第9話 魔法の始まり
月曜の朝、一限は世界史・戦争史だった。
教室に入ってきた学園長は、入学式と同じ白髪の老人だった。皺の刻まれた顔に、深い疲労と——それ以上の何かが滲んでいる。黒板の前に静かに立ち、生徒たちが席につくのを待った。
「今日から、魔法の歴史を本格的に扱う」
学園長は手元の教科書の束に、ふと視線を落とした。
次の瞬間、教科書が一冊ずつ、すうっと宙に浮いた。詠唱はなかった。指一本動かしてもいない。ただそこにあった教科書が、静かに、それぞれの生徒の机の上に滑り込んでいった。
教室がざわついた。颯が「おお」と小声で言った。
——詠唱なしで、あれだけ正確に。
葵は自分の机の上に届いた教科書を見つめた。魔法世界史と書いてある。通常の世界史の教科書とは別物なのか?
学園長はすでに黒板に向き直っていた。何か特別なことをしたという様子は、まるでなかった。
「まず確認する。魔法はいつ現れたか」
誰かが答えた。「三十年前です」世界史の教科書にもそう書いてあった。
「世間ではそう言われておる」
学園長はそこで少し間を置いた。
「だが、それは正確ではない」
教室が静かになった。
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学園長は黒板に一本の線を引いた。
左端に「現在」、右端に「古代」と書く。線の上に、いくつかの点を打った。
「三十年前——大戦争。魔法が世界に戻った。これは皆が知っている」
点の一つに丸をつけた。
「しかし調査を重ねると、奇妙なことがわかってきた。世界各地の遺跡・古文書・儀式の痕跡を調べると——魔法的な現象を示す記録が、三十年前より遥かに古い時代まで遡れる」
学園長は線の右側、「古代」に近い場所に点を打った。
「紀元前後、あるいはそれより遥か以前——記録を丹念に辿ると、紀元前四千年頃にまで魔法的な現象の痕跡が遡れる。世界各地の創世にまつわる神話的記録、古代の建築物に使われた技術、戦争の記録に登場する説明のつかない力、儀式の残滓——」
学園長は黒板から生徒たちに視線を戻した。
「そして、紀元後およそ七百年頃を境に、それらの記録は急速に消えていく。それ以降、魔法は伝説・おとぎ話の領域に入り、現代まで実在しないものとして扱われてきた」
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教室がざわついた。
斜め前の席の生徒が手を挙げた。葵がまだ名前を覚えていない、背の高い生徒だ。
「先生、それはつまり——魔法はずっと前からあって、一度消えて、三十年前にまた戻ってきた、ということですか」
「そういうことになる」
「なぜ消えたんですか」
学園長は少し間を置いた。
「わからない」
短い答えだった。
「現在、いくつかの仮説がある。最も広く受け入れられているのは——人類の集合的な信仰や意識が魔法の発現に影響するという説だ。
魔法を信じる者が多ければ魔法は強まり、信じる者が減れば弱まる。近代以降、科学が発展するにつれて魔法への信仰が失われ——それが魔法の消滅に繋がったという考え方だ」
「それが正しいんですか」
学園長はわずかに目を細めた。
「主流の説ではある。だが、証明されてはいない」
生徒は少し考えてから、もう一度聞いた。
「三十年前に戻ってきたのはなぜですか。人々が魔法を信じるようになったから?」
「それも一つの解釈だ」と学園長は言った。「ただ——三十年前に何が起きたかは、皆も知っているように、大戦争だ。その混乱の中で魔法が戻ったのか、あるいは別の何かが引き金になったのか——因果の順序すら、まだはっきりとは解明されていない」
教室がしばらく静かになった。
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葵はノートに「紀元前四千年頃〜紀元後七百年頃まで魔法の痕跡」と書き留めた。
なんとなく、頭の片隅に引っかかるものがあった。
胸元でライラが、静かに揺れた。
颯が隣でノートを取りながら小声で言った。
「魔法って、そんな昔からあったんだな」
「そうみたいだね」
「消えた理由がわからないって、なんかモヤモヤするよな」
「そうだね」
葵は答えながら、学園長の顔を見た。
「わからない」と言ったときの、あの一瞬の間。
——本当にわからないのか。それとも、言えないのか。
どちらかは、わからなかった。
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放課後、三人でモノレールに乗った。
颯が「そういえば」と口を開いた。
「魔法って、紀元前四千年前まで遡れるのに、七百年頃に消えたって話——お前はどう思う、葵」
「どうだろうね」
「なんかさ、消えた理由がわからないって言いながら、学園長の顔が少し変だったよな。俺だけかな」
葵は窓の外を見た。
「……気のせいじゃないかもしれないね」
「まあいいか」と言った。でも——颯がそう言うとき、本当に気にしていないわけじゃないことを、葵は知っていた。颯はいつも、気にしながら前を向く。
茜は窓の外を見たまま、何も言わなかった。
モノレールが丘を下りていく。
葵はそっと胸元に手を当てた。
——紀元後七百年頃。魔法が消えた時代。
ライラの温かさが、手のひらに静かに宿っていた。
その温かさが、なぜか今日は少しだけ、違う感触に思えた。




