは、まだ分からなかった。


 でも、悪いことではない気がしていた。


---


 その日の朝は、少し疲れていた。


 昨夜、遅くまで本を読んでいた。王子のもとへ持っていく本を選んでいて、気がついたら深夜になっていた。睡眠が足りていなかった。


 でも、図書館へ行かないという選択肢が、今の璃生にはなかった。


 コールに予告なく休むのが、なんとなく申し訳なかった。


 理由はよく分からなかった。


 でも、毎日来る、と言ったから。毎日来ている。それだけのことだった。


「今日も図書館へ行きますか」


 ヤコが璃生の顔を見て、少し心配そうに言った。


「目の下に隈が出ています」


「昨夜本を読みすぎました」


「少し休まれてはいかがですか」


「大丈夫です」


「……無理をなさらないでください」


「無理ではないです」


 ヤコは納得していないような顔をしたが、それ以上は言わなかった。


---


 チョウチョウが廊下で待っていた。


 璃生の顔を見て、一瞬止まった。


「顔色悪いぞ」


「少し眠れませんでした」


「休んだほうがいいんじゃないか」


「大丈夫です。行きましょう」


 チョウチョウは何か言いたそうだったが、言わなかった。


 璃生の隣に並んで、歩き始めた。


---


 神殿の廊下を歩いていると、光が見えた。


 図書館の方向から来る、透明な白い光。


 シャラシャラ、という音が聞こえた。


 いつもと同じ光だった。


 でも今日は、光が少し強い気がした。


 璃生が疲れているから、感覚が鋭くなっているのかもしれなかった。


「ニジトセ様、本当に大丈夫か」


 チョウチョウがもう一度聞いた。


「大丈夫です」


「そう言うとき、大抵大丈夫じゃない」


「チョウチョウさんは、いつからわたしのことが分かるようになったんですか」


「……一ヶ月くらい前から」


「早いですね」


「毎日見てれば分かる」


 璃生は少し口元が動いた。


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


「言います」


 チョウチョウが、小さく息を吐いた。


---


 図書館に入った。


 いつもの本棚の匂い。いつもの静けさ。


 今日はコールが、本棚の間にいた。


 棚の整理をしていた。


 璃生が入ってきたのに気づいて、一瞬こちらを見た。


「……おはよう」


「おはようございます」


 コールが棚の整理に戻った。


 璃生はいつものテーブルに向かった。


 チョウチョウが入口の棚で本を取る音がした。


---


 本を開いた。


 昨日の続きだった。


 植物の分類書。ハルノ王国に生育する植物を、科ごとに分類したもの。挿絵が多くて、璃生はこの本が気に入っていた。


 読み始めた。


 でも、文字が少し滲んだ。


 目が疲れているからだろう、と思って、少し瞬きした。


 また読んだ。


 内容は入ってきたが、ペースが遅かった。


 いつもより頭の回転が鈍かった。


眠い、というより、体が重かった。


 睡眠不足と、ここ数日の疲れが、積み重なっているのかもしれなかった。


 璃生は本を閉じた。


 今日は少し早めに切り上げようと思った。


 王子のところへ行く前に、部屋で少し横になろう。


 そう思って、立ち上がった。


---


 昨日借りた本を返そうと思った。


 昨日の本は、奥の棚に返す必要があった。


 コールに頼んでもよかったが、コールは今、別の場所で整理をしていた。


 自分で返そう、と思った。


 奥の棚へ向かった。


 棚の前に来た。


 本の場所は分かっていた。上から二段目だった。


 この棚は、以前踏み台が必要だった棚とは別の棚だった。


 璃生は本を見上げた。


 手が届くかどうか、微妙な高さだった。


 背伸びをしてみた。


 指先が本の背表紙に触れた。


 もう少しだった。


 璃生はつま先立ちになった。


 本に指がかかった。


 少し引き出した。


そのとき。


---


「御機嫌よう」


 真後ろから、声がした。


 低い声だった。


