第71話 そっと閉じ込める
放課後、ピアサポートの教室に向かうと、蒼玲が来ていた。
机の上に箱が積まれていた。派手だった。深紅と金色のパッケージに、龍の図案が躍っている。天龍集団のロゴが大きく入っていた。
「量子奇脆よ」と蒼玲が言った。「天龍集団の新商品。試験前の脳活性化に最適だと言われているわ」
「……量子、ですか」
「細かいことは気にしなくていいわ。配りなさい」
葵は箱を一つ手に取った。ずっしりしていた。
生徒たちに配り始めた。セレンが無言で受け取った。カヴィヤが「かわいいパッケージね」と言った。アリアは無言で袋を開けた。
葵も一つ開けてみた。
中身は繊細な糸状のお菓子だった。エンジェルヘアーチョコのように細い糸が絡み合っている。一口食べた。
ザクザクとした音が口の中に広がった。咀嚼するたびに、味が変わった。
最初は甘じょっぱかった。次の瞬間にフルーティーになった。さらに噛むとスパイシーになった。
——おいしい。
ただ、何味なのかが全くわからなかった。次に何の味が来るのかもわからなかった。ただ、手が止まらなかった。
「……このお菓子、すごい」
思わず声が出た。
アリアが「……量子的な味の変化」と真顔で言った。カヴィヤが笑い出した。セレンが黙ってもう一袋開けていた。
食べ終わってから、裏面のカロリー表示を見た。
葵は少し止まった。
「……先輩、これ一袋で」
「細かいことは気にしなくていいわ」と蒼玲が言った。にっこりしていた。
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ピアサポートが終わって教員寮に戻った。
壁の穴からオリビアに声をかけた。「今日はアーデル先生が遅くなるそうで」
少し間があった。
「……料理、手伝います」
葵は少し止まった。「……いいんですか」
「……はい」
オリビアがすぐに穴をくぐってきた。エプロンを持っていた。用意がよかった。
「何を作りましょうか」と葵が聞いた。
オリビアが少し考えた。「……葵くんが作りたいもので」
「チキンシチューはどうですか」
「……はい」
二人でキッチンに立った。
オリビアは料理が得意ではなさそうだった。葵が鶏肉と野菜を切っていると、隣でオリビアがぎこちなく玉ねぎを剥いていた。眼鏡が少し曇っていた。
「……先生、目は大丈夫ですか」
「……平気です」
平気ではなさそうだった。
葵がそっと交代した。オリビアが「……すみません」と小さく言った。
「じゃあ、かき混ぜてもらえますか」
「……はい」
オリビアが鍋をかき混ぜ始めた。真剣な顔だった。葵は横目でそれを見ながら、材料を鍋に加えていった。
しばらく無言で作業が続いた。悪くなかった。
「……葵くんは」とオリビアが言った。「料理、いつから覚えたんですか」
「小さい頃から、少しずつ」
「……そうですか」
オリビアがかき混ぜながら、葵をちらりと見た。目が少し細くなった。すぐに鍋に視線を戻した。
シチューが出来上がった。二人で皿に盛った。テーブルに並べた。
「……いただきます」
二人で食べ始めた。オリビアが一口食べた。少し間があった。
「……おいしいです」
「ありがとうございます」
「……葵くんが作ると、なんでもおいしくなりますね」
葵は少し止まった。「……オリビア先生がかき混ぜてくれたので」
オリビアの耳が赤くなった。それ以上は何も言わなかった。
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食事が終わった。葵が皿を洗った。オリビアは穴の向こうで待っていた。
葵が穴をくぐると、オリビアがすでにノートを開いていた。
「……今日は契約説法をやりましょう」
「はい」
「試験範囲は三大法則の基礎です。照応の法則・極性と調和の法則・変容と循環の法則——この三つが中心になります」
葵はノートを開いた。
説明が始まった。照応の法則から入った。
「……上の如く、下も然り、という言葉を聞いたことはありますか」
「……授業で少し」
「……そうですね。星の動きと地上の出来事が同じ原理で動いている——魔法の実践はこの考え方を前提にしています。ある次元への働きかけが、別の次元に響く」
葵はノートに書き込んだ。
「……契約神魔との関係も、この法則と繋がりますか」
オリビアが少し止まった。
「……繋がります。契約者と神魔が照応することで、力が安定する。格が高い神魔ほど照応の深さが求められる」
葵はペンを止めた。「……照応の深さというのは、どうやって測るんですか」
オリビアがまた少し止まった。今度は少し長かった。
「……それは」とオリビアは言った。
「アーデル先生の部屋にある本に詳しく載っているはずです。今日持ってくればよかったんですが……」
