序章 突然の結婚、引退報告
「みなさーん、こんばんはー。神楽咲聖菜です。今日も見てくれてありがとうございます」
と、元気かつホンワカした声でいつものように聖菜ちゃんが挨拶をして、配信が始まる。
チャンネル登録者数三百万人を誇るトップVtuber、神楽咲聖菜。
ビジュアルが清楚でおっとりした感じで可愛らしい上に、歌もゲームも上手く、何よりも癒される声が魅力的で、多くのオタク男性を魅了しており、俺もたまたま配信を見てから、即座に魅了されてしまった。
大学一年の俺、平沢公人の推しであり、当然のことながらメンバーにも入っており、バイトして貯めた金も何万円も投げ銭に使ったり、ライブやグッズにつぎ込んでいた。
正に俺の生き甲斐とも言うべき、存在だったが、大学一年のある日、彼女の配信でとんでもない事を告げられた。
『えー、皆さん、突然ですが……私、神楽咲聖菜。今月いっぱいでVtuberを引退する事になりました』
「…………はああっ!?」
ある日、いつものように聖菜ちゃんの配信を見ていたら、開口一番、とんでもない事を告げ、その場でひっくり返りそうになる。
重大なお知らせってサムネに書いてあったので、ちょっと嫌な予感がしたんだが……まさか、そんな!
『引退!?』
『うそでしょ、聖菜ちゃん!』
『エイプリルフールは今日じゃないよ!』
と案の定、チャット欄も錯乱状態であったが、俺も悪い夢でも見ているのだと思い、放心状態になっていると更に衝撃的な一言が飛び出した。
『引退の理由はですね……実は結婚する事になったからです』
「…………」
えっと、何て言った?
『今まで隠していて本当にごめんなさい。私、学生時代から付き合っていた人がいまして、その人と結婚する事になったんです。このことを正直に
案の定、その後、ネットやSNS上では神楽咲聖菜の結婚報告は大炎上してしまい、そのことを見越したのか引退報告動画はコメントも出来ない仕様になっていた。
もちろん、中には結婚を祝福する声も少なからずあったが、それでも彼女を推していたファンはやり切れない思いの人も多く、グッズを廃棄したとか、聖菜につぎ込んだ金を返せだの、ビッチだの言いたい放題言うやつもいた。
結婚は良いけど、何より『学生時代から』ってのが俺はショックだった。
だって、神楽咲聖菜は俺が中学の時に現役女子大生Vtuberって触れ込みでデビューしていたんだから、既にそのころには彼氏がいたって事……。
男に関してはもちろん、配信中に言及した事は無いし、噂もなかっただけにショックも大きかった。
なので俺もどこか裏切られた気分に勝手になってしまい、その後は何日も何も手が付かず、この無情な現実を受け入れきれないまま、時間が過ぎて行った。
それから二か月ほど経過したある日――
「えー、刺身の盛り合わせに焼き鳥、生中三つですね」
俺はいつものように大学の帰りに居酒屋でバイトに行き、淡々とバイトをこなしていく。
神楽咲聖菜の引退のショックからようやく立ち直り、日常が戻ってきた。
とはいえ、推しの引退による心の虚しさは消えることはなかった。
「ふう……そろそろ上がりか……ん?」
「うう……」
バイトも上がりの時間になり、店内にも客がほぼ居なくなった頃、隅っこの座席の方に若い女性客が酔いつぶれて、テーブルで臥せって項垂れているのが見えた。
相当飲んでいるなこれは。どうしよう?
「あのー、お客様。そろそろ閉店のお時間ですので」
「う、うるひゃいい……まだ飲むんだあ……」
と声をかけるが、女性客は顔を上げることもなく、まだ飲もうとしていた。
そうは言ってももう夜の十二時を過ぎており、閉店時間が迫っている。
こういう客、たまにいるから困るんだよな。
「お客様、もう店を閉める時間ですので。タクシーお呼びしましょうか?」
「いい……なら、もう出る……」
と体を揺すると、ようやく女性客は伝票を手に持ち、ヨロヨロとフラつきながら、レジへと向かう。
会計はカードで済ませていたが、大丈夫かな?