 静かな図書館に、突然声が来た。


 璃生は「ひッ!?」と声を出した。


 反射だった。


 体が跳ねた。


 つま先立ちをしていたバランスが崩れた。


 本棚に手をついた。


 でも本が半分引き出されていて、棚の縁に手が引っかかった。


 体が後ろに傾いた。


---


 落ちる、と思った。


 次の瞬間。


 落ちなかった。


 何かに、受け止められた。


 片腕が、璃生の腰のあたりに回った。


 しっかりとした腕だった。


 細いのに、力があった。


 璃生の体が、後ろから支えられた。


 落ちなかった。


---


 呼吸を整えた。


 一回、二回。


 体が、ちゃんと立っていた。


 腕が、まだ璃生の腰のあたりにあった。


 璃生は振り向こうとした。


 振り向かなかった。


 振り向く前に分かった。


 銀色の髪が、視界の端に見えた。


 コールだった。


---


 コールが、璃生を後ろから支えていた。


 片腕が璃生の腰に回っていた。


 コールの顔が、璃生の頭のすぐ上にあった。


 至近距離だった。


 璃生が振り向いたら、鼻先が触れそうな距離だった。


 振り向かなかった。


 振り向けなかった。


---


 そのとき。


 璃生の胸の文様が、ぴりっとした。


 痛みに近い熱さだった。


 いや、熱さに近い痛みだった。


 どちらとも言えない、鋭い何かだった。


 水仙の輪郭が、今まで感じたことのない強さで、熱くなった。


璃生は思わず胸に手を当てた。


「どうした」


 コールの声が、すぐ上から来た。


「い、」


 声が出た。


「痛いのか」


「……少し」


「どこが」


「胸が、少し」


 コールの腕が、璃生から離れた。


 でも、璃生の肩に手がかかった。


「痛むのか、今も」


「大丈夫です、少し落ち着きます」


「落ち着く、とはどういう」


 コールが、璃生の前に回り込もうとした。


 璃生は反射的に後退した。


 棚に背中がぶつかった。


 コールが、璃生の正面に来た。


 至近距離だった。


---


 見えた。


 今日のコールは、フードを被っていなかった。


 ローブは着ていたが、フードが背中に落ちていた。棚の整理をしていたから、邪魔になって外していたのだろう。


 顔が見えた。


 布はまだ鼻の上まで巻かれていて、眼鏡もかけていた。


 でも、上半分が、見えた。


髪が見えた。


 銀色の長い髪が、ローブから流れていた。


 目が見えた。


 眼鏡の奥の、薄いピンクの目が、璃生を見ていた。


 眉が見えた。


 形のいい、細い眉が、下がっていた。


 心配している眉の形だった。


---


 璃生は、コールの顔の上半分を見た。


 知らない男の人だ、と思った。


 反射的にそう思った。


 フードなしのコールを、こんなに近くで見たことがなかった。


 髪が長くて、目が薄いピンクで、眉が細くて。


 死ぬほど顔がいい。


 璃生の内心が、素直にそう言った。


 死ぬほど顔がいい。


 眼鏡と布で半分以上隠れているのに、それでも分かる。


 骨格が整っていた。鼻筋が通っていた。見えている部分だけで、圧倒的に顔がいいと分かった。


 璃生は、コールを見ていた。


 コールも、璃生を見ていた。


---


 体が、固まった。


 怖い、という感覚が来た。


 いつもよりも強く来た。


 知らない顔の男の人が、こんなに近くにいる。


 ローブを着ているが、背が高くて、腕の力が強かった。


 さっき、腰に腕が回った。


 体が、後退しようとした。


 でも棚があった。


 どこにも逃げられなかった。


---


「待って」


 璃生は言った。


 声が、少し震えていた。


「……落ち着くので、待ってください」


「分かった」


 コールが、一歩後退した。


 距離が少し開いた。


「五分、待ってください」


「……待つ」


 コールは動かなかった。


 璃生は棚に背中をつけたまま、呼吸した。


 一回。二回。三回。


 胸の文様が、まだじんじんしていた。


