第82話 ずっと前から
転移石が光った。
次の瞬間、三人は31層に立っていた。
誰も何も言わなかった。
言葉が、出なかった。
天井は遥か高く、黒い鉄と紫水晶が融合したアーチ状の構造物が広がっていた。
そこに埋め込まれた巨大な魔力炉がゆっくりと回転しながら青白い炎を吐き出し、天井全体に複雑な魔方陣を描いている。
光の紋様が絶え間なく流れ、時折魔力の奔流が稲妻のように走って、紫と深紅の光が天井を染め上げた。
光は明るくない。むしろ影を濃く強調するような、妖しく冷たい輝きだった。
床は黒曜石と血のような赤い金属を混ぜたタイル状の素材でできている。
葵が一歩踏み出すと、足裏に微かな魔力の振動が伝わった。
足跡の形に淡いルーンが一瞬浮かび上がり、消えた。
床のあちこちに割れた部分があり、そこからオレンジ色の溶岩のような魔炎がチラチラと覗いている。熱くはない。
でも——触れれば魂を焦がすような気配がした。
空気は熱く、甘く、重苦しかった。
焦げた砂糖と硫黄と鉄の匂いが混じり合った独特の香りが鼻腔を刺激する。
ゴォォン……ゴォォン……
低く絶え間ない魔力炉の鼓動のような音が響き渡り、時折鋭い金属音やガラスの割れるような魔力破裂音が混じった。
無数の浮遊する魔法歯車と、鎖で吊るされたガラス管がゆっくりと動いている。管の中では色とりどりの液体が螺旋を描きながら流れていた。
巨大な試験管のような容器の中では、半透明の何かが浮かんでおり——時折、目を開けてこちらを見つめてきた。
作業台では、影のような人型をしたゴーレムが無表情で薬品を混ぜ、ルーンを刻んでいる。
その目には赤い光が灯り、時折謎の紋章が胸に浮かび上がった。
「わ、わあ、工場ね! 聞いてはいたけど、こうなのね!」
エリサベットの声が少し上ずっていた。
葵も同じ気持ちだった。やはり10階層ごとに、何もかもが違う。
茜は黙ったまま、ゆっくりと周囲を見渡していた。その目が、遠くの作業台で動くゴーレムを捉えた。
「あれが敵?」
「たぶん」と葵は言った。「気づかれる前に——」
その瞬間、ゴーレムの胸の紋章が赤く光った。
赤い目が、三人の方を向いた。
「——来る」
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ゴーレムが動き出した。重い足音が床のルーンを震わせる。
葵は銃を構えた。光の魔力弾を三発連射——ゴーレムの胸に命中した。弾丸はゴーレムの体を大きく削ったが、動きに支障はなさそうだった。
「硬い」
「石と金属でできてるんだから当然よ」エリサベットが氷魔法を展開しながら言った。「関節を狙いなさい。動きを止めてから崩す」
氷の柱がゴーレムの足元に生えた。動きが鈍る。葵は光の剣を呼んで膝関節を狙って斬りつけた。亀裂が入る。もう一撃——砕けた。
ゴーレムが崩れ落ちた。
「思ったより早かったわね」エリサベットが言った。
「先輩のおかげです」
エリサベットは少し顔を逸らした。耳が赤かった。
茜は無言でドミニオンのバフを葵にかけ続けていた。その目は静かで、どこかを測るように前を見ていた。
三人で奥へ進んだ。
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グレムリンが群れで現れた。小さくて素早い。茜の天使がまとめて光で薙ぎ払う。続いてホムンクルスが二体——葵が短剣で、エリサベットが氷で同時に仕留めた。
戦闘のたびに三人の息が少しずつ合っていく。
でも、会話はなかった。
葵は気づいていた。エリサベットと茜の間に、微妙な緊張感が流れていることを。互いに敵意があるわけではない。ただ——どう接すればいいかわからない、という空気だった。
ライラが、温かく揺れた。何も言わなかった。
廊下の奥で、また魔力炉が青白い炎を吐き出した。紋様が天井を流れていく。
ゴォォン……ゴォォン……
魔力炉の鼓動の音だけが、三人の間を満たしていた。
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サイクロプスの未成熟体が二体、通路の角から現れた。一つ目が赤く光り、棍棒を持っている。
葵が前に出た。光の防壁を展開しながら引きつける。エリサベットが背後から氷の拘束——茜の天使が上から光で押しつぶした。
「綺麗な連携ね」エリサベットが言った。今度は茜に向かって。
茜は少し間を置いた。
「……ありがとうございます」
また沈黙が戻った。
エリサベットは前を向いたまま、少し口を開いた。閉じた。また開いた。
「……ねえ」
「はい」と茜が答えた。
「あなたたちって、どんな関係なの?」
茜はしばらく黙っていた。葵も黙っていた。
「……葵が心配だから、付いてきたんです」
エリサベットは少し考えてから、柔らかく笑った。
「……愛ね。素敵よ」
それから、少し遠い目をして付け加えた。
「私にも婚約者がいるの。愛し合っているわ」
葵はその言葉を聞きながら、前を向いたまま何も言わなかった。
茜も何も言わなかった。ただ——少しの間、エリサベットを見た。
「……エリサベット先輩」
「なに?」
「葵のこと、気になっていないですか?」
空気が、止まった。
エリサベットの足が一瞬止まりかけた。すぐに歩き直した。
「そ、そんなわけないじゃない。私はお姉さま一筋よ」
声が、少し上ずっていた。
茜はそれ以上何も言わなかった。ただ静かに前を向いた。
エリサベットは咳払いをした。
