第83話 ムスペルの火
鍛冶の王とでも言うべき神魔は、戦槌を肩に担いだまま動かなかった。
黄金色の目が、葵を見ていた。
葵は剣を構えたまま、小声で後ろに言った。
「二人とも、後ろから魔法で援護してください。近づけさせません」
エリサベットは少し間を置いてから、茜の腕を引いて後退した。
葵は前を向いた。
視界のUIにバクの魔法陣を展開した。
ぽふ、という音がして、肩に重みがかかった。象の鼻を持つ丸い体が、葵の肩にちょこんと乗っている。青白く光る大きな目が、ムスペルを見上げた。
「キュ……」
不思議な声を上げた。
次の瞬間、ふわりと水の気配が葵を包んだ。炎の工場の熱が、すうっと和らいでいく。
「ありがとう」
バクは何も言わなかった。ただ、葵の肩の上でもぞもぞと体勢を整えた。
ムスペルの黄金色の目が、葵の肩のバクを一瞥した。
——冷たい視線だった。ただ排除すべき障害として、葵を見ていた。
「来る」
ムスペルが動いた。
―――――――――――――――――――
巨大な戦槌が空を薙いだ。風圧だけで空気が裂ける。葵は低く身を屈めて潜り抜けた。戦槌が床を掠め、黒曜石のタイルが砕け散った。
——重い。当たったら終わりだ。
バクに意識を向けた。
「お願い」
「キュ」
バクが短く鳴いた。小さな体から水の奔流が迸り、ムスペルの胸に叩きつけた。蒸気が上がる。ムスペルが低く唸った。ダメージは入っている。
その瞬間——天井が動いた。
無数の鎖と歯車が軋みながら降りてきた。葵を囲むように、四方から鎖が伸びてくる。
——まずい。
葵は走りながら光の矢を連射した。鎖が焼き切られる。歯車が砕けて落下した。
「天井に仕掛けがあります! 全部壊すまで気を付けてください!」
葵は天井を見上げながら走り続けた。残っている歯車と鎖に向かって光の矢を連射する。一本、二本、三本——次々と落下していく。
ムスペルが葵の動きを目で追いながら、戦槌を高く振り上げた。
——来る。
葵は横に跳んだ。
戦槌が床を叩いた。
轟音とともに床が割れた。割れ目から溶鉄が噴き上がる。赤い柱が三本、四本——葵の周囲を囲むように噴出した。
「っ」
バクが「キュ」と短く鳴いた。水の気配が強くなる。溶鉄の熱が和らいだ。葵は柱の間を縫うように走り抜けた。
「葵!」茜の声が後方から聞こえた。
「大丈夫」
大丈夫ではないかもしれない。でも——体は動いている。
ムスペルの角が燃え上がった。
青白い炎が角の先端から膨れ上がり——部屋全体に広がった。灰と火の粉が嵐のように舞い散る。視界が白く霞んだ。
葵は光の防壁を展開した。灰と火の粉を弾く。バクの水の気配が防壁の外側を包んだ。
嵐が収まった。
葵は防壁を解いた。息を整えた。
「エリサ先輩、今のうちです!」
「わかったわ!」
氷の槍が連続して飛んだ。ムスペルの胸、肩、足——各所に命中する。ムスペルが低く唸った。
茜のドミニオンのバフが葵に重なった。体が軽くなる。
バクがまた水魔法を放った。ムスペルの足元に水が叩きつけられ、動きが一瞬鈍る。
葵はその隙に踏み込んだ。
光の剣でムスペルの膝関節を狙う。一撃、二撃——亀裂が入る。ムスペルが戦槌を振り下ろす。葵は横に跳んでかわした。着地して、また踏み込む。
当てては逃げる。逃げては当てる。
ムスペルの戦槌は一度も葵を捉えられなかった。
―――――――――――――――――――
魔力炉の鼓動が、急に速くなった。
工場全体が震えた。天井の残った歯車がガタガタと揺れ、床の魔法回路を流れる青緑の液体が沸騰し始める。
ムスペルの全身が燃え上がった。
溶岩のように脈打っていた赤い線が、一斉に爆発的な輝きを放つ。角の青白い炎が真紅に変わった。炎のマントが膨れ上がり、部屋全体を熱波が包んだ。