見た感じ、二十代半ばくらいのОLっぽい人だけど、あんな状況で一人で夜道を歩いていたら、変なのに絡まれたりしないだろうか心配だ。
「はー、今日も疲れた。ん?」
着替えた後、居酒屋を後にし、家路に着こうとすると、電柱で項垂れている女性が目に入った。
あれ、この人はさっきウチの店で最後まで残っていた女性客か。
「大丈夫ですか?」
「うう……えぐ、うぐ……」
心配になったので声をかけるが、女性は蹲ったまま泣きじゃくっており、俺の声が届いていないようだった。
「ここにいたら、危ないですって。タクシーを呼びましょうか?」
「どうでもいい……放っておいて」
そうは言ってもどうしたものかなー。こう言う時って、警察に連絡すれば良いのか?
俺のアパートはここから割と近めだが、まさか連れ込むわけにも行かないし。
街灯で顔もよく見えるが、ナチュラルブラウンの髪を後ろで束ね、色白でちょっとくたびれた感じのする綺麗なお姉さんなので、こんな所に放置していたら、変なのに嫌がらせされそうだ。
って、俺も傍から見ると変質者に見えるんかね。
「とにかく近くの交番まで連れて行けば良いかな。立てますか?」
「いいから、放っておいてえ……もうどうでもいいのよー……何もかも私は失ったのよお……仕事も、恋人も何もかも」
ええ……何か、凄い訳アリっぽい感じなのか?
ここまで泥酔するまで飲んでいたってのは、やけ酒をしていたって事か。
何があったか知らないが、可哀相になってきたので、
「取り敢えずタクシー乗り場まで……」
「う……」
「へ?」
「うえええーーーーーー!」
「ギャーーーーーーっ!!」
抱きかかえようとした瞬間、女性は思いっきりゲロを吐いてしまい、俺の服にモロにかかってしまった。
「本当に、申し訳ありませんでした!」
「い、いえ……」
吐いた後、正気に戻った女性が近くにあった彼女の自宅であるマンションに俺を連れて行き、ゲロがかかった服を洗濯してくれた後、俺に土下座して謝る。
まあ、もう寒くなっていた時期なので、被害はそこまでじゃなかったのは幸いか。
「クリーニング代はちゃんと払いますので、どうか……」
「いいですよ、洗えばすぐ元通りですから。それより、だいぶ酔っていましたけど、大丈夫ですか?」
「あ、ええ……ちょっと嫌なことが重なっちゃって、ヤケになって飲みすぎちゃったと言いますか……」
嫌なことが重なってしまったね。さっき、恋人も仕事も失ったとか言ったけど、その事か?
(だとしたら、可哀相だな)
このお姉さん、結構美人だし、しかもこのマンションもかなりの高層マンションで家賃も相当高いんじゃないか?
一体、どんな男なのやら……あまり、プライベートな事に踏み込みたくはないけど、気になっちゃうかも。
「服は乾燥機にかけておきましたので……シャワー浴びますか?」
「家に帰ったら浴びますから。お姉さんも無理しないでください。それじゃ、乾いたら……ん?」
乾いたらさっさと帰ろうと言いかけたところで、リビングの棚に置いてあったあるものが目に入る。
これは……神楽咲聖菜の直筆サイン入りの限定アクリルじゃないか!
確かお値段が二十万円とかする超プレミアの!
「あの、何か?」
「い、いえ。あのー、これって……確か神楽咲聖菜の……」
「――っ! あ、ああ……ご存知でしたか! これ、知り合いから譲ってもらったものなんですよ、はい!」
「え? あ、そうなんですか」
お姉さんも聖菜の大ファンなのかと思ったが、こんなの譲ってもらう知り合いがいるのかよ!
羨ましいなーと思いながら、マジマジとお目にかかれないアクリル板を見つめる。
「あのっ! クリーニング代、やっぱり払いますね! 服は乾燥したら、私の方で発送しますので! お、お名前とお住所良いですか!?」
「ああ、はい。平沢公人って言います。住所は……」
「えっと、はい。わかりました。あ、私、神崎頼子って言います。今夜はご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
と、お互い連絡先を交換していく。頼子さんって言うのか。