「……ねえ、あなたたちのことを聞かせてくれない? いつからの知り合いなの?」
茜は少し間を置いた。
「……ずっと前から」
そして、静かに話し始めた。
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茜 四歳
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砂場に、男の子がいた。
小さくて、色白で、ふわふわした黒髪の。茜より少し背が低い。
茜はその子のことを知っていた。近所に住んでいる、葵という名前の子だ。でも話したことはほとんどなかった。
その日、茜は砂場に大きなお城を作っていた。お姫様が住むような、塔のあるお城。丁寧に、丁寧に積み上げた。
「壊して遊ぼう!」
男の子たちが来た。三人。茜より大きい。
「やめて」
茜は小さな声で言った。でも足が動かなかった。
男の子たちが城に向かって手を伸ばしかけた——その瞬間、茜の前に誰かが立ちはだかった。
葵だった。
砂だらけの手で、城の前に立っていた。
「……この子のお城なんだよ。頑張って作ってたから、壊さないで。僕も一緒に作るから、みんなで遊ぼう?」
声は優しかった。でも——まっすぐだった。
男の子の一人が「女みたいな顔して何言ってんだよ」と突っかかってきた。葵は少し追い詰められたけど、城の周りに小さな溝を指で素早く掘り始めた。
「ほら、ここがお堀だよ。お水を流したらお城を守れるよ」
自分の小さなバケツで水を運んできた。一生懸命で、でも全然怖がっていなかった。
男の子たちは面白がって、いつの間にか一緒に溝を掘り始めた。
城は守られた。
茜はその背中を、ずっと見ていた。
——この子は、なんで怖くないんだろう。
それが、最初だった。
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ゴォォン……ゴォォン……
魔力炉の音が、遠くから響いていた。
エリサベットは黙って聞いていた。葵も黙って前を向いていた。
「続けて」とエリサベットが静かに言った。
茜は続けた。
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茜 小学校低学年
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学校の帰り道だった。
茜は少し背が高くて、髪が短くて、どちらかというと男の子みたいに見えた。それが気に入らない男の子たちがいた。
「男みたい」「おかしい」
三人に囲まれていた。茜は睨み返した。怖かったけど、声は出なかった。
そこに、葵が通りかかった。
すぐに状況を察した。茜の前に立った。
「……待って、茜をいじめないで。茜は僕の大事な幼馴染だよ。僕がいるから、もうやめて」
声は柔らかかった。でも目は——まっすぐで、一切怯まなかった。
男の子の一人が「何を偉そうに」と突き飛ばそうとした瞬間、葵は冷静に体をずらして避けた。その子の手を優しく掴んで言った。
「痛いことしちゃダメだよ。みんなで仲良くしよう?」
微笑みながら言った。
男の子たちは気まずくなって去っていった。
茜は呆然と葵を見上げた。
「……なんで、そんなことができるの」
葵は少し首を傾けた。
「茜が泣いてたら嫌だから」
——それだけだった。なのに茜の胸の奥で、何かが静かに、でも確かに動いた。
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ニーベルンゲンが三体、通路の壁から這い出てきた。小さな人型の魔物で、素早く動き回る。
葵が光の矢を二本同時に放って二体を仕留めた。残りの一体が茜に向かった——エリサベットの氷が足元を封じた。茜の天使が上から光で押しつぶす。
「……続けて」
エリサベットが静かに言った。魔物を倒しながら、でも耳はちゃんと茜の方を向いていた。
葵は何も言わなかった。ただ前を向いて歩き続けた。
茜は続けた。
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茜 小学校中学年
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茜には大切なお守りがあった。
小さな布袋で、中に何が入っているかは秘密だった。ただ、ずっと持ち歩いていた。
ある日の掃除の時間、誰かが誤って捨ててしまったのだろう。
茜は表面上は平気な顔をしていた。でも内心、ひどく落ち込んでいた。
葵がそれに気づいていた。
放課後、葵の姿が消えた。茜には何も言わずに。
夜遅く、茜の家のドアが鳴った。
葵だった。息を切らしていた。泥だらけだった。でも手には——お守りが、あった。
「……たまたま落ちてたんだ。茜が大事にしてたもの、ちゃんとあったよ」
声はいつもの優しい柔らかいままだった。
でも目には——一切の迷いがなかった。絶対に見つける、と決めていた強さが滲んでいた。
茜はしばらく、その顔を見ていた。
言葉が出なかった。
その夜、茜は初めて何かを思った。
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ゴォォン……ゴォォン……
魔力炉の音が響く。
エリサベットは黙って歩いていた。でも葵には、エリサベットの耳がまた赤くなっているのが見えた。
葵は何も言わなかった。
