第五部 第十三章 王子の変化
---
##第五部 「それぞれの決意」
---
## 第十三章 王子の変化
---
王城に来て、四ヶ月が経った。
春から夏へ向かう季節だった。
この世界の夏は、日本の夏とは少し違った。
湿気が少なかった。
日差しは強いが、木陰に入ると涼しかった。風が通ると、肌に心地よかった。
璃生は最近、廊下の窓を通るとき、少し立ち止まるようになっていた。
外の光を、意識的に見るようになっていた。
意識しなければ見られないから、意識して見た。
きれいだと思えることを、大切にしようとしていた。
---
その日の朝は、よく晴れていた。
朝食を食べて、ヤコに支度を手伝ってもらって、廊下に出た。
チョウチョウが待っていた。
「今日は王子のところから行くか、図書館から行くか」
「王子様のところから行きます」
「了解」
二人で歩き始めた。
「チョウチョウさん、昨日の鉱石の本、読み終わりましたか」
「……読んだ。さっぱり分からなかった」
「コールさんに聞いてみますか。今日、帰りに図書館に寄るので」
「……聞いても、答えてくれるか」
「本の話なら答えてくれます」
「……そうか」
チョウチョウは少し考えてから言った。
「じゃあ、聞いてみる」
「一緒に聞きましょう」
「おれ一人で聞く」
「えっ」
「おまえがいると甘えてしまいそうだから、一人で聞く」
璃生は少し間を置いた。
「チョウチョウさん、成長しましたね」
「うるさい」
「本当に」
「うるさいって言っている」
璃生は口元が動くのをこらえた。
---
王子の廊下に入った。
チョウチョウが手前で止まった。
璃生は一人で歩いた。
光が見えてきた。
夜空の色に滲む、白い光。
シャラシャラ、という音がした。
今日の音は、少し穏やかだった。
璃生が廊下を歩いていると、扉が開いていた。
今日も、最初から開いていた。
でも、今日は扉の隙間から鼻先が出ていなかった。
璃生は扉の前に来た。
中を見た。
狼がいなかった。
---
璃生は少し首を傾けた。
いつもいる場所にいない。
部屋の奥を見た。
窓のそばに、狼がいた。
今日は、窓のそばに伏せていた。
窓から外を見ていた。
璃生が来たのに気づいて、振り向いた。
金色の瞳が、こちらを見た。
「……今日は窓のそばにいるんですね」
璃生は廊下から部屋へ入った。
格子の扉は、最近ほとんど意味をなしていなかった。
璃生は部屋の端に腰を下ろした。
狼が立ち上がって、璃生のほうへ来た。
いつもより早かった。
「どうしましたか、今日は」
狼は答えなかった。
璃生の横に来て、伏せた。
いつもの場所より少し近かった。
璃生は本を取り出した。
「読みますか」
耳がぴんと立った。
璃生は本を開いた。
---
読んでいる途中で、璃生は気づいた。
今日、狼が外を見ていた。
窓から外を見ていた。
今まで、外を見ているところを見たことがなかった。
窓の外には、庭がある。
庭に人が来ることもある。
狼が外を見ていた。
何かが気になったのだろうか。
読みながら、少し考えた。
---
本の第三章を読んでいるとき、璃生はふと手を止めた。
「殿下」
狼が顔を上げた。
「今日は、外が気になりましたか」
答えなかった。
「窓から見ていましたよね、わたしが来たとき」
狼の耳が、少し動いた。
「外に出てみたいですか」
静かだった。
廊下から、遠くで鳥の声がした。
狼は、窓を見た。
璃生を見た。
また窓を見た。
「庭に出てみますか。バクシンさんに聞いてみましょうか」
狼が、体を揺らした。
そわそわした動きだった。
答えたいが答えられない、という動きに見えた。
「出てみたい、ですか」
狼は璃生を見た。
長い間、見た。
それから、ゆっくりと、頷いた。
頭を、一度、下に向けた。
---
璃生はバクシンを呼びに行った。
廊下の手前でチョウチョウが待っていた。
「バクシンさんを呼んできます。少し待っていてもらえますか」
「何かあったか」
「王子様が外に出たいと」
チョウチョウが少し目を開いた。
「……外に、か」
「はい」
「……了解した。おれはここで待つ」
---
バクシンはすぐ来た。
璃生から話を聞いて、バクシンの顔が変わった。
人懐っこいおおらかな顔のまま、目だけが揺れた。
「……王子が、外に出たいと言ったのか」
「頷いてくれました」
