第一話 訳ありのお姉さん?
「神崎さんですね。あの、クリーニング代とか別に良いんで……」
「いえいえっ! 私が悪いので! あの、これ少ないですが……」
と言って、財布から神崎さんは一万円札を取り出して渡そうとするが、流石に受け取るのは躊躇してしまう。
別にあの服もお高いものじゃないので、そんなに気にしなくても良いんだけど、どうしたものか。
「俺はもう気にしていないので。あ、そろそろ乾きますか?」
「そういう訳には……あ、もしかして、これに興味あります?」
「これですか? ああ、はい。興味あると言えばあります」
神崎さんは壁にかけてあった、神楽咲聖菜の直筆サイン入りアクリル板を手に取って、そう言うが、興味あるというかむしろ欲しい。
とはいえ、そんな金もないしな……ネットオークションで買うと、どんだけの価格するのか想像も付かない。
「神楽咲聖菜をご存知なんですね?」
「まあ、聞いたことくらいは」
「なら、お詫びにあげますよ」
「いいっ!? で、でもこれ、限定販売のアクリル板ですよね!? 確か二十万円以上する」
「よく知っていますね。もしかして、Vtuberに詳しいんですか?」
はっ! しまった……催促しているように思えたら悪いので、あまり、聖菜ちゃんの推しである事を表に出したくなかったんだが、つい口走ってしまった。
「えーっと、はい……人並み程度には。神崎さんもお好きなんですか?」
「好き……と言えば、好きでしたね」
ん? 何か曇ったような表情を一瞬見せたが……。
「私にはもう必要ないと思うので。もし、興味があるなら、クリーニング代の代わりに差し上げますよ。この子に興味なくても、ネットオークションで売ればそれなりの値段になるとは思うので」
「そんなっ! 聖菜ちゃんの直筆サイン入り限定グッズを売るなんて、絶対出来ませんって!」
「えっと……」
あ、またやっちまった。
(まずいなあ……聖菜ちゃんの事は忘れようと思ったんだが、直筆サインを初めて見たせいで、興奮しちゃっていたのかな?)
完全にVtuber神楽咲聖菜のオタクであることがバレてしまっているではないか。
今更隠すことはないと思うが、やっぱり気持ち悪いとか思われているのかな……。
「やっぱり、ファンなんですね、この神楽咲聖菜の」
「は……はは、実はそうなんです」
「くす、ありがとうございます、応援してくれて」
「? はあ……神崎さんもファンなんですか?」
「そういう訳では……まあ、ファンと言えばファンなんですかね」
女性のVtuberオタクってのも別に珍しくはないと思うが、さっきから時折見せる曇った表情はやはり気になるな。
「その……もう引退しているんですよね、このVtuberさん。引退すると聞いた時、どうでしたか?」
「そりゃショックでしたよ。しかも引退の理由が結婚でしたからね」
「――! そ、そうでしたよね……」
ガチ恋していたVが結婚、しかも学生時代からの彼氏がいたとか、もう彼女を寝取られたも同然じゃないか。
いや、彼女も出来たことないからわからんけど、そのくらいショッキングな出来事だったんだ。
ようやく忘れかけていたのに、また思い出してしまった。
「神崎さんはどう思いました? 聖菜ちゃんが引退するって聞いて」
「わ……私は……その、よくわからないと言いますか……」
と声を震わせながらそう言い、神崎さんは俺に背を向ける。
「どうしました? また気分が悪くなったんですか?」
「い、いえ……すみません、本当に……何てお詫びしたら、いいのか……」
「あの、もう気にしていませんので」
ゲロをぶちまけてしまった事、そんなに気にしているのか、明らかに泣きながらそう謝罪してきたので、何だかこっちが逆に悪い事をしてしまったみたいだ。
「そういう訳じゃなくて……重ね重ね、ごめんなさい。自分としてはケジメを付けるために、正直に告げたんですが……やっぱり、ショックでしたよね」
「はい? ケジメって?」
「いえ。あの、上着は乾くのにまだ時間かかりそうですね。ご自宅は近いんですか?」
「ええ、この近くのアパートで一人暮らししているんです」
「学生なんですよね?」
「はい。まだ、大学一年生なんですよ」
「随分とお若いんですね。羨ましいです」
羨ましいね……神崎さんだって、まだ若いって年齢なんだろうけど、色々と辛い事があったみたいで、可哀相に。
てか、よく見ると、左手薬指に指輪を嵌めているじゃないか。
恋人を失ったとか言っていたけど、まだ別れた訳じゃないのか、それとも酔った勢いの戯言なのか、単に喧嘩しただけなのか。
うーむ、初対面なのに、妙にモヤモヤした気分になってしまうのは、俺がおかしいのかね。
「明日も大学あるんですか?」
「ええ。そろそろ帰らないとまずいかも」
一応、一限目が休講なので、少しゆっくりは出来るんだが、腹も減ったし、そろそろ帰って寝ないと遅くなってしまう。
「外は寒いですし、タクシー呼びますね。お金はこれを使ってください。上着は乾燥したら、記載した住所にお送りしますので」
「すみません、お手数をおかけしてしまって」
神崎さんが五千円札を財布から取り出して俺に渡し、タクシーを呼んでくれたので、今夜はそれに乗って家路に着くことにした。
ゲロをかけられたのは災難だったけど、思いもよらぬものを見てしまったな……ちょっと名残惜しい気もあるけど、聖菜ちゃんの直筆サインを生で見れただけでも、良い体験が出来たと思うか。
「んーー、色々とあって疲れた」
やっと帰宅し、その場に倒れこむ。まさか、聖菜ちゃんの限定グッズを見れるとは思わなかったが、やっぱり貰っておけばよかったかな……流石にあんな高価なものを受け取るのは気が引けるので、断ってしまったが、今になって後悔の念が出てきた。
とはいえ、知り合いから貰ったって言っていたけど、どんな知り合いなんだろうな。
聖菜ちゃんの所属事務所の関係者とか? もしそうなら、神崎さんは聖菜ちゃんの事情を知っている可能性も……。
いきなり聞き出すのもアレなので、彼女と仲良くすれば、特別に教えてもらえるかもしれないな。
何て邪な事を考えながら、夕飯を簡単に済ませて、眠りに就いたのであった。
翌日――
「いらっしゃいませー……あ」
「こんばんは」
大学が終わった後、いつものように居酒屋バイトに行くと、夜も遅くなってきた時間帯に神崎さんが一人でお店にやってきて、笑顔で挨拶してきた。
「神崎さん、今日も来たんですね」
「うん。ここに来れば会えるかなって思って。迷惑だった?」
「いえ、とんでもない。おひとり様ですか? こちらへどうぞ」
神崎さんが来てくれたのが何だか嬉しくて、彼女をまた昨夜と同じ席に案内する。
「服乾いたから、送っておいたよ」
「あ、どうもすみません。俺が取りに行っても良かったんですけど」
「そうはいかないよ。私が悪いんだし。今夜はお酒はビールだけで良いかな。昨夜は飲み過ぎちゃったし」
「ビールですね。ご注文はそこのタッチパネルで」
「うん。バイトはいつ終わる?」
「今夜は十時には上がります」
「そう。渡したい物があるから、よかったらまた家に来てくれる? 良かったらでいいからさ」
「渡したい物ですか?」
「アクリル板」
っ! アクリル板って、神楽咲聖菜の直筆サイン入りのだよな?
あれ、本当に俺にくれるつもりなの?
まさかね……と思いながら、また店に客が入ってきたので、案内をしていき、その後は接客に追われて、彼女とまともに話す機会を作ることが出来なかった。




