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虹色の彼岸、あなたへ〜四色の花嫁〜  作者: 有寄之蟻
第四部 「崩壊と再生」
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第十一章 王女との対話と本音

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## 第十一章 王女との対話と本音


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 目が覚めたとき、部屋が暗かった。


 医務室の窓から、夕方の光が入っていた。


 橙色の光だった。


 璃生はしばらく天井を見ていた。


 薬が効いたのか、よく眠れた。体が、少し軽くなっていた。


 どのくらい眠ったのだろう、と思った。


 昼前に運ばれてきた。今は夕方だった。数時間、眠っていたことになる。


---


 扉が、そっとノックされた。


「……起きていらっしゃいますか」


 メイの声だった。


「起きています」


「入ってもいい?」


「どうぞ」


 扉が開いた。


 メイが入ってきた。


 いつもの活発な雰囲気が、今日は少し抑えられていた。


 手に、小さな籠を持っていた。


「セイネ先生から、もう少し休んでいいって許可をもらったの。今日はここに泊まったほうがいいって」


「泊まる必要はないと思いますけど」


「先生がそう言ったの。だから、夕食を持ってきたわ」


 籠の中に、小さな包みがいくつかあった。


「ありがとうございます」


「一緒に食べてもいい?」


「はい」


 メイが椅子を引いて、璃生のベッドの横に座った。


 籠から包みを取り出した。


 温かい料理だった。スープと、柔らかいパンと、果物が少し。


「食べられそう?」


「はい。ありがとうございます」


 璃生はベッドの上で体を起こした。


 受け取って、食べ始めた。


 温かかった。


 スープが、優しい味だった。


---


 二人で食べた。


 しばらく、何も話さなかった。


 外が、少しずつ暗くなっていった。


 メイが果物を一口食べて、璃生を見た。


「ニジトセ様って、何を考えているか分からないときがあるわ」


「そうですか」


「みんなに優しくして、ちゃんと話して、でも自分のことはあまり話さないでしょう」


「……話すことが、あまりないので」


「ある、と思うけど」


 璃生は少し間を置いた。


「メイ様は、どうしてそう思うんですか」


「顔よ」


「顔」


「時々、すごく遠い目をするから。ここにいるけど、どこか遠くを見ているみたいな目」


 璃生は手の中のスープを見た。


「……気づかれていましたか」


「うん」


「すみません」


「謝らなくていいわ。ただ」


 メイが少し前に身を乗り出した。


「あなたも、何かがあってここに来たのよね」


---


 静かだった。


 医務室の外が、静かだった。


 夕方の静けさだった。


 璃生はスープを見ていた。


 何かがあって、という言葉が、頭の中で転がった。


 何かがあって。


 あった。


 たくさん、あった。


 でも、話していなかった。


 誰にも話していなかった。


 三ヶ月、ここにいて、誰にも話していなかった。


 チョウチョウには少しだけ言った。自分の気持ちがよく分からない、と。


 でも、理由は言っていなかった。


 なぜ分からなくなったのかを、言っていなかった。


---


「……メイ様」


「うん」


「話を、聞いてもらえますか」


 メイは、静かに頷いた。


「聞くわ」


---


 璃生は、スープを置いた。


 手のひらを、膝の上に置いた。


 窓の外を見た。


 空が、少しずつ暗くなっていた。


「わたし、日本で、風俗で働いていました」


 言った。


 声が、少し震えた。


 でも、言えた。


「お金が必要で、他に方法がなくて、始めました。最初は、仕方ない、と思っていました。生活するために必要なことだと」


 メイは何も言わなかった。


 ただ、聞いていた。


「でも、続けていくうちに、おかしくなっていきました。体の感覚が、どんどん鈍くなっていって。気持ちも、どんどん遠くなっていって」


 璃生は手のひらを見た。


「男の人が、怖くなっていきました。仕事では怖いと言えないから、怖さを全部引き出しに入れて鍵をかけて、なかったことにしていました。でもそれを続けていたら、怖さだけじゃなくて、他の感情も全部、入れて鍵をかけないと続けられなくなってきて」


 声が、また少し揺れた。


「うれしいとか、悲しいとか、そういうのが、全部分からなくなっていきました。空を見てもきれいだと思えなくて、ご飯を食べておいしいと思えなくて、好きだったものが好きかどうか分からなくなっていって」


