第88話 新機能
魔法工学の授業。
ホールに入ると、茜がすでに席についていた。葵を見つけて、ぱっと顔が明るくなる。
「葵、こっち」
隣に座った。茜が嬉しそうに教科書を机に並べる。
しばらくして、セレンが来た。何も言わずに葵の反対側の席に座る。
茜がセレンを見た。
「……なんでここに来るの」
「Aクラスだから」
茜はそういう意味で聞いたんじゃない、という顔をした。セレンは教科書を開いた。葵は何も言わなかった。
リースが入ってきた。黒板の隣のパネルに青白い光が灯る。人の形をぼんやりと模した光の輪郭が静かに揺れていた。オルタだ。
「今日から新しい章に入る。魔力の基礎理論——プネウマ単位系だ」
教科書を開く音がホール中に広がった。
「魔力の計測単位をプネウマ、略してPnと定義する。
語源はギリシャ語で霊・息吹・生命力を意味する言葉だ」
リースが黒板に単位換算を書いていく。
ミリプネウマ(mPn)=0.001Pn。プネウマ(Pn)=基準単位。キロプネウマ(kPn)=1,000Pn。メガプネウマ(MPn)=1,000,000Pn。
「魔力とは何か、という問いに対する一つの答えがこの単語に込められている。
ただの数字ではなく、命そのものを計測しようとした単位だ」
葵は板書を書き写した。
「次に魔力総量の目安を見ていこう」
新しい表が展開された。
一般人:1〜10Pn。初級魔法使い:10〜100Pn。中級魔法使い:100〜500Pn。上級魔法使い:500〜1kPn。精鋭:1〜10kPn。超人:10kPn〜。
「Aクラス、Sクラスは概ね中級以上に相当する」
葵はその数値を眺めた。Sクラス相当が500〜1kPn。
上級魔法を連発しても消耗した感じがほとんどない。
ならば自分の魔力総量はどのくらいなのか
——考えかけて、やめた。授業が続いている。
「次に消費量だ」
リースが新しい表を書き始めた。
初級魔法:1〜5Pn。中級魔法:10〜30Pn。上級魔法:50〜100Pn。
「これが詠唱ありの基準値になる。詠唱なし発動は通常の1.5〜2倍の消費になる。なぜかというと——」
少し口元を緩め、前のめりになった。
「——詠唱なしで魔力回路を安定させるためには、通常の発動命令を省いた分だけ回路への負荷が上がる。つまり効率が落ちるわけだ。ただし熟練すれば——」
「授業範囲外です」
パネルからオルタの声がした。青白い光の輪郭がこちらを向いている。
リース先生がパネルを見た。
「……そうだな」
黒板に向き直った。葵は小さく笑った。
葵は板書に視線を戻した。詠唱なしは1.5〜2倍の消費。
——そんなに消費している感じが、しない。
引っかかりがあったが、うまく言葉にできなかった。
授業はそのまま先へ進んでいった。消費量の計算式、魔力回路への負荷の分散方法、属性ごとの消費効率の違い。葵はノートを取りながら、時折セレンの方をちらりと見た。セレンは黙々とノートを取っている。ただ、計算式のあたりからペンが少し止まりがちになっていた。
茜は——葵の方を見ていた。ノートだけはきちんと取れていた。
「今日はここまで」
リースが黒板を消した。ホール中がざわめき始める。
茜が葵の方を向いた。
「今日このあとダンジョン、行く?」
「うん、その予定だけど」
「じゃあ一緒に——」
「小春」
振り返ると、リースが立っていた。いつの間に近づいていたのか分からなかった。オルタのパネルは既に消えている。
「次のスタディホールの時間、少しいいか」
葵はリースを見た。飄々とした顔は変わらない。目だけが少し笑っていた。何を考えているのか、いつも読めない。
「はい」
リースは頷いて、ホールを出ていった。
茜がその背中を見ていた。それから葵を見た。
「……呼ばれてたね」
「うん」
茜は少し間を置いた。
「……男の先生だし、まあいいか」
葵は荷物をまとめながら言った。
「今日のダンジョン、止めておくね。
リース先生に呼ばれたから、いつ終わるか分からないし」
「分かった」と茜は言った。「また今度ね」
二人でホールを出た。廊下の角で茜と別れた。
――――――――――――――――――――
スタディホールの時間になった。
リースの研究室の扉をノックした。
