第74話 魔脳晶
家庭教師が終わって、オリビアの部屋から戻った。
明日はエリサベット先輩の誕生日会がある。クッキーを焼くなら今夜しかなかった。
「ライラ、クッキー作ろう」
ライラが胸元から飛び出した。「……私が指示する」
「また仕切り役だね」
「……うん」
満更でもなさそうだった。
天龍集団のネットスーパーで材料を注文してあった。小麦粉・バター・砂糖・卵。アイシング用の粉砂糖も用意してあった。
「……バターを柔らかくして」
「うん」
「……砂糖を混ぜて」
「うん」
ライラの指示に従いながら、生地を作った。冷蔵庫で休ませてから、型で抜いた。花の形・星の形・丸い形。
「……どの形がいい?」とライラが聞いた。
「エリサベット先輩に似合いそうな形がいいね」
「……じゃあ花」
葵は花型を多めに抜いた。オーブンに入れた。焼き上がりを待つ間、アイシングを作った。
いいにおいがしてきた。
オーブンから取り出すと、きれいな焼き色がついていた。ライラが鼻をひくつかせた。
「……いいにおい」
「食べる?」
「……うん」
アイシングを細く絞って模様をつけた。ライラが「……そこ、もう少し右」と言った。葵はその通りにした。
「……完成」
ライラが満足そうだった。
そのとき、壁の穴からオリビアが顔を出した。薄いピンクのパジャマを着ていた。
「……いいにおいがして」
「クッキーを焼いていました。食べますか」
「……はい、食べます」
オリビアが穴をくぐってきた。パジャマの裾がわずかに持ち上がった。薄い生地がお腹のあたりをやわらかく包んでいた。丸みを帯びた輪郭が、生地をほんのりと押し返している。
葵はクッキーを皿に乗せてオリビアの前に置いた。
オリビアが花型のクッキーを一枚手に取った。上品に一口かじった。咀嚼しながら、目が少し細くなった。
「……おいしいです」
「よかったです。明日、誕生日の先輩にお渡しするので」
「……そうですか」とオリビアは言った。もう一口かじった。
「……葵くんが作ったもの、きっと喜ばれますよ」
「そうだといいんですが」
オリビアがもう一枚手に取った。今度は星型だった。また目が細くなった。パジャマの裾がまた少し持ち上がった。
「……ありがとうございます、葵くん」
「こちらこそ」と葵は言った。
オリビアが穴をくぐって戻っていった。
ライラが胸元でかすかに揺れた。「……嬉しそうだったね」
「うん」と葵は言った。
アーデルに渡す分を残し、クッキーを缶に入れた。
明日持っていく準備ができた。
ーーーーーーーーーーーーーー
授業が終わって、スタディホールの時間になった。
蒼玲がテーブルの上に小さな箱を置いていた。透明感のあるクリスタルのような粒が並んでいた。光に当たると、ほのかに青紫に輝いた。パッケージには「魔脳晶」と書いてあった。脳が活性化しているような図案が描かれていた。
「試験前のプレゼントよ」と蒼玲が言った。にっこりしていた。
カヴィヤが箱を覗き込んだ。少し眉をひそめた。何も言わなかった。
葵は一粒手に取った。口に入れた。
冷たいミントのような香りが、爆発的に広がった。頭の中が一瞬でクリアになった気がした。噛んだ。中から液体が出てきた。甘かった。さらに噛むとパウダーが出てきて、今度は少し酸っぱかった。
食べ終わると、不思議な感覚が続いた。リラックスしているのに、頭が冴えていた。ノートを開くと、文字がすっと頭に入ってきた。
颯が一粒食べた。しばらくして、突然ノートに向かって問題を解き始めた。ペンが止まらなかった。
葵は蒼玲の方を見た。
「……合法よ」
蒼玲が微笑みながら先に言った。
——脱法じゃないですよね。
葵は内心でそう思った。
そのとき、カヴィヤが立ち上がった。
「……ちょっといいですか」
穏やかな声だった。ただ、いつもより少し低かった。
カヴィヤが手をかざした。淡い光が広がった。異常回復魔法だった。
葵の頭の中から、さっきの感覚がすっと消えた。颯のペンが止まった。
「蒼玲さん」とカヴィヤが言った。
「試験前に生徒にこういうものを配るのは、ちょっとよくないと思います」
笑っていた。ただ、目が笑っていなかった。
蒼玲が少し止まった。「……そう、ね」
珍しく、気圧されていた。
アリアが箱をじっと見た。「……いいね、これ。箱で頂戴」
蒼玲が「さすがアリア」と言った。少し表情が戻っていた。
二人がカヴィヤを見た。カヴィヤがにっこりしたまま二人を見ていた。
「魔脳晶は今日限りにしましょうね」
蒼玲が視線を逸らした。アリアが小さくため息をついた。
葵は一部始終を見ていた。
颯が「……なんだったんだ」と小声で言った。
葵はノートを開いた。魔脳晶の効果は消えていた。
——普通に勉強しよう。
しばらくして、蒼玲が葵の隣に来た。「そろそろ行く時間よ」
エリサベットの誕生日会だった。葵は鞄からクッキーの缶を確認した。ちゃんと入っていた。
ライラが胸元でかすかに揺れた。
「……緊張してる?」とライラが聞いた。
「……喜んで貰えるかな」と葵は言った。
「……大丈夫」
葵は鞄を持って立ち上がった。




