第85話 ローレライの歌
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50層へ踏み込む前から、それは聞こえていた。
音というより、空気そのものが揺れているような感覚だった。水の魔力に満ちたこの階層では音の伝わり方が違うのかもしれない。それにしても——葵は足を止めた。
「……聞こえますか」
茜が頷く。エリサベットも無言で前方を見つめていた。
ライラが強く揺れていた。
歌だった。
言葉はない。旋律だけが、水の魔力の中を伝うように広がってくる。
甘く、深く、どこか遠いところから呼びかけるような歌声。天井の魚たちが群れを乱し、一斉に奥へと泳ぎ去っていく。
三人で廊下を進んだ。ほどなくして、区画が開けた。
区画の奥、巨大な水溜まりの中心に、それはいた。
長い銀髪が水面に広がり、上半身だけを水上に出して、目を閉じたまま歌っている。人の形をしているが、人ではない。水晶のように透き通った肌。指先まで細く伸びた両腕が、緩やかに宙を漂っていた。
視界のUIにローレライの名前が表示される。同時に、エリサベットが一歩前に出た。
「行くわよ」
エリサベットの蔦が水面を割って伸びた瞬間、ローレライが目を開いた。
歌声が、大きくなった。
旋律は変わらない。ただ、空気の密度が変わった。甘さが増し、頭の芯に直接触れてくるような感覚。葵は一瞬、足が止まりかけた。しかし次の瞬間にはもう動いていた。特に何かをしたわけではない。ただ、効いていなかった。
茜も同じだった。表情一つ変えず、ドミニオンに指示を出している。
エリサベットだけが、止まっていた。
「……綺麗な歌声ね」
葵と茜が同時に振り返った。エリサベットは水面をぼんやりと見つめたまま、どこか遠い目をしていた。
「先輩」と茜が声をかけた。「回復魔法、自分にかけてください」
エリサベットがゆっくりと茜を見た。二秒ほど間があった。
「……あら」
はっとしたように瞬きをして、素早く自分に回復魔法をかける。白い光が一瞬広がり、消えた。
「失礼したわ」
声はもう、いつも通りだった。
葵が前衛に出た。短剣を構えて水面を蹴り、ローレライとの距離を詰める。
ローレライが片腕を持ち上げた。水が集まり、渦を巻き、葵の全身を包み込む。水のヴェール。視界が青く歪んだ。
葵は一瞬考えて——短剣を思い切り横に薙いだ。
ヴェールが裂けた。物理攻撃が通る。葵はそのまま踏み込んだ。ローレライが後退する。水溜まりの中心へ、また中心へと引いていく。
茜のドミニオンが上空から光を降らせ、エリサベットの蔦がローレライの退路を塞いだ。
ローレライが歌い方を変えた。
周囲の水溜まりから魚影が浮かび上がる。
水面を突き破って現れたのは、マーメイドが二体、アクアンズが一体。道中で相手にしてきたものとは違う。滲み出る魔力の気配が、明らかに大きかった。
「任せて」と茜が言った。
ドミニオンが二体のマーメイドへ向かう。エリサベットの蔦がアクアンズに絡みついた。
葵はローレライだけを見た。
じりじりと距離を詰める。ローレライの歌声が高くなった。
水面が泡立った。
小さな泡ではない。人が一人すっぽり入るほどの大きな水の泡が、次々と水面から浮かび上がってくる。泡は透明で、中に引きずり込まれたら——葵は直感的に理解した。まずい、と。
「泡を壊して!」とエリサベットの声が飛んだ。
葵は踏み込みながら短剣で泡を叩き割る。茜のドミニオンが翼で薙ぎ払い、エリサベットの蔦が絡みついて潰す。泡は次々と湧いてくる。後退しながら壊し、また前へ。
その隙間から、葵はローレライを見た。
歌声が揺らいでいた。追い詰められている。
葵は泡を二つ蹴り砕いて、一気に間合いを詰めた。ローレライが腕を持ち上げる。また水が集まりかけた。
葵は止まらなかった。
短剣がローレライの胸を貫く。歌声が、途切れた。
水が、静かに落ちた。
波紋が広がって、消えた。水溜まりの底に、小さな欠片が沈んでいくのが見えた。透き通った、水晶の破片。
葵はそれを拾い上げた。耳に当ててみると——どこか遠くから、歌声が聞こえた気がした。
エリサベットが蔦を引き戻しながら、ゆっくりと周囲を見渡した。
「今日はここまでにするわ」
「次の階層から敵が強くなるからですか?」と葵が聞いた。
「そう。51層からが本番よ。今までみたいな調子で行けると思わないで」
それから少し間を置いて、エリサベットは付け加えた。
「あと、しばらく私、多忙なの。これから毎日来られるわけじゃないわ」
茜が静かに「そうですね」と言った。
「べ、別に茜が怖いんじゃないんだからね」エリサベットの声が少し早くなった。「スケジュールの問題よ。私には私の予定があるの」
葵は何も言わなかった。
「でも」とエリサベットは咳払いをして続けた。「私の護衛は全員150層まで行っているから、あなたたちが進んだ分は別に進めておくわ。遅れは取らない」
「ありがとうございます」
「礼には及ばないわ」とエリサベットは前を向いた。「予定が合えばまた探索しましょう。転移石で戻るわよ」
転移石に触れると、景色が一瞬で切り替わった。迷宮の入口。外の空気が、冷たく肺に入ってくる。
「次は二人きりで探索できるね」
茜の声は弾んでいた。顔も、それに合わせるように明るかった。
「——私も居る」
ライラが胸元から飛び出した。声は短く、しかしはっきりしていた。
茜が一瞬止まった。
「……ごめんなさい」
ライラは少し間を置いてから、葵の肩に腕を乗せた。
「でも」とライラは言った。「次から、私も頑張る」
葵は思い返した。1層から50層まで、ライラを戦闘で頼る場面は一度もなかった。
「うん、頑張ろう」
ライラが小さく頷いた。その顔は、どこか安堵しているように見えた。




