第86話 保健室の呼吸
迷宮から戻り、学園の廊下を歩きながら茜と別れた。
「また明日ね、葵」
「うん、また明日」
剣術部へ向かう途中、声をかけられた。
「葵くん」
振り返ると、カヴィヤが廊下の角に立っていた。カーディガンの上から白衣を羽織って、腕を組んでいる。
「最近、頑張りすぎじゃない?」
「……え?」
「ダンジョン、剣術部、生徒会、Sクラスの授業についていくための勉強。私、見ていました」
葵は少し考えた。確かに今はかなり忙しい。でもヴァルハラ・アームズのボランティア参加に向けて、今は踏ん張らなければならない時期だ。
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ」カヴィヤは静かに、しかしはっきりと言った。「白羽さんには言っておくから、ついてきて」
カヴィヤに連れられて保健室へ向かった。見慣れた保健室の奥に、もう一つ扉があった。カヴィヤがそれを開ける。
色々な薬や包帯が棚にきちんと整理されている。小さなテーブルと椅子。窓から夕方の光が差し込んでいた。
「ここは?」
「保健委員会の部屋よ」カヴィヤは振り返って、少し笑った。ただしその笑いにはわずかに棘があった。「蒼玲さんのせいで今は私一人しか居ないけどね」
......蒼玲先輩、何をしたんだろう
「まあ、それはいいの」カヴィヤは椅子を引いて葵に座るよう促した。「葵くんには今、休息が必要です」
「休息ですか?」
「ただ休むだけじゃないわ」カヴィヤはテーブルに肘をついて、葵を見た。「休息は怠惰じゃない。魔力の質を上げるための訓練よ」
「魔力の質」
「そう。魔力って使えば使うほど消費されるでしょう。でも正しく休めば回復するだけじゃなくて、質そのものが上がっていくの。葵くんみたいに毎日限界まで動いていたら、回復が追いつかなくなる」
葵は黙って聞いていた。
「というわけで」カヴィヤが立ち上がった。「ヨガをやってみましょう」
「ヨガを」
「インドでは子供の頃から当たり前にやるの。体と魔力の流れを整える一番シンプルな方法よ。着替えてきて」
カヴィヤが棚の引き出しを開けて、畳まれた衣類を取り出した。
「はい、これ」
葵の手に渡されたのはヨガパンツと、薄手のタンクトップだった。
「……これに着替えるんですね」
「動きやすい格好じゃないとヨガはできないの。隣の保健室で着替えてきて」
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葵は言われた通りに着替えて戻った。カヴィヤはすでに着替えを済ませていた。
白衣もカーディガンも脱いでいる。深いグリーンのヨガパンツに、白いヨガトップ。長い黒髪をひとつに束ねて、いつもより少し違う印象だった。保健委員長というより、どこか凛とした雰囲気がある。
「着替えたわね」
カヴィヤがこちらを見た瞬間、彼女の視線が葵の腰から脚のあたりに落ちた。そして、急に頰が赤くなった。
何故かカヴィヤはすぐに目を逸らし、耳の後ろまで赤く染めながら、隣に畳んであった黒のハーフパンツを急いで手に取った。指先がわずかに震えているように見えた。
「あの、葵くん……」声が少し上ずっていた。
「ヨガパンツの上から、これも履いてもらえる?」
カヴィヤはハーフパンツを差し出しながら、視線を少し斜め下に落としたまま続けた。
「ヨガのポーズは脚を大きく開いたり、腰を大きく動かしたりするものが多いの。
薄手のヨガパンツのままですると、生地がずれたり太ももに食い込んだりしやすいから……特に葵くんの場合、今日は少し密着感が強すぎるみたいで……その方が安心して動けると思うわ」
彼女はそこで言葉を切り、なぜかさらに頰を赤らめた。
普段の落ち着いたカヴィヤらしくなく、視線が少し泳いでいる。
「葵くんがポーズに集中しにくくなるのも困るし
……私も、指導する側としてそちらの方が落ち着くのよ」
カヴィヤは軽く唇を湿らせてから、小さく付け加えた。
「……試してみて。もし窮屈だったら、すぐに言ってね」
葵は差し出されたハーフパンツを受け取り、小さく頷いた。
「ありがとうございます。」
葵はハーフパンツをヨガパンツの上から履いた。
それを見てカヴィヤが頷いた。「......じゃあ始めましょう」
「まず呼吸から教えるわ」
カヴィヤが床にヨガマットを二枚並べて敷いた。向かい合わせに座るよう促される。あぐらをかいて、背筋を伸ばす。
「鼻の穴を片方ずつ使う呼吸法よ。右手の人差し指と中指を眉間に当てて」