 璃生は目を閉じた。


「死にたい、と思うようになっていきました」


---


 メイが、小さく息を飲んだ。


 璃生はそれを聞いたが、続けた。


「死にたい、というよりも、消えたい、という感じでした。わたしがいなければよかった、というか、もうどこにもいたくない、というか」


「……」


「でも、死ぬほどの勇気もなくて。死ねないまま、どうでもいい、という気持ちがずっとそこにありました」


 璃生は目を開けた。


「そのときに、女神さまが来て、スカウトしてくれました。怪しいと思いました。でも、どうでもいいから、承諾しました。怪しくても、騙されても、どうでもいいと思っていたので」


 璃生は自分の胸に手を当てた。


「ここに来て、みなさんが大切にしてくださいます。神官長様も、国王様も、王妃様も、メイ様も、チョウチョウさんも、ヤコさんも、バクシンさんも」


「……うん」


「大切にしてもらうたびに、罪悪感があります」


「罪悪感」


「わたしがこんなふうに大切にされていいのか、と思います。わたしは、そういう仕事をしていた人間で、男の人が怖くて、自分の気持ちも分からなくなっていて、そんな人間が縁結びをするなんて、王子様や、コールさんや、チョウチョウさんに申し訳ない、と」


 璃生の声が、また揺れた。


「大切にしてもらうたびに、自分がここにいていい理由が見つからなくて、逆に苦しくなることがありました」


---


 涙が、来た。


 こらえようとした。


 でも、こらえられなかった。


 璃生の目から、涙がこぼれた。


「わたし、男性が怖い、です」


 声が、かすれた。


「こんなに怖いのに、縁を結ぶことができるのかどうか、分からないです。王子様に怒鳴られると、体が固まります。知らない男の人が近くに来ると、感情が全部閉まります。それが治らないのに、縁を深めることができるのか、」


 息が、少し詰まった。


「縁結びも果たせない、子どもを産むなんてもっと無理、だとしたら、ここにいる意味がないんじゃないかと、思うことがあります」


 璃生は手で顔を覆った。


「ここにいる意味が、見つからないと思うことがあります……っ」


---


 声を上げて泣いた。


 久しぶりだった。


 声を上げて泣いたのが、いつぶりか分からなかった。


 日本にいた頃は、泣くことすらできなかった。


 引き出しに全部入れていたから。


 でも今、引き出しが開いていた。


 鍵が、開いていた。


 泣いていた。


 声が出ていた。


---


 扉の外で。


 コールが、壁に背を預けていた。


 璃生が医務室にいると聞いて、来ていた。


 入れなかった。


 入る理由が、なかった。


 でも、来ていた。


 廊下の、扉から少し離れた場所に立っていた。


---


 もう少し先の廊下で。


 チョウチョウも、壁に背を預けていた。


 夕食を届けて、そのまま廊下で待っていた。


 王族の方で、王女殿下が話を聞いてくれると言ったから、任せた。


 でも、離れられなかった。


---


 璃生の声が、扉越しに聞こえた。


 言葉の一つ一つが、聞こえた。


 コールは目を閉じた。


 チョウチョウは、拳を壁に当てた。


 強くではなかった。


 ただ、当てた。


---


 璃生は泣きながら、話し続けた。


「ここに来て、楽しいと思うことも、あります。本を読むのが楽しくて、図書館が好きで、王子様の耳がふかふかしていて、コールさんのお茶が美味しくて、チョウチョウさんが本当のことを言ってくれて、ヤコさんがいつも気遣ってくれて」


「うん」


「でも、そういう楽しいことがあるたびに、でもわたしには資格がないんじゃないかと思って、苦しくなります」


「資格」


「楽しいと思う資格が、ここにいる資格が、縁結びをする資格が、わたしにはないんじゃないかと」


---


 メイは、璃生をしばらく見ていた。


 璃生が泣きながら話すのを、静かに聞いていた。


 話が止まったとき、メイが口を開いた。


「ニジトセ様」


「……はい」


「一つだけ、聞いていい?」


「……はい」


「あなたが今、ここにいること。それ自体は、誰かに迷惑をかけていると思う?」


 璃生は少し考えた。


「……分からないです」


「迷惑をかけている、と感じることはある?」


「……ないです。かけているとは、思わないです」


「じゃあ、あなたがここにいることで、誰かが嫌な思いをしていると思う?」


「……していないと、思います」


「そうね」


 メイは、少し前に身を乗り出した。


「ニジトセ様がここに来たこと自体が、女神さまが存在するという証なの」


「……え」


「女神さまがいることを、この国の人たちは信じている。でも見えないし、証拠がない。そこに、あなたが現れた。女神さまにスカウトされて、この世界に来て、朱色の角と龍目と彼岸花の文様を持って」