バクが「キュッ」と鳴いた。必死に水の気配を広げているのがわかった。でも——さっきより明らかに暑い。
「強化されたわね」とエリサベットが言った。声が、少し固かった。
ムスペルが戦槌を振り上げた。
今度は違った。炎を纏った戦槌が床を叩く——溶鉄の柱が倍の数で噴き上がった。炎を纏った柱が葵に向かって迫ってくる。
葵は走った。柱の間を縫う。熱い。バクの水魔法が追いつかないほど熱い。
「キュ、キュッ」
バクが必死に鳴き続けている。
角から放たれた炎が嵐のように舞い散った。今度は灰だけではない。炎の塊が無数に飛んでくる。
葵は防壁を展開しながら走り続けた。防壁に炎が叩きつかるたびに、光がひび割れる感触がした。
——削られている。
「葵、無理しないで」茜の声が聞こえた。
「もう少し」
ムスペルが炎の鎖を生成した。天井から新たに降りてきた鎖が炎を纏い、葵に向かって伸びてくる。
葵は低く屈んで潜り抜けた。背後で炎の鎖が床に叩きつかり、黒曜石のタイルが溶けた。
——当たっていたら。
考えるのをやめた。
バクがまた水魔法を放つ。ムスペルの足元を濡らす。動きが鈍る。葵は踏み込んだ。光の剣でムスペルの膝の亀裂を狙う——さらに深く、砕けた。
ムスペルが膝をついた。
黄金色の目が、葵を正面から捉えた。
排除できないことへの苛立ちだけがあった。
「今よ」
エリサベットの声が響いた。
葵は横に跳んだ。
エリサベットが両手を前に突き出した。
「アクア・レクス」
巨大な水の奔流が解き放たれた。工場の空気が一瞬で冷えた。ムスペルの炎が、水に飲み込まれていく。轟音とともに蒸気が爆発的に広がった。
静寂。
ムスペルは動かなかった。
膝をついたまま、炎が消えていく。全身の溶岩のような赤い線が、少しずつ暗くなっていく。黄金色の目が閉じた。
巨躯が、ゆっくりと崩れ落ちた。
床に落ちた瞬間、魔力炉の鼓動が、ゆっくりと静かになっていった。
葵は息を吐いた。
バクが「キュ……」と小さく鳴いて、葵の肩にもたれかかった。疲れているらしかった。
「お疲れ様」
バクは何も言わなかった。ただ、目を細めた。
―――――――――――――――――――
床に二つのものが残っていた。
一つは、灰白色の長い髭。ムスペルの顎から抜け落ちたものだ。触れると、まだかすかに熱を持っていた。でも燃えてはいない。
もう一つは、炎のマントの残滓だった。深紅と黒が混じり合った布のような素材で、触れると指先にじんわりとした魔力の温かさが伝わってくる。
葵はしゃがんでそれを眺めた。
「これ、どうしますか」
エリサベットが近づいてきた。髭を一瞥して、マントの残滓を手に取った。しばらく眺めてから、葵に差し出した。
「欲しいならあげるわ。私には使い道がないもの」
「いいんですか」
「いいのよ」
葵は茜を見た。
茜は少し間を置いてから、静かに言った。
「将来お財布は一つになるから、葵のものにしていいよ」
葵は少し考えた。
——財布が一つ。パーティとしてということか。確かに物資の調達資金はまとめておいた方がいい。
「ありがとう、二人とも」
葵は髭とマントの残滓を丁寧に鞄にしまった。イレムに換金を頼めるかもしれない。その1/3を家庭教師費用にしよう。
バクが葵の肩の上で「キュ」と鳴いた。
「お疲れ様、バク。ありがとう」
バクは目を細めた。それから、ふわりと消えた。妖界に帰っていったらしい。
葵は立ち上がった。
工場の奥に、次の層へ続く通路が見えた。
「行きましょうか」
エリサベットが前を向いた。
「ええ」
茜も頷いた。
三人で、次の層へ向かって歩き始めた。