言われた通りにする。
「薬指で左の鼻を押さえて、右で吸う。次に親指で右を押さえて、左で吐く。これを交互に繰り返すの」
葵は言われた通りにやってみた。最初はぎこちなかった。指の使い方が複雑で、押さえる場所を間違える。
「逆よ」
「あ、すみません」
カヴィヤが手を伸ばして、葵の指の位置をそっと直した。
「ゆっくりでいいから。呼吸に集中して」
しばらくそのまま繰り返した。不思議と、頭の中が静かになっていく気がした。
「次は立って」
カヴィヤが立ち上がった。ヨガパンツが動きに合わせて滑らかに伸び、深いグリーンの生地が丸みを帯びた腰からお尻にかけてきれいに沿っていた。
葵は立ち上がりながら、前を向いていた。
「足を腰幅に開いて。これが山のポーズ——タダーサナよ」
カヴィヤが葵の隣に並んだ。
「ただ立つだけじゃないわ。足の裏全体で床を押して、頭のてっぺんが上に引っ張られるイメージ。背骨を一本の柱にする感じ」
葵は意識を足の裏に向けた。床を押す。頭を上へ。
「肩の力を抜いて」
カヴィヤの手が葵の両肩にそっと置かれた。ゆっくりと下へ押される。
「……そう。そのまま呼吸して」
簡単に思えた。ただ立っているだけだ。
しかし一分も経たないうちに、葵は気づいた。足の裏を意識すると肩に力が入る。肩を抜こうとすると今度は背筋が丸くなる。背筋を伸ばすと膝が微妙に曲がっている。
「膝、伸ばして」
「あ、すみません」
「謝らなくていいわ。これはそういうポーズだから」カヴィヤは淡々と言った。「一つ意識すると別が崩れる。それを繰り返しながら整えていくの」
葵はまた背筋を伸ばした。足の裏。肩。膝。頭のてっぺん。意識があちこちを行き来する。
「呼吸が止まってる」
止まっていた。
「ポーズと呼吸を同時にやるのが最初は難しいのよ。でもそれができるようになると、魔力の流れも自然に整ってくる」
葵は息を吸った。吐いた。ポーズを維持しながら、呼吸を続ける。単純なはずなのに、全身が少しずつ疲れてくる。
それを三十分近く繰り返した。
「じゃあ、座って」
カヴィヤがマットに座った。あぐらをかいて、背筋を伸ばし、両手を膝の上に添える。
「同じように。これで終わりにしましょう」
葵も座った。目を閉じる。カヴィヤの声が静かに続いた。
「呼吸だけ意識して。他のことは考えなくていいわ」
葵は呼吸をした。吸って、吐いて。頭の中が、少しずつ静かになっていく。ダンジョン、剣術部、試験、ヴァルハラ・アームズ——さっきまでぐるぐると回っていたものが、遠くなっていく気がした。
どのくらい経ったのか分からなかった。
「終わり」
カヴィヤの声で目を開けた。窓の外の光が、来たときより少し傾いていた。
「どう?」
葵は少し考えた。
「……なんか、軽い気がします」
「そう」カヴィヤは満足そうに頷いた。「疲れを抜くんじゃなくて、体を整える。その違いが少し分かった?」
「はい、少し」
「来週また来なさい。続けることが大事だから」カヴィヤがマットを丸めながら言った。「剣術部、今から行っても遅くないけど——今日はそのまま帰りなさい。白羽さんには話しておいたから」
葵は頭を下げた。ドアに向かいかけて、振り返った。
「あの、ありがとうございました」
カヴィヤは少し目を丸くした。それからいつもの柔らかい笑顔に戻った。
「どういたしまして」
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廊下に出ると、体が軽かった。
本当に軽かった。ダンジョンから戻った直後とも、剣術部の後とも違う。疲れが抜けたというより、体の中が整った、という感覚に近い。
魔力の流れが、さっきより滑らかになっている気がした。
休息も大事、か。
葵は歩きながら、そんなことを思った。
「ライラ」
ライラが胸元から顔を出した。
「何?」
「……テレビ、最近全然見てないなって」
ライラが少し首を傾けた。
学園に入る前、葵とライラの夜はだいたい決まっていた。くだらないバラエティ番組をつけて、二人でぼんやり見る。内容なんてほとんど覚えていない。ただそこにいるだけの時間だった。
アーデル先生の部屋にはテレビがない。そして最近は忙しすぎて、テレビのことなど頭になかった。
「アーデル先生に聞いてみようか。テレビ置いても大丈夫か」
ライラが少し間を置いた。
「うん、テレビ見たい」
小さい声だったが、はっきりしていた。
葵は少し笑って、寮へ向かった。