 メイは璃生の目を見た。


「あなたが存在していること自体が、女神さまが本当にいるという証拠なの。それだけで、この国の人たちに希望を与えているわ」


「でも、それはわたしではなくて、女神さまが」


「あなたが来てくれなければ、証拠にならなかった。あなたが承諾してくれたから、ここに来てくれたから、証拠になったの」


 璃生は、メイを見た。


「……でも、わたし、どうでもいいからポチって押しただけで」


「それでも来てくれた。どんな理由であっても、来てくれたことは事実よ」


---


 メイが、璃生の手を取った。


「ニジトセ様が怖いことも、苦しいことも、分からないことも、全部あっていいの。完璧じゃなくてもいいの。男の人が怖くても、自分の感情が分からなくても、それでも来てくれた。それだけで十分なの」


「十分」


「十分よ。あなたがいるだけで、王子は毎日尻尾を揺らしているわ。コールは図書館のドアを誰かに開けている。チョウチョウさんは本当のことを話すようになっている」


 璃生の涙が、また来た。


「それはわたしのせいじゃなくて、みんながもともとそういう人で」


「あなたがいなければ、変わらなかったわ」


「でも」


「ねえ、ニジトセ様」


 メイが、璃生の手を強く握った。


「居る意味がないだなんて、言わないでくださいまし」


 声が、少し震えていた。


「あなたが来てくれてから、お兄様が笑うようになったの。あんなに閉じていたお兄様が、毎日、笑うようになった。それがどれだけ嬉しいか」


「王子様が、笑っているんですか」


「尻尾が揺れているのは、笑っているのと同じよ。ルールー族にとって」


 璃生は、目を細めた。


「……そうなんですか」


「そうなの。だから、あなたがいる意味は、ちゃんとあるの」


---


 璃生は、また泣いた。


 今度の涙は、さっきと少し違う涙だった。


 さっきの涙は、苦しさからの涙だった。


 今の涙は、何か違うものが混じっていた。


 温かい、何か。


 ずっと引き出しの中にしまっていた、何か。


「……やっと」


 璃生はつぶやいた。


「何?」


「やっと、存在が許された気がした」


 声が、かすれていた。


「ずっと、自分がここにいていい理由が見つからなかった。ここでも、日本でも。ここに来る前から、わたしには存在する理由がないんじゃないかと、ずっと思っていました」


「……」


「でも、メイ様が、いるだけで十分だと言ってくれた。それが、なんか、」


 また涙が来た。


「なんか、やっと許してもらえた気がして」


---


 メイが、璃生を抱きしめた。


 璃生の肩に、腕が回った。


 力強い抱擁だった。


 メイは小柄だったが、その腕は温かくて、しっかりしていた。


「許してるわ。ずっと許してた。あなたが来た最初の日から」


 メイの声も、少し揺れていた。


「だからちゃんとここにいてくれなきゃ嫌よ。どこにも消えないでちょうだい」


「……はい」


「消えないって言って」


「消えません」


「もっとちゃんと言って」


「……消えません。ここにいます」


「そうよ、そうしてくれなきゃ困るわ」


 メイが、璃生の背中を叩いた。


 子どもをあやすような、優しい叩き方だった。


 璃生は、メイに抱きしめられながら、泣いた。


 声を上げて、泣いた。


---


 廊下で。


 コールが、壁に背を預けたまま、動かなかった。


 扉越しに聞こえてくる声を、聞いていた。


 璃生の声が聞こえた。


 メイの声が聞こえた。


 消えません、ここにいます、という璃生の声が聞こえた。


コールは、目を閉じた。


 胸の文様のあたりが、じんわりとしていた。


 白い彼岸花の輪郭が、今日は少し違う温かさだった。


 コールは、ゆっくりと壁から背を離した。


 廊下を歩き始めた。


 自分の行為を、振り返っていた。


 距離を保つという言い訳のもとで、本当は何をしていたのか。


 璃生が怖い思いをした話を聞いた。


 自分が今日、コールだと気づかれない状態で急に近くにいたこと。


 璃生が一瞬、体を固めたこと。


 あれが、どういう感覚だったのか。


 璃生の口から直接聞いた。


 コールは廊下を歩きながら、それを考えていた。


---


 チョウチョウも、廊下を歩き始めた。


 反対方向に歩いた。


 壁がないところまで歩いて、窓の前に立った。


 夜の庭が見えた。


 暗かった。