「……自分から」
「はい」
バクシンは少し黙った。
「……分かった。庭に出る準備をする。少し待ってくれ」
---
準備は、それほど時間がかからなかった。
人払いをした。
城の者に伝えて、しばらくの間、王子の居室に面した庭に人が来ないようにした。
居室の窓が、外に通じる扉と繋がっていた。普段は使われていない扉だった。
バクシンが扉を開けた。
狼が、扉の前に来た。
立ち止まった。
扉の向こうを見た。
外だった。
庭の空気が、中に流れてきた。
草の匂い。土の匂い。夏の、少し青い匂い。
狼の鼻が動いた。
「……ゆっくり出てみろ」
バクシンが言った。
声が、少しかすれていた。
狼は、扉をくぐった。
---
庭に出た。
璃生は少し離れたところに立っていた。
狼が庭に出てくるのを、見ていた。
大きな体が、庭の光の中に出てきた。
黒い毛が、日光を受けた。
深群青に滲む黒が、夏の光の中で輝いた。
きれいだ、と璃生は思った。
光の中にいる狼を見て、きれいだと思った。
---
狼が、庭を歩いた。
ゆっくりと、庭を歩いた。
草の上を歩いた。
足が、草を踏んだ。
鼻を下に向けて、草の匂いを嗅いだ。
顔を上げて、空を見た。
璃生も空を見た。
青い空だった。
雲が、のんびりと流れていた。
---
狼が、璃生のほうへ来た。
璃生は動かなかった。
狼が璃生の前に来て、止まった。
金色の瞳が、璃生を見た。
「外、気持ちいいですか」
狼は答えなかった。
でも、尻尾が揺れていた。
大きく、左右に揺れていた。
今まで見た中で、一番大きな揺れだった。
「そうですか」
璃生は言った。
それ以上は言わなかった。
言わなくても、十分だった。
---
バクシンが、璃生から少し離れたところで見ていた。
チョウチョウが、庭の端から見ていた。
狼が庭を歩くのを、二人は黙って見ていた。
バクシンの目が、赤かった。
チョウチョウは何も言わなかった。
---
しばらく庭にいて、狼が居室へ戻った。
璃生も戻った。
部屋に入って、いつもの場所に座った。
狼が璃生の横に来て、伏せた。
「また来ていいですか」
狼は頭を上げた。
璃生を見た。
それから、また頷いた。
頭を、一度、下に向けた。
「ありがとうございます」
狼の耳が、璃生のほうを向いた。
「明日も来ます」
尻尾が、一度、床を叩いた。
---
璃生が帰るとき、バクシンが声をかけてきた。
「少し、話せるか」
「はい」
チョウチョウに先に行くよう伝えて、バクシンと廊下に残った。
「昨日のことだが」
「昨日、というと」
「昨日の夜、王子に人間の姿が戻った」
璃生は止まった。
「……本当ですか」
「ほんの少しの間だったが、戻った。自分の部屋で、一人でいるとき」
璃生はバクシンを見た。
バクシンの顔が、複雑だった。
嬉しいのか、泣きそうなのか、どちらとも言えない顔だった。
「王子は、人間の姿で、鏡を見ていた」
「……」
「しばらく鏡を見て、また狼の姿に戻った。おれは見ていなかったが、後で自分から話してくれた」
「そうですか」
「それだけだ」
バクシンは少し間を置いた。
「ニジトセ様のことを話す前後だった、と王子は言っていた」
「わたしのことを話していたんですか」
「……おれが聞いたんだ。昨日の朗読の話をしていたとき、一瞬、戻った」
璃生は少し考えた。
「朗読の話が出たとき、ということですか」
「そうだ。おれにも理由はよく分からない。ただ、報告しておこうと思って」
「ありがとうございます」
「感謝は要らない。ただ、これからも来てくれると嬉しい」
「来ます。毎日来ます」
バクシンは少し笑った。
「……そうしてくれ」
---
廊下を歩きながら、璃生は考えた。
人間の姿が、戻った。
ほんの少しの間だったが、戻った。
朗読の話が出たとき。
自分の話が出たとき。
感情が安定したとき、人間の姿が取れる、とバクシンから聞いていた。
王子にとって、安定した感情を持てる話が、朗読の話だったのだろうか。
毎日通ってきて、本を読んで、毛に触れて、庭に出て。
そういう積み重ねが、何かを変えていた。
璃生はそれを、嬉しいと思った。
自分が変えた、とは思わなかった。
ただ、一緒にいた時間が、何かを変えていた。
それが、嬉しかった。
---
図書館に着いた。
チョウチョウが入口で待っていた。