 水仙が、熱かった。


 四回。五回。


 少し落ち着いた。


 少し、落ち着いた。


 コールを見た。


 コールは、璃生から二歩分の距離を保って、立っていた。


 動いていなかった。


 言ったとおり、待っていてくれていた。


---


「……主さん、ですか」


 璃生は言った。


「は?」


「いつものローブと、フードがないので、一瞬分からなくなりました。すみません」


 コールは止まった。


「……わたしが分からなかったのか」


「顔が、ちゃんと見えたことがなかったので」


「……」


「眼鏡と、布と、フードで、いつも隠れているので」


「……」


「きれいな方ですね」


 コールが、固まった。


 完全に固まった。


 璃生は続けた。


「髪も、眉も。目も、きれいな色で」


「……やめろ」


「はい」


「そういうことを言うな」


「すみません」


「言われると、困る」


「分かりました」


 コールはローブのフードを引き上げた。


 銀髪が、フードに隠れた。


 璃生は見なかったふりをした。


---


 そのとき。


 図書館の入口のほうで、音がした。


 チョウチョウが、本棚の端から顔を出した。


「ニジトセ様、大丈夫か」


「大丈夫です」


「声がしたから」


「びっくりしただけです」


 チョウチョウがコールを見た。


 コールがチョウチョウを見た。


 二人が、一瞬、互いを見た。


「コール様」


「……ファーブ族」


「チョウチョウです。侍従をしております」


「……知っている」


「ニジトセ様のことを驚かせたのは」


「わたしだ。悪かった」


 チョウチョウは少し間を置いた。


「……ニジトセ様がつま先立ちをしていたのに、後ろから声をかけるのは危ない」


「分かった」


「以後気をつけてほしい」


「……分かった」


 短い交渉だった。


 コールが素直に認めたので、チョウチョウはそれ以上言わなかった。


 コールの場所のほうへ視線を向けて、自分の棚へ戻った。


---


 コールが璃生を見た。


「胸が痛む、と言っていたが」


「大丈夫です。今は落ち着きました」


「医者を呼ぶか」


「いいえ、大丈夫です」


「……本当に?」


 コールの声が、少し低くなった。


「本当に大丈夫です」


「では、お茶を飲め」


「はい」


 コールが自分の場所へ歩いた。


 璃生もついていった。


 いつもの椅子に座った。


 コールが茶器を使った。


 カップに注いで、璃生のほうへ差し出した。


 璃生は受け取った。


 温かかった。


 一口飲んだ。


 花の香りがした。


 体が、少し緩んだ。


---


「コールさん」


「何だ」


「さっき、びっくりして、怖くなりました」


「……そうだったな。すまなかった」


「コールさんが怖いのではなくて、知らない顔の人が急に近くにいて、怖くなりました」


「……」


「混乱しました」


 コールはカップを持ったまま、璃生を見た。


「それは、わたしが近くにいたせいか」


「フードなしのコールさんが近くにいたせいです」


「……つまり、わたしのせいだ」


「違います」


「どう違う」


「コールさんだと分かっていたら、怖くなりませんでした」


 コールは黙った。


「……それは、わたしなら怖くないという意味か」


「そうです」


「……」


「コールさんのことは、怖くないです。いつもと違う顔が急に見えたので、混乱しました。それだけです」


 コールは長い間、璃生を見ていた。


 眼鏡の奥の目が、また下がっていた。


 心配、だろうか。


 困惑、だろうか。


 両方のような気がした。


「……わたしを、怖くない、と言う人間は少ない」


 コールが言った。


 静かな声だった。


「そうですか」


「インサクメア族は、怖いと思われることが多い。魅了の能力があるから。近づくと何かされると思われるから」


「はい」


「お前は、怖くないのか。本当に」