 チョウチョウは庭を見た。


 璃生の声を思い出した。


 風俗で働いていた、という言葉。


 男の人が怖い、という言葉。


 死にたい、と思っていた、という言葉。


 チョウチョウは庭を見ながら、自分がしたことを考えた。


 眠っているときに、キスをした。


 怖い思いをして、感覚を鈍くして、でもここでは少しずつ取り戻してきている人に。


 眠っているときに。


 勝手に。


 チョウチョウは窓枠に手をついた。


 額を、窓枠に押し当てた。


「……最低だったな、おれ」


 誰にも聞こえない声でつぶやいた。


 謝った、と思っていた。


 でも、今日聞いた話の後では、あの謝罪が、全然足りていない気がした。


 もっと謝る必要があった。


 でも今は、謝れなかった。


 今の璃生に近づける気がしなかった。


---


 医務室の中。


 璃生とメイが、抱き合いながら、少しずつ泣き止んでいた。


 メイが先に顔を上げた。


「……ニジトセ様、鼻が赤いわ」


「メイ様も赤いです」


「本当?」


「はい」


「お互い様ね」


「そうですね」


 メイが、璃生の頬を拭いた。


 璃生も、袖で目を拭いた。


「話してくれてありがとう」


「聞いてくれてありがとうございます」


「一人で抱えていたのね、ずっと」


「……はい」


「これからは、一人で抱えなくていいわ。わたしもいるし、みんなもいるから」


「はい」


「本当に?」


「……本当に」


 璃生は、メイを見た。


 メイが笑っていた。


 鼻が赤いのに、笑っていた。


 璃生も、口元が動いた。


 笑いそうになった。


 笑いにくい状況だったが、笑いそうになった。


「メイ様、鼻がもっと赤くなっています」


「言わないでくれる?」


「言いませんでした」


「今言ったわよ」


「失礼しました」


 メイが、璃生の手を叩いた。


 優しく、軽く。


 それが何か、おかしかった。


 璃生は、少し笑った。


 ちゃんと笑えた。


---


 夜が来た。


 璃生は医務室のベッドで横になった。


 今夜はここで眠る、とセイネに言われていた。


 窓から夜空が見えた。


 星が多かった。


 いつもの夜空だった。


 でも、今夜は少し違って見えた。


 同じ星なのに、少し明るく見えた。


---


 璃生は胸の文様に触れた。


 三つの花の輪郭がある。


 いつもと同じように、確認した。


 でも今日は、触れた瞬間に、何か違うものを感じた。


 三つの花が、いつもより温かかった。


 白さの中に、何かがある気がした。


 気のせいかもしれなかった。


 でも、三つとも、じんわりと温かかった。


 璃生は手を下ろした。


 窓の外を見た。


 存在が許された気がした、と言った。


 やっと。


 三ヶ月かかった。


 でも、やっと。


 誰かに、ここにいていいと言ってもらえた。


 消えないでと言ってもらえた。


璃生は目を閉じた。


 今夜は、ちゃんと眠れる気がした。


 薬がなくても、眠れる気がした。


---


 その夜、コールは図書館にいた。


 璃生が置いていった本を、手に持っていた。


 しおりを挟んだページを開いた。


 植物の分類書だった。


 璃生がどこまで読んでいたか、挟んだしおりで分かった。


 コールはそのページを読んだ。


 次のページも読んだ。


 璃生が明日読む部分を、先に読んだ。


 面白いところがあれば、話してやれる。


 そう思った。


 思ってから、自分がそう思っていることに気づいた。


 話してやれる、と思っていた。


 璃生が来たときに、話してやれる、と思っていた。


 コールは本を閉じた。


 自分の胸の文様に触れた。


 白い彼岸花の輪郭が、そこにあった。


 ふわりと、温かかった。


 コールはしばらく、その温かさに触れていた。


 今夜、璃生が泣いているのを聞いた。


 怖い、という声を聞いた。


 ここにいる意味がない、という声を聞いた。


 消えません、という声を聞いた。


 コールは目を閉じた。


 消えないでくれ、と思った。


 誰かに向かって、そう思ったのが、いつぶりかも分からなかった。


 でも、思った。


 ちゃんと、思った。


---


*(第十二章へ続く)*

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