「遅かったな」
「バクシンさんに話を聞いていました」
「何を」
「王子様のことです。人間の姿が、少し戻ったそうです」
チョウチョウが止まった。
「……本当か」
「ほんの少しの間だったそうですが」
「……そうか」
チョウチョウは少し黙った。
「良かった」
短く言った。
「はい」
「……王子が、人間の姿で笑えるようになるといいな」
「なりますよ」
「根拠は」
「尻尾が、今日、大きく揺れていたので」
チョウチョウが、少し口元を動かした。
「……そうか」
「はい」
「では行くか、コールのところへ」
「チョウチョウさん、一人で聞くと言っていましたよね」
「……言ったが」
「どうしますか」
「一緒に行く」
「さっき一人で聞くと」
「気が変わった」
「どうしてですか」
「……おまえがいないと入りにくいから。それだけだ」
璃生は口元が動くのをこらえた。
「では一緒に行きましょう」
「……うるさいことは言うな」
「何も言いません」
「その顔が言っている」
「何も言っていないです」
チョウチョウが先に歩き始めた。
璃生はその後ろを歩きながら、少し笑った。
---
図書館に入った。
コールは本棚の間にいた。
チョウチョウが入ってきたのを見て、一瞬止まった。
「……今日は来たのか」
「はい」
チョウチョウが答えた。
コールはチョウチョウを見た。チョウチョウはコールを見た。
「……入口の棚を使え」
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
コールが本棚の間に戻った。
チョウチョウが入口の棚へ向かった。
璃生はコールの場所へ向かった。
「おはようございます」
「……おはよう。昨日の体調は」
「良くなりました」
「そうか」
「心配してくれていましたか」
「……報告は受けていた」
「ありがとうございます」
「……植物分類書は、どこまで読んだ」
「栞が入っていました。コールさんが入れてくれましたよね」
コールは少し動きを止めた。
「……入れた」
「ありがとうございます」
「別に、そのままでは分からなくなると思っただけだ」
「それでも、ありがとうございます」
コールはお茶を用意し始めた。
璃生は椅子に座って、栞の入った本を開いた。
---
お茶を飲みながら、璃生は言った。
「コールさん、今日、チョウチョウさんが鉱石の本について聞きたいことがあるそうです」
「……あの人間が」
「はい」
「……何が知りたいのだ」
「詳しくは本人から聞いてもらえますか」
コールは少し間を置いた。
「……ここに来いと言っていいか」
「入口の棚まで来てもらえますか」
「……そちらに行く」
コールが立ち上がった。
入口の棚へ向かった。
璃生は本を読みながら、その背中を見た。
コールが自分から、チョウチョウのほうへ行く。
三ヶ月前には考えられなかったことだった。
---
入口の棚のほうで、低い声が二つ聞こえた。
コールの声とチョウチョウの声だった。
何を話しているか、璃生のいる場所からは聞こえなかった。
でも、声が続いていた。
止まらなかった。
璃生は本を読みながら、その声を聞いていた。
棚越しに聞こえる、二つの低い声。
悪くない、と思った。
---
しばらくして、チョウチョウが璃生のそばまで来た。
珍しかった。
入口より奥には来なかったチョウチョウが、コールに連れられて奥まで来ていた。
コールが本棚から一冊抜いた。
「これが、第二巻の補足になる書だ。一緒に読むと分かりやすい」
「……ありがとうございます」
「礼は要らない」
「でも言います」
「……勝手にしろ」
コールが自分の場所へ戻った。
チョウチョウが璃生の隣に来て、小声で言った。
「コール、思ったよりちゃんと話してくれるな」
「本の話なら、と言いましたよね」
「……本当にそうだった」
「良かったです」
「……なんか、悪くない」
「何がですか」
「図書館」
璃生は少し笑った。
「そうですか」
「うるさいことは言うな」
「言っていないです」
「笑っている」
「笑っていないです」
チョウチョウが、本を持って入口のほうへ戻った。
---
夕方、図書館を出た。
廊下を歩きながら、チョウチョウが言った。
「コールに、鉱石の本の第五巻を借りた」
「読めそうですか」
「さっぱり分からんと思うが、読む」