「入れ」
前に来たときと同じだった。机の上には端末と書類が並んでいる。リースは葵が入ってきても、すぐには顔を上げなかった。
「座れ」
葵は椅子に腰を下ろした。
「端末を貸してみろ」
葵は神魔解析録の入った端末を取り出して、リースに渡した。リースは画面を開いて、しばらく無言でスクロールした。
「順調にデータを集めているな」
「はい」
リースは端末を裏返した。外装パーツを外した。内側を覗き込んで、小さな部品を取り出し、別の部品と入れ替えた。葵には何をしているのかよく分からなかった。しばらくして、リースは端末を元に戻し、再び操作してから葵に返した。
「アップグレードした」
「……何をしたんですか」
「散盟契約陣のデータを、大体八個まで保存しておけるようにした。
......キオク社のメモリだ。私が知る限り最もいいメモリだろう」
葵は端末を見た。確かに、データの保存領域が増えている。
「ありがとうございます」
「もう一つある」リースは続けた。
「新機能を追加した。2つの散盟契約陣のデータを解析して、別の神魔の契約陣を作る機能だ」
葵は顔を上げた。
「そんなことができるんですか」
「ああ、研究の成果だ」
「……すごいですね」
「ただし」リースは少し間を置いた。
「解析に使用した契約陣のデータは再構成に使われるので消えてしまう。この場で試してみるか」
葵は少し考えた。
「やってみます。ただ——その前に、少しいいですか」
「何だ」
「散盟した神魔たちに、挨拶をしてもいいですか。契約陣のデータが消えてしまう前に」
リースは少し間を置いてから、「好きにしろ」と言った。
――――――――――――――――――――
葵は端末を開いた。散盟契約陣——ピクシー。
魔法陣を展開した。
淡い光の輪が広がって、小さな何かが現れた。翼が二枚。ピクシーだった。
ただ——何かが違った。目元に小さなサングラスをかけて、肌が日焼けで少し赤くなっていた。
葵は思わず少し止まった。
「……ピクシーさん」
「あら、また呼んでくれたの」ピクシーは軽い声で言った。サングラスを少し持ち上げた。「なに?」
「いつかの時は、助けてくれてありがとうございました」葵は続けた。「それから——僕の力では、あなたの力を十分に活かせないと思っています。だからもう召喚することはないかもしれないです。これまでありがとうございました」
ピクシーは少し首を傾けた。サングラスの奥の目が葵を見た。
「あらそう」
間があった。
「まあ、もう十分魔力は貰ったし。気にしないでいいわよ。魔力ありがとね」
それだけ言って、ピクシーは消えた。
葵はしばらくその場を見ていた。
――――――――――――――――――――
次に、散盟契約陣——ウィルオウィスプを展開した。
暗い光の揺らめきが広がって、ウィルオウィスプが現れた。いつものこの世の物ではない気配を漂わせながら、葵を見た。
「ウィルオウィスプさん」葵は言った。「いつかは助けてくれてありがとうございました。僕の力ではあなたの力を十分に活かせないと思っています。だからもう召喚することはないかもしれないです。これまでありがとうございました」
ウィルオウィスプはしばらく黙っていた。
「オォ……」
低い声が響いた。
「オ前、オレニ 魔力クレタ…… 貰ッタ 魔力ヲ 運用シテ 生活ニ 余裕ガ 出来タ…… 嫁ト 子供モ 戻ッテ来タ…… 感謝シテル……」
そう言って、ウィルオウィスプは消えた。
葵はしばらく何も言えなかった。
魔力を——運用している。嫁と子供。
神魔にも家族がいるのか……
リースの方をちらりと見た。リースは端末を見ながら、何かを記録していた。
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「では、試してみるか」
リースが言った。
葵は端末を操作した。新機能を起動する。ピクシーとウィルオウィスプのデータが読み込まれ、解析が始まった。
しばらくして、新しい散盟契約陣のデータが生成された。
葵は画面を見た。どんな神魔の契約陣なのか、まだ分からない。
リースが葵の端末を覗き込んだ。
「どんな神魔と契約できるか……楽しみだな」
目だけが、少し笑っていた。




