表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
85/94

第84話 海底神殿

41層へ踏み込んだ瞬間、世界が変わった。


足元に広がるのは靴底を覆う程度の薄い水の膜。

踏み出すたびに波紋が揺れ、白大理石と淡い青の瑠璃石を幾何学的に組み合わせたモザイクの床が、その揺らめきの中に姿を見せる。


天井は三十メートル以上はあるだろう大ドームになっており、表面を覆う水晶化した魔力水の向こうに、無数の魚たちが泳いでいた。群れが通り過ぎるたびに、天井全体が銀と青の波紋で輝く。


「……すごい」


葵は思わず立ち止まった。


ドームの中心には巨大な光源が浮かんでいる。水中から太陽を見上げた時のような柔らかな金色の光が、屈折と魔力拡散によって穏やかに広がり、海の底の真昼のような幻想的な明るさを生み出していた。

壁は白と青の縞模様の大理石で、表面を薄い水の膜が常に流れ落ちている。古代の文字と近未来の魔導回路が融合した浮彫が青白く光を放つ。


息を吸うたびに、肺の奥まで冷たく甘い水の香りが広がる。


そして——空気中を、魚が泳いでいた。


そうとしか言いようのない光景だった。銀鱗の魚が、まるで水など関係ないとでもいうように、葵のすぐそばをすり抜けていく。手を伸ばせば触れられる距離を、ゆったりと、しかし確かな意志をもって通り過ぎていった。


「あの……」


葵は思ったことを、そのまま口にした。


「この魚って、食べられるんでしょうか」


隣でエリサベットが半歩止まる気配がした。


「なんで突然そういうことを聞くのよ」


「なんか……美味しそうで」


エリサベットは数秒の間を置いてから、ため息をついた。


「食べられるらしいわよ。実験した冒険者はたくさん居たそうだけど、全員死んでないわ」


「じゃあ大丈夫なんですね」


「だからって今ここで食べようとしないでちょうだい」


茜が小さく笑った。エリサベットが咳払いをして、前を向く。


先へ進む。床を踏むたびに水が跳ね、波紋が広がる。ところどころに底の見えない深い水溜まりが点在していた。縁に近づくと、黒く透き通った闇が口を開けている。淡い銀色のルーンが浮かび上がって、まるで落ちないよう警告するようにゆっくりと回転していた。


ルサルカが水溜まりの縁から上半身を現した。エリサベットの蔦が一瞬で絡みつき、引き上げて地面に叩きつける。シルキーが霧の中から滑り出てきたところへ、葵がテネブラ・サギタを三連射。ウンディーネが水の鞭を振るうより早く、茜のドミニオンが翼で薙ぎ払った。


戦闘と前進を繰り返しながら、葵は気づいた。エリサベットが氷魔法を一度も使っていない。水の魔力が濃密に満ちたこの階層では、同じ水属性の魔法はほとんど効かないのだろう。代わりに木の蔦と茨が、まるで彼女の指の延長のように動いている。


「先輩、木属性も使えるんですね」


「……練習したのよ」


それだけ言って、エリサベットは前を向いた。その耳が、ほんのわずか赤かった。


「この階層、先輩は大変じゃないですか」


「まあ……得意とは言えないわね」とエリサベットは蔦を手元に引き戻しながら言った。「でも50層まではこの調子でいけるわ。本番はその先よ」


それ以上は言わなかった。葵も聞かなかった。


しばらく進んだところで、ニクシーを二体仕留めてから、茜が口を開いた。


「エリサベット先輩の婚約者って、どんな方なんですか」


エリサベットは一拍おいてから答えた。その声は、平静を保とうとしていたが、どこかほんのり柔らかかった。


子供の頃のパーティーで初めて会ったときから好きだった。転んだときに「泣かないのよ、こんなところで弱い顔を見せたら負けだわ」と言ってくれた。「私は私で大丈夫」という内側からの輝きに、ずっと惹かれてきた——。


エリサベットは淡々とそれを語り、最後に「だから私、ずっと子供の頃から好きなの」とだけ言って、少し照れたように前を向いた。


茜は黙って聞いていた。


「……素敵な話ですが、それ一つだけですか?」


「え?」


「思い出が、一つだけですか」


「そんなことないわよ。何度も会ってるもの」


「私、葵との思い出を数えようとして、やめたことがあって」


エリサベットが少し目を丸くした。


「なんで?」


「数えきれなかったから」


葵は何も言えなかった。


「……初めて会ったその場で好きになったんですよね、先輩は」


「そうよ、それが何?」


「じゃあ」と茜は少し間を置いた。「葵のことも簡単に好きになっちゃうんじゃないですか?」


エリサベットが止まった。


「そんなことないわよ!」


「でも初対面で好きになれる人なんですよね、先輩は」


「お姉さまは——お姉さまは特別なの。そんな簡単に人を好きになったりしないわ、私は」


葵は何も言えなかった。


エリサベットの頬がじわじわと赤くなっていくのを、葵は目の端で確認した。


茜がくすりと笑った。葵も笑った。エリサベットが「笑わないでちょうだい!」と言いながら、その口元が少しだけ緩んでいた。


笑い声が収まったころには、三人はまた歩き始めていた。


マーメイドが水溜まりの縁から上半身を現し、長い指で手招きをした。葵は魔力弾を二発。ニクシーが水の槍を形成する前に踏み込んで短剣で叩き落とした。アクアンズが複数体、水の底から這い上がってくるのをエリサベットの蔦が絡めとり、茜のドミニオンが翼で一掃する。


戦いながら、奥へ。


天井の魚たちが群れをなして通り過ぎていく。銀と青の波紋が、三人の頭上に広がっては消えた。


どこか遠くから、歌声のようなものが聞こえた気がした。


葵は足を止めた。


「……今、何か聞こえませんでしたか」


エリサベットと茜も立ち止まる。三人で耳を澄ませたが、もう何も聞こえなかった。水の流れ落ちる音だけが、静かに続いていた。


「気のせいじゃない?」とエリサベットが言った。


葵は頷いて、また歩き始めた。ただ——ライラが、わずかに揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