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第81話 七つの誓約

ダンジョンに行く約束をした後、葵はいつもと違う教室へ向かっていた。


Aクラス以下のクラスの授業ホールは、普段とは別の棟にある。廊下を歩きながら、葵は少し不思議な気分になった。


同じ校舎の中なのに、空気が違う。Sクラスの廊下はどこか張り詰めていて、すれ違う生徒たちも一様に目が鋭い。こちらの廊下は——静かだった。落ち着いている、という方が正確だろうか。


「緊張してる?」


胸元でライラが揺れた。


「してないよ」


「してる」


葵は少し笑って、授業ホールのドアを開けた。


中にはすでに多くの生徒が座っていた。葵は無意識に颯や茜の顔を探したが、見つからなかった。葵が入ってくると、いくつかの視線が向いた。好奇心と、少しの戸惑いが混じったような目だった。Sクラスの生徒がなぜここに、という空気が漂っている。


葵は空いている席を見つけて腰を下ろした。


胸元でライラが、温かく揺れた。


―――――――――――――――――――


しばらくして、アーデルが入ってきた。


切れ長の目が教室を一度見渡し、葵のところで一瞬止まった。止まった、というより——確認した、という感じだった。それだけで、また前を向いた。


「始める」


アーデルは黒板に「普遍魔法憲章——七つの誓約」と書いた。


「中間試験が終わった。ここからは神魔との契約論に入る。その前に、今日は契約の根底にある原則を確認する」


教科書を開く音が重なった。葵も教科書を開いた。


「七つの誓約は特定の宗教や文化に依らない。四大元素・五行・カバラ・ルーン——あらゆる魔法体系の深層から抽出された、普遍的な原理だ。これを理解せずに契約論には進めない」


アーデルは淡々と話し始めた。声に無駄がない。でも——押しつけがましくない。葵は仮クラスでもアーデルの授業を受けてきたが、Aクラスでも同じだった。この教室でも、生徒たちは自然とアーデルの言葉に引き込まれていた。


「1——万物は一つの根源から生まれ、その性質を分有する」


黒板に「1」と書いた。


「道家でいう道、ヒンドゥーのブラフマン、カバラのアイン・ソフ——呼び名は違うが、すべての体系が『分割不能な根源』を想定している。魔法とはその根源と接続し、流れを意図的に方向づける技術だ」


