第94話 壁の向こう
教室に静寂が戻った。
葵は手のひらの結晶をそっと握って、壁際のオリビアを見た。まだ気絶したままだった。
葵はオリビアの前にしゃがんで、そっと肩を揺すった。
反応がない。葵は少し考えて、オリビアをゆっくりと抱き上げた。
廊下に出て、教員寮の方へ歩き始めた。ライラが胸元からそっと顔を出した。
「……重くない?」
「とっても軽いよ」
「そう」
ライラがまた引っ込んだ。
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部屋に戻ると、アーデルが待っていた。
「大丈夫だったか」
「はい、無事でした。ただ、オリビア先生が少し驚いて気絶してしまって……部屋まで運んできますね」
アーデルが葵を見て、それからオリビアを見て、何も言わなかった。
葵は壁の穴へ向かった。
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オリビアを抱いたまま、慎重に穴をくぐった。部屋の明かりをつけた。
オリビアがうっすらと目を開けた。
「……ふえ」
まだ夢の中にいるような顔だった。葵の腕の中で、とろんとした目のまま微笑んだ。
「……んふふ」
葵は部屋を見回した。服が床に散らばっていた。カップ麺の容器がいくつか積み上がっていた。ペットボトルが転がり、埃が隅に溜まっていた。
葵は内心で思った。オリビア先生の部屋、思ったより……大変だな。
なんだか放っておけない。
オリビアが現実に気づいたのは、その数秒後だった。
「——っ!」
オリビアが葵の腕の中で飛び起きた。
「み、見ないでください……!」
「......ごめんなさい、見てしまいました」
「あああ……」
葵がそっとオリビアをおろすと、オリビアは顔を両手で覆った。耳まで赤くなっていた。
「僕の家庭教師で忙しかったんですよね」
オリビアが両手の隙間からこちらを見た。何も言わなかった。
「よかったら、掃除を手伝わせてください」
「え」
「お礼です。いつもお世話になっているので」
オリビアがまた顔を覆った。
葵は特に気にした様子もなく、床に落ちた服を拾い始めた。オリビアが慌てて立ち上がった。
「じ、自分でやります……!」
「一緒にやりましょう」
「でも……」
「先生、どこに置きますか」
オリビアが観念したように、小さく指で方向を示した。
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葵はまずゴミ捨てから始めることにした。カップ麺の容器、ペットボトル、菓子袋、使い捨てのスプーン——明らかにゴミだと分かるものを一つずつ袋に詰めていった。
「燃えるゴミと燃えないゴミ、分けますね」
「……はい」
オリビアが壁際で小さくなりながら見ていた。
袋がどんどん膨らんでいった。
葵が床の隅に手を伸ばしたとき、布地に触れた。
持ち上げると、レースのついた小さな下着だった。
葵がオリビアを見た。
「先生、これは」
オリビアが一瞬固まって、次の瞬間飛びかかるように葵の手から引ったくった。
「み、見ないでください……!」
「はい」
「見ましたよね」
「......少し」
「あああ……」
オリビアが下着を背中に隠したまま、壁に額をつけた。
葵はそのまま掃除を続けた。
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ゴミ袋が三つ膨らんだ頃、床が見えてきた。
「大分きれいになりましたね」
オリビアがおそるおそる部屋を見回した。
「……本当ですね」
「服はここに置きますか」
「あ、はい……」
葵が床に残った服を畳み始めた。オリビアが慌てて手伝おうとして、葵の手元を見て、また赤くなった。葵は特に気にせず畳み続けた。
しばらくして、葵が立ち上がった。
「今日はここまでにしましょうか。遅くなってしまったので」
オリビアが部屋をもう一度見回した。来たときとは別の部屋のように見えた。
「……ありがとうございました」
「また来てもいいですか」
オリビアが少し目を丸くした。
「え」
「まだ掃除は途中なので」
オリビアが少し間を置いて、小さく頷いた。
「……はい」
葵が壁の穴へ向かった。
オリビアが小さな声で、
「……おやすみなさい」
と言った。
「おやすみなさい、先生」
穴をくぐって、葵が消えた。オリビアは部屋を見回して、胸に手を当てた。