「コールさんは、ちゃんと距離を保ってくれます。わたしが決めた距離を、守ってくれます。だから怖くないです」


 コールは、何も言わなかった。


 お茶を一口飲んだ。


「……さっき、距離を保てなかった」


「助けてくれたので、仕方ないです」


「落ちそうだったから、反射的に」


「ありがとうございます。助かりました」


「……礼を言われることをした覚えはない」


「助けてもらいました。ありがとうございます」


 コールは、少し黙った。


「……どういたしまして」


 初めて聞く言葉だった。


 コールの口から、どういたしまして、が出た。


 璃生は少し驚いたが、顔には出さなかった。


---


 お茶を飲み終わる頃、璃生は少しまた体が重くなってきた。


 眠気が、波のように来た。


 いけない、と思った。


 今日は早めに切り上げるつもりだったのに、また長くなってしまった。


「今日は早めに失礼します」


 璃生は立ち上がった。


 立ち上がったとき、体が少し揺れた。


 眠気と疲れと、緊張からの反動が、一度に来た感じだった。


 コールが立ち上がった。


「どこが悪い」


「眠れていないだけです。大丈夫です」


「顔色が悪い」


「少し疲れています」


「……医者を呼ぶ」


「呼ばなくていいです」


「お前が判断することではない」


「コールさん、」


「呼ぶ」


 コールが、扉の方向へ向かった。


 璃生はついていこうとした。


足が、少しふらついた。


 棚の端に手をついた。


 大丈夫だ、と思った。


 でも、体が言うことを聞いていなかった。


 手についた力が、抜けていく感覚があった。


---


 「ニジトセ様っ」


 チョウチョウの声が来た。


 遠かった気がしたが、すぐ近くに来た。


 体が、支えられた。


 今度は両腕に、しっかりと。


 チョウチョウだった。


「おい、しっかりしろ」


「……大丈夫です」


「大丈夫じゃない顔してる」


「チョウチョウさんは医者じゃないので判断できないです」


「できるわ、こんだけ顔色悪かったら」


 コールが戻ってきた。


「……衛兵を呼んだ。医務室に運ぶ」


「大げさです」


「大げさではない」


「コールさんが顔を出したら、衛兵が驚きませんか」


 コールが止まった。


 少し間があった。


「……考えていなかった」


「ほら、」


「では、ファーブ族が運べ」


「……了解した」


 チョウチョウが、璃生を抱えた。


 横抱きになった。


「えっ、待ってください、自分で歩けます」


「歩けない」


「歩けます」


「さっきふらついた」


「見ていたんですか」


「見てた。歩けない」


 璃生は抵抗しようとした。


 でも、体が重かった。


 チョウチョウの腕の中で、少し力が抜けた。


「……降ろしてください」


「嫌だ」


「チョウチョウさん」


「医務室まではおれが運ぶ。嫌なら帰ってから怒鳴れ」


「……帰ってからなら怒鳴らないです」


「そうだろうな」


 チョウチョウが歩き始めた。


---


 コールが後ろから言った。


「……衛兵が来る前に、フードを被る」


「はい」


「医務室には、行けない」


「分かっています」


「……本当に、大丈夫か」


 チョウチョウが振り返った。


 コールが、図書館の入口に立っていた。


 フードを被っていた。


 璃生を見ていた。


「大丈夫です」


 璃生は言った。


「コールさんのお茶が美味しかったです。また明日来ます」


 コールは何も言わなかった。


 でも。


 フードの奥から、何かが動いた気がした。


 顔の表情は見えなかった。


 でも、目が。


 薄いピンクの目が、璃生を見ていた。


 心配の色だった。


---


 廊下に出た。


 衛兵が二人来ていた。


 チョウチョウが事情を説明した。


「医務室へ連れていく。先導してくれ」


「承知いたしました。至急、セイネ様にもご連絡を」


---


 医務室は、城の中ほどにあった。


 チョウチョウが璃生を運ぶ間、廊下を歩く人たちが振り返った。