葵はノートに書き留めた。


「2——上と下は照応し、内と外は鏡である」


「ヘルメス哲学の『上の如く、下も然り』だ。星の動きは地上を映し、身体は宇宙の縮図である。ある次元への働きかけは、必ず別の次元に響く」


生徒の一人が手を挙げた。


「先生、それは魔法陣が宇宙の構造を模倣しているということですか」


「そうだ。魔法陣の三層構造——境界円・属性紋・象徴文字——はそれぞれ異なる次元への接続点を持つ。それがなぜかは、この原則で説明できる」


葵はその答えを聞きながら、ノートの端に小さくメモした。このクラスでは質問が飛ぶのが自然だった。アーデルも止めない。むしろ——少し、嬉しそうに見えた。


「3——対立するものは同一の両端であり、調和によって力となる」


「光と影、陰と陽。どちらかを排除すれば全体が崩れる。調和とは中間ではなく、動的な均衡だ」


「4——すべては変容と循環の中にある。術者もその例外ではない」


「魔法の本質は外界を変えることではなく、術者自身が変容することだ。これを忘れると、魔法は力の行使に成り下がる」


葵はその言葉を、もう一度読み返した。


術者自身が変容すること。


「5——意図が明確なとき、現実は意識に応答する」


「曖昧な願いは曖昧な結果しか生まない。魔法の発動において、意図の明確さは威力や精度よりも根本的な条件だ」


アーデルはそこで少し間を置いた。


「ここまでで質問は」


数人の手が挙がった。アーデルは一つひとつ、丁寧に答えた。葵はその様子を見ながら、ノートに書き留め続けた。


―――――――――――――――――――


「6——等価交換なき魔法はなく、均衡を乱すものは還される」


アーデルが黒板に「6」と書いた。


「カバラのティックン、ウィッカの三倍の法則——与えずに得ることはできない。魔法的行為は必ず等価の交換を伴う。均衡を乱したものは、必ず何らかの形で還ってくる」


教室がしばらく静かになった。


葵はノートにその言葉を書き留めながら、なんとなく手が止まった。


等価交換。


「先生」


手を挙げたのは、葵の二つ隣に座っていた生徒だった。黒髪の、落ち着いた顔立ちの女子生徒だ。


「契約神魔との契約にも、対価は必要なんですか」


アーデルは少し間を置いた。


「必要だ」


短く、はっきりと答えた。


「契約の代償は、神魔の格によって変わる。低位の神魔であれば魔力のみで済む場合が多い。中位になると魔力に加えて誓約や約束が必要になる。高位の神魔との契約では——魂の一部、あるいは人生そのものが代償になることもある」


教室がざわついた。


「魂の一部、というのはどういう意味ですか」


別の生徒が続けた。アーデルは少し考えてから答えた。


「文字通りの意味だ。高位の神魔との契約は、術者の魂に刻まれる。それは消えない。契約が終わっても、その痕跡は残る」


葵はノートを見ていた。


——等価交換。


ライラとの契約は、八歳のときだった。颯が海に落ちて、葵が必死に叫んで、気づいたらライラが現れていた。


——あの子を助けたいなら、私と契約して。


葵は答えていた。言葉の意味もわからないまま。ただ颯を助けたい一心で。


あのとき、葵は何を差し出したのだろう。


ライラはピクシーだ。高位の神魔ではないから、魔力だけで済んでいるはずだ。そう思っていた。でも——あのとき八歳の葵に、そんな計算ができていたはずがない。ただ頷いただけだった。


じゃあ——対価は、何だったんだろう。


胸元でライラが、わずかに揺れた。


葵は気づいた。でもライラは何も言わなかった。


葵はノートに視線を戻した。アーデルはすでに次の説明に移っていた。


「契約は術者が選ぶ場合もあるが、高位の神魔との契約は神魔側が人間を選ぶ。魂の器が相応に大きくなければ、そもそも契約できない。格の高い神魔と契約している者は、自分が選ばれた理由を考える必要がある」


葵はその言葉を聞きながら、胸元に手を当てた。


ライラの温かさが、そこにあった。


―――――――――――――――――――


「7——象徴はそれ自体が力であり、命名は創造に等しい」


アーデルが黒板に「7」と書いた。


「ルーンの各文字、タロットの各アルカナ——象徴はそれが指し示すものと照応によって繋がっている。名前・図形・色は実在との接続点だ。そして——名前をつけるという行為は、存在を定義することに等しい」


葵はペンを持ったまま、少し止まった。


命名は創造に等しい。


「先生」


また別の生徒が手を挙げた。


「名前をつけることが創造に等しいというのは、名前がない存在は存在しないということですか」


アーデルは少し考えてから答えた。


「正確には——名前がない存在は、輪郭を持たない。名前とは存在を現実に固定するための楔だ。名前を得た瞬間、その存在は他のすべてから区別される。だから命名は創造に等しい、と言う」