ただ、胸元に手を当てた。
ライラが、わずかに揺れた。
何も言わなかった。
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茜 小学校高学年
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茜の大事なノートが破かれた。
先生は「事故」として処理しようとした。茜は少し悔しそうにしていたが、何も言わなかった。
葵は黙っていた。
でも茜は気づいていた。葵が周囲に何かを聞いて回っていることを。
放課後、一人でどこかへ向かったことを。
翌日、犯人が葵に呼び出されているのを、茜は遠くから見ていた。
葵は犯人の前に静かに立って言った。
「……茜を傷つけたの、君だよね。
でも、これ以上やめてもらえる? 茜が悲しむの、僕、嫌なんだ」
声は柔らかかった。決して怒鳴らなかった。
でも相手を直接見据える目が、子供ながらに静かな威圧感を出していた。
犯人は気圧されて、同じ日に茜に謝ってきた。
以後、そんな事件は起きなくなった。
葵は茜に何も言わなかった。
ただ「謝ってくれてよかったね」と一言だけ言って、いつも通り歩いていった。
茜はその後ろ姿を見ていた。
——この人は、なんで誰かのためにそこまでできるんだろう。
わからなかった。でも——わからなくてもよかった。
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サラマンダーが炎を吐きながら現れた。
葵が光の防壁を展開する。茜がドミニオンのバフをかける。エリサベットが氷の壁で炎を受け止めながら、足元に氷の拘束を展開した。葵が光の剣で首を狙って一閃——サラマンダーが崩れ落ちた。
「強いわね」エリサベットが葵に言った。
「先輩たちのおかげです」
エリサベットは少し顔を逸らした。また耳が赤かった。
茜はその様子を横目で見ていた。何も言わなかった。
「続けて」とエリサベットが言った。今度は少し早口だった。
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茜 中学生
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文化祭だった。
茜のクラスが劇をやることになった。茜は中性的なルックスで「王子様役」を押しつけられた。内心プレッシャーを感じていた。
本番が始まった。
茜は台詞を覚えていた。でも——いざ舞台に立つと、頭が真っ白になった。次の台詞が、出てこない。
客席がざわついた。
その瞬間、舞台袖から誰かが出てきた。
葵だった。
客席のどこかにいたはずなのに、気づいたら舞台袖に立っていた。即興で「王子の忠実な騎士」として舞台に立った。
葵は茜の隣に並んで、小声でそっと言った。
「……茜、大丈夫だよ。僕がいるから、一緒にやろう。次はこう言えばいいよ……」
堂々とした動きで劇をリードした。
観客から「かわいい騎士!」と拍手が起きた。
劇は大成功だった。
でも茜が覚えているのは、拍手でも成功でもなかった。
葵が舞台袖から出てきた瞬間、茜に向かって微笑みながら言った言葉だった。
「茜……僕を信じて」
それだけだった。
その夜、茜は眠れなかった。
枕に顔を埋めて、ずっと考えた。
——好きだ。
わかっていた。ずっとわかっていた。でもその夜、初めてちゃんと言葉にした。
好きだ。葵のことが、好きだ。
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ゴォォン……ゴォォン……
魔力炉の音が響く。
三人はしばらく無言で歩いた。
エリサベットが口を開いた。声が、少し掠れていた。
「……それで、葵には想いを伝えたの?」
茜は少し間を置いた。
「……運命だって言っています」
「運命?」
「私たちが結ばれるのは運命だって。ずっと言っています」
エリサベットは葵を見た。葵は前を向いたままだった。
「……葵、それ聞いてどう思うの?」
葵は少し考えた。
「そう言う時は、茜がいつも嬉しそうだから、僕も嬉しいです」
エリサベットは少し言葉に詰まった。
茜は何も言わなかった。ただ、葵の横顔を静かに見ていた。
その目に、悲しみはなかった。
ただ——穏やかに、笑っていた。
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40階層に到達した。
そのとき、前方の魔力炉が爆発的に燃え上がった。
重く、力強い心臓の鼓動のような音が響き渡った。
前層までの魔力炉の音よりももっと深く、もっと重い音だった。
炎の中からゆっくりと姿を現したのは、黒紅の巨躯だった。
全身は灼熱した黒曜石のような皮膚で覆われ、所々が溶岩のように赤く脈打っている。頭部には湾曲した二本の黒い角が生え、角の先端から青白い炎が静かに揺らめいていた。長い灰白色の髪と髭は冷えた灰と溶岩が混じったように見え、背中には灼熱のマントのように炎の羽織りが流れ落ちている。
右手に握られているのは、巨大な黒鉄の戦槌。
黄金色の目が、葵を真正面から見据えた。
背後の魔力炉が爆発的に燃え上がった。部屋全体が真紅の炎に包まれる。無数の歯車と鎖が天井から降りてきて、炎の王座を形成した。
鍛冶の王が、戦槌を軽く肩に担いだ。
「ムスペル……」
エリサベットが小さく呟いた。
葵は剣を構えた。