「コールさんに聞けば教えてくれますよ」
「……一人で読めるところまで読んで、それから聞く」
「それがいいと思います」
「なぜ」
「チョウチョウさんらしいから」
チョウチョウは少し黙った。
「……おまえ、またそういうことを言う」
「本当のことを言っています」
「……なんか、慣れない」
「慣れなくていいです」
「慣れなくていいのか」
「ずっと言い続けますから、慣れなくても聞くことになります」
チョウチョウは少し間を置いた。
「……そうか」
それだけ言った。
でも、歩く速度が、少しだけ緩やかになった。
---
その夜。
璃生は窓の外を見ながら、今日のことを振り返った。
王子が庭に出た。
尻尾が大きく揺れた。
人間の姿が戻ったという話を聞いた。
チョウチョウがコールと話した。
コールがチョウチョウに本を教えた。
小さな変化が、いくつもあった。
璃生はそれを、窓の外を見ながら考えた。
変化は、急には来ない。
毎日の積み重ねの中に、ある。
女神が言っていた。状況は刻々と変わる、と。
毎日、少しずつ変わっていた。
気づかないくらい、少しずつ。
でも、確かに変わっていた。
---
璃生は胸の文様に触れた。
三つの花の輪郭が、ある。
金木犀と、黒椿と、水仙。
触れた瞬間に分かった。
今日の黒椿は、温かかった。
白さの中に、深い色の気配がある。
まだ白かった。
でも、白の中に、深群青が混じり始めている。
庭で、尻尾が大きく揺れていたあの瞬間。
光の中で黒い毛が輝いていたあの瞬間。
それが、文様の白さを少しだけ変えた気がした。
---
城の奥の部屋では。
黒い狼が、一人でいた。
バクシンは今夜は外に出ていた。
狼は、一人で、鏡の前にいた。
姿見があった。
大きな姿見だった。
狼は鏡を見た。
黒い狼が映っていた。
金色の瞳が、鏡の中から見返していた。
狼は目を閉じた。
今日、庭に出た。
草の匂いがした。
土の匂いがした。
風が毛を揺らした。
気持ちよかった。
そう思えた。
気持ちいい、という感覚が、久しぶりにあった。
外に出たかった理由は、単純だった。
璃生が来るとき、廊下を歩いてくる。
その廊下の窓から、庭が見える。
璃生が、その窓のそばで立ち止まることがある。
外を見ている。
毎日、少しの間だけ、立ち止まって外を見ている。
何を見ているのか、気になっていた。
庭に出て、同じ方向を見た。
庭から空を見た。
青い空が、見えた。
璃生が毎日見ているものが、これか、と思った。
きれいだった。
---
狼は目を開けた。
鏡を見た。
黒い狼が映っていた。
でも、昨夜は少しの間、違うものが映っていた。
人間の姿が、ほんの少しの間、戻っていた。
バクシンに話した。
話しながら、なぜ戻ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、話していたとき、感情が静かだった。
静かな感情のまま、話していたら、少しの間、戻っていた。
静かな感情。
感情が読めない人間が近くにいると、パニックになっていた。
でも、璃生は違う。
璃生が近くにいると、パニックにならない。
感情が読めないはずなのに、静かだった。
なぜだろう、と思う。
分からなかった。
ただ、静かだった。
璃生が来ると、静かになる。
その静けさの中で、少しずつ、感情が落ち着いていた。
---
狼は鏡から離れた。
いつもの場所に戻った。
床に伏せた。
目を閉じた。
今日、庭で璃生が言った。
外、気持ちいいですか、と。
答えなかった。
でも、尻尾が揺れていた。
揺れていることに、途中で気づいた。
止められなかった。
止めようとしたが、止まらなかった。
璃生は何も言わなかった。
ただ、そうですか、と言った。
それだけ言って、また一緒にいてくれた。
---
狼は目を閉じたまま、思った。
人間の姿で、璃生と並んで歩いたら、どんな感じだろう。
考えたことがなかった。
考えられなかった。
でも、今日は少し、考えた。
人間の姿で、外を歩いて、璃生と並んで、庭を歩いたら。
どんな感じだろう。
想像しようとした。
うまく想像できなかった。
でも、悪くない感じがした。
悪くない、という感覚だけが、あった。
それで十分だった。
狼は、静かに、眠りに落ちた。
---
*(第十四章へ続く)*