葵はその言葉を聞きながら、胸元に手を当てた。


ライラ。


あのとき——八歳の夏、颯を助けてもらった後、葵は目の前の小さな光に聞いた。名前はあるか、と。


光は、迷わず答えた。


——ライラ。


自分でそう名乗った。葵はそのとき、当たり前のように受け取った。名前があるなら、それがこの子の名前だ、と。


でも——命名は創造に等しいなら。


ライラにとって、ライラという名前はどういう意味を持つのだろう。


誰かにつけてもらったのか。それとも——自分でつけたのか。


そういえば、聞いたことがなかった。


「名前をつける側にも、代償はありますか」


気づいたら、声が出ていた。


教室の視線が葵に向いた。葵は少し驚いたが、アーデルはいつも通りの静かな目で葵を見た。


「どういう意味だ、小春」


「命名が創造に等しいなら——名前をつけることで、つけた側の何かも変わるんじゃないかと思って」


アーデルは少し間を置いた。


切れ長の目が、葵を静かに見ていた。


「鋭い問いだ」


それだけ言って、アーデルは黒板に向き直った。


「命名は双方向だ。名前をつけた側も、その存在と照応によって繋がる。名付け親と名を持つ者は、象徴の原則によって結ばれる。これが契約の根底にある原理の一つでもある」


葵はその言葉をノートに書き留めた。


手が、少し震えていた気がした。


胸元でライラが、静かに揺れた。


いつもの揺れ方とは、少し違った。


何かを言おうとして——やめた。


そういう揺れ方だった。


―――――――――――――――――――


授業が終わった。


生徒たちが教科書をしまい始める中、葵はしばらくノートを見ていた。七つの誓約が書き連ねてある。6番と7番のところだけ、少し文字が乱れていた。


「小春」


顔を上げると、アーデルが葵の席の前に立っていた。


「今日の問い、悪くなかった」


それだけ言って、アーデルは次の生徒の方へ歩いていった。葵は少し呆然としてから、鞄を持って立ち上がった。


廊下に出ると、生徒たちが流れていく。葵は人の流れから少し外れた窓際に寄った。


「ライラ」


「なに」


「ライラって——誰かにつけてもらった名前? それとも自分でつけたの?」


胸元で、ライラが少し間を置いた。


「……自分でつけた」


葵は少し驚いた。


「自分で?」


「うん」


「なんで、ライラにしたの」


また間があった。今度は少し長かった。


「……夜、葵を見ていた時にね」


「見ていた?」


「うん。葵を見守るように、星があったの。柔らかくて、きれいな星。私、あの星みたいになりたいと思って」


葵はしばらく、その言葉を聞いていた。


「それで、ライラにしたの?」


「そう。ライラって、夜っていう意味があるから」


「……知らなかった」


「葵が知らなくても、私が知ってればいい」


葵は窓の外を見た。昼間の青い空が広がっている。夜の星は、今は見えない。


「その星、今も見える?」


ライラはしばらく黙っていた。


「……わからない。でも——」


光が、温かく揺れた。


「今は、葵がいるから」


葵は何も言わなかった。ただ、胸元に手を当てた。


ライラの温かさが、静かにそこにあった。


―――――――――――――――――――


午後のスタディホールが始まる頃には、葵はすっかりいつもの調子に戻っていた。


待ち合わせ場所に行くと、すでにエリサベットが席についていた。葵が近づくと、顔を上げた。パッと表情が明るくなった。


「来たわね。じゃあ行くわよ」


立ち上がりながら言った。嬉しそうだった。耳が少し赤かった。


「あ、少し待っていてもらえますか」


「え?」


エリサベットが不思議そうな顔をした。


「もう一人来るので」


「……もう一人?」


エリサベットは首を傾けた。葵はドアの方を見た。


ちょうどそのとき、茜がやってきた。葵を見つけて、まっすぐ近づいてくる。そのまま葵の隣に立って——エリサベットに気づいた。


静かな目が、エリサベットを捉えた。


「葵」


「うん」


「……誰?」


声のトーンは変わらなかった。でも——空気が、少し変わった。


エリサベットが一瞬、体を固めた。


「あ、えっと——」


「エリサベット・ノルドストロムよ」


エリサベットが答えた。声が、少しだけ上ずっていた。


茜はしばらくエリサベットを見ていた。それから葵を見た。


「一緒に行くの?」


「うん。三人で」


茜はまたエリサベットを見た。エリサベットも茜を見た。


しばらく、誰も何も言わなかった。


葵はそっと胸元に手を当てた。


——大丈夫かな。


ライラは何も言わなかった。ただ、温かく揺れた。


「……わかった」


茜が静かに言った。それだけだった。


エリサベットは小さく息を吐いた。


「じゃあ、行くわよ」


今度は少し声が低かった。


三人で廊下に出た。エリサベットが葵の右側に、茜が左側に、自然と並んだ。二人の間に挟まれながら、葵は今日の目的を頭の中で確認した。ヴァルハラ・アームズのインターン参加条件——70層ボスの素材。そのためにはまず、もっと深く潜る必要がある。


「今日はどこまで行くつもり?」とエリサベットが聞いた。


「できれば40層より下まで」


「随分と欲張りね」


「急ぎたい理由があって」


エリサベットは少し間を置いてから、葵を見た。


「……わかった。ついていってあげる」


茜は何も言わなかった。ただ、葵の隣を歩き続けた。


三人でスタディホールの時間を使って、転移ゲート室へ向かった。

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