 璃生は、横抱きにされているのが恥ずかしかった。


「……やっぱり歩きます」


「駄目だ」


「歩けます、本当に」


「信用しない」


「チョウチョウさん」


「なんだ」


「これ、城の人たちに見られてますよ」


「見られてていい」


「恥ずかしいです」


「倒れるよりいい」


 璃生は何も言えなかった。


 チョウチョウは歩き続けた。


---


 医務室に着いた。


 チョウチョウがベッドに璃生を下ろした。


 侍医のセイネが来た。


 シーニャ族のネ氏族だった。ネ氏族は翼を持つと聞いていたが、セイネの翼は今日は小さく折りたたまれていた。有能そうな顔をしていた。冷静な目をしていた。


「どうなさいました」


「図書館でふらつきました。倒れる前に運んできました」


「ニジトセ様、今日の体調はいつから」


「朝から少し重かったです。昨夜眠れませんでした」


「昨夜だけですか」


「……ここ数日、少し睡眠が短かったです」


「何日くらいですか」


「五日ほど」


 セイネが少し眉を動かした。


「痛む場所はありますか」


「胸が、さっき少し」


「今は」


「落ち着いています」


「拝見しても」


「はい」


 セイネが診始めた。


---


 廊下がざわついた。


 扉が開いた。


 王族が来た。


 全員来た。


 国王、王妃、第一王子、第二王子、第一王女。全員、医務室の入口に集まった。


「ニジトセ様がっ」


 王妃の声が聞こえた。


「落ち着いてください、お母様」


 第一王女の声が続いた。


「中に入ってもよろしいか」


 第一王子の声が聞こえた。


「少々お待ちください」


 セイネが答えた。


---


 しばらくして、セイネが診察を終えた。


「疲労と睡眠不足です。深刻な問題はありませんが、今日は休んでいただく必要があります」


「分かりました」


「今日の午後の予定は、全て中止です」


 チョウチョウが「了解した」と言った。


「王子のところへ行くのも、ですか」


 璃生が聞いた。


「今日は休んでください」


「……分かりました」


セイネが扉を開けた。


「どうぞ、ただし長居は禁止です」


---


 王族が入ってきた。


 王妃が、璃生のベッドの前に来て、手を握った。


「ニジトセ様……ご無事で」


「大丈夫です、疲れが出ただけで」


「無理をなさっていたのですね」


「無理ではなかったんですけど、少し眠れていなくて」


「眠れない理由があったのですか」


「本を読んでいました」


 王妃が、ほっとしたような、でも困ったような顔をした。


「読書のせいですか」


「はい。つい読みすぎてしまって」


「それなら、まあ」


「心配をかけてすみませんでした」


 王妃がまた手を握ってきた。


「いいえ、いいのです。ニジトセ様がご無事なら」


---


 第一王子が、チョウチョウに聞いていた。


「図書館でふらついたと聞いたが」


「はい。棚から本を取ろうとして、バランスが崩れかけて。コール様が支えてくださいました」


「コールが?」


「はい」


「コールが、人に触れたのか」


「……はい」


 第一王子が少し黙った。


「それは、珍しいな」


「はい」


「コールから連絡はあったか」


「衛兵を呼びに行ってくれました。自分では医務室に来られないので」


「そうか」


 第一王子は何か考えているような顔をした。


「後でコールのところへ行ってくる」


「はい」


---


 第一王女が、璃生の隣に座った。


「ニジトセ様、本当に大丈夫?」


「大丈夫です」


「顔色が悪い」


「休めば治ります」


「チョウチョウさんが横抱きで運んだって衛兵から聞いたけど」


「……恥ずかしかったです」


「かわいいじゃない」


「全然かわいくないです」


 王女が笑った。


「ニジトセ様は本当にそういうことを言うのね」


「本当のことを言っているだけです」


「うん。だから好きよ」


 璃生は少し目を細めた。


「王女殿下」


「メイでいいよ。殿下は長い」


「……メイ様」


「何?」


「ありがとうございます」


「何が」


「好きって言ってくれて」


 メイが止まった。


それから、またにっこりした。


「こちらこそ。ニジトセ様のこと、大好きよ」


---


 セイネが戻ってきた。


「そろそろ、患者に休んでいただかないといけません」


「はい、はい、分かりました」


 王族が立ち上がった。


 王妃が璃生の手を放した。


「ゆっくり休んでくださいね」


「はい」


「何か欲しいものがあれば言ってください」


「ありがとうございます」


 王族が出ていった。


 チョウチョウが最後に出る前に、振り向いた。


「王子のところへ行けなくて、悔しいか」


「……少し」


「明日行けばいい」


「はい」


「今日はちゃんと休め」


「はい」


「……本を読むな」


「……努力します」


「努力じゃなくて、読むな」


「……はい」


 チョウチョウが出ていった。


---


 璃生一人になった。


 セイネが薬を持ってきた。


「これを飲んで、眠ってください」


「今日一日、寝ていれば大丈夫ですか」


「はい。ただし、明日以降も無理をしないでください」


「分かりました」


「図書館で毎日何時間も過ごして、その後王子のところへ行って、夜は本を読んでいるのでしょう」


「……はい」


「少し、ペースを落としてください」


「でも、縁結びを」


「縁結びも、あなたが倒れては進みません」


 璃生は黙った。


「焦る気持ちは分かります。でも、ペースを保って続けることのほうが、大切です」


「……はい」


「では、休んでください」


 セイネが部屋を出た。


---


 璃生は薬を飲んだ。


 天井を見た。


 医務室の天井は、部屋の天井より少し低かった。でも、清潔で、白かった。


 胸の文様に触れた。


 三つの花の輪郭がある。


 水仙が、さっきよりは落ち着いていた。


 でも、まだじんわりと温かかった。


 さっき、コールが璃生を支えた。


 細いのに、力があった。


 温かかった。


 怖かった。でも、分かってから、怖くなかった。


 コールさんだから、怖くない。


 その感覚が、自分でも少し不思議だった。


男の人が近くにいることが怖いのに、コールだと分かると怖くない。


 それは、信頼があるからだろうか。


 三ヶ月、毎日会って、距離を守ってくれて、本の話をして、お茶を飲んで。


 その積み重ねが、怖さより先に来るようになっていた。


---


 薬が効いてきた。


 眠くなった。


 目が、重くなった。


 璃生は目を閉じた。


 まぶたの裏に、図書館が浮かんだ。


 本棚の匂い。本の重さ。お茶の花の香り。


 コールの声が、頭の中で聞こえた。


 やめろ、と言う声。困った声。


 どういたしまして、と言う声。


 璃生はその声を聞きながら、眠りに落ちた。


---


 図書館では。


 コールが、璃生が座っていたテーブルの前に立っていた。


 椅子を、見ていた。


 さっきまで、璃生がそこにいた。


 本が、テーブルの端に残っていた。璃生が途中まで読んでいた植物分類書だった。


 コールはそれを手に取った。


 開いたページを確認した。


 どこまで読んでいたか、確認した。


 しおりを挟んだ。


 璃生が使っていた栞ではなく、自分の栞を。


 本を、テーブルの端に戻した。


 明日も来る、と言っていた。


 来るな、と言わなかった。


 最近、来るな、と言っていない。


 コールは自分の場所へ戻った。


 お茶を一口飲んだ。


 カップが、二つあった。


 璃生のカップが、まだテーブルにあった。


 片付けようとした。


 やめた。


 明日も来る、と言っていたから。


 コールは本を開いた。


 読んだ。


 でも、しばらく内容が頭に入らなかった。


 胸の文様のあたりが、じんわりとしていた。


 白い彼岸花の輪郭が、今日は少し温かかった。


---


*(第十一章へ続く)*

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