「……取りに行きましょうか」
「……一緒に行きましょう」
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本棚に向かった。オリビアが背表紙を一つずつ確認し始めた。葵も反対側から探した。それらしい本が見当たらなかった。
「……私室の方かもしれません」とオリビアが言った。
葵は奥の扉を開けた。二人で入った。
本棚が一つあった。オリビアが背表紙を確認し始めた。葵は部屋の隅に目をやった。
そのとき、音がした。
オリビアが本棚に手を伸ばした拍子に、細い本が滑り落ちた。
「……すみません」
オリビアがしゃがんで拾おうとした。葵が先に拾った。
薄い詩集だった。
開いたページに目が止まった。翻訳デバイスが自動で動いた。
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無詠唱の灯
人形のように愛らしい横顔が
詠唱を捨て、純粋な光を呼び起こす。
私の足は石のように凍りつき、
灰色の瞳は、ただ見つめてしまうばかりだった。
あってはならない——
こんな禁断の震えを胸に感じるなど。
なのに、自然に溢れ出す魔力の流れと、
柔らかなまつげの下の、あの静かで深い瞳……
私の魂の奥深くで
古い氷が、静かに、密やかに溶け始めた。
……なんて恥ずかしい。
この密かな想いを、
今日も記録には残さず、
そっと胸の奥に閉じ込める。
夜の闇に潜む、禁断の灯のように。
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葵は少し止まった。
——抽象的だな。
誰かのことを書いたのだろうとは思った。ただ、それ以上はよくわからなかった。隣のページを見た。
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侮辱の光
柔らかな影が立ち上がり、
愛らしい瞳が、期待をそっと輝かせて
扉をくぐったというのに——
冷たい言葉が、君を切り裂いた。
可憐で柔らかな頰が凍りつき、
長いまつげが伏せられても、
君は静かに耐え、
余計な色をすべて落として
ただ、澄んだ冷静さで立ち尽くした。
私は廊下で待っていた。
淡々と、短い言葉を返すだけだったけれど、
胸の奥で、灰色の湖が小さく乱れた。
あってはならない——
あの子の傷に
こんな禁断の震えを抱くなど。
なのに、あの無詠唱の光と同じように、
君の静かな強さと、優しさが
私の心を、静かに、熱く焦がす。
……なんて恥ずかしい。
この密かな震えを、
今日も記録には残さず、
そっと胸の奥に閉じ込める。
深い夜に潜む、禁断の灯のように。
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——よくわからない。
葵は詩集をそっと閉じた。落ちた場所に戻した。
オリビアが本棚を探し続けていた。しばらくして「……ありました」と言った。厚めの装丁で、背表紙に「契約照応論」と書かれていた。
二人で部屋を出た。
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穴をくぐってオリビアの部屋に戻った。
オリビアが本を開いた。目当てのページを探した。
しばらくして「……ありました」と言って葵の方に向けた。
「……照応の深さというのは、契約者と神魔の間にどれだけ共鳴が生まれているかということです。ここに詳しく書いてあります」
葵はページを覗き込んだ。
「……つまり、長く一緒にいるほど深くなる、ということですか」
「……そうです。ただ、契約してからの時間だけではなくて」オリビアがページをめくった。
「……どれだけ本質的な部分で繋がっているかも関係します」
葵はノートに書き込んだ。
——ライラとの繋がりは、これに当たるのかもしれない。
そう思ったが、言葉にはしなかった。
「……葵くんはライラさんとは」とオリビアが言った。
「ずいぶん長い付き合いなんですよね」
「……8年間ずっと一緒です」
「……そうですか」
オリビアが少し間を置いた。「……人生の半分以上、一緒に居たことになるので、照応はかなり深いはずです」
葵はノートを見た。8年という時間が、こういう形で意味を持つとは思っていなかった。
一通り終わると、オリビアが予想問題をノートに書いた。
「……明日までに解いてきてもらえますか」
「はい」
「……おやすみなさい、葵くん」
「おやすみなさい、先生」
壁の穴をくぐって自分の部屋に戻った。机の上に予想問題を置いた。
ライラが胸元でかすかに揺れた。
「……照応が深いって、どんな感じがするんだろう」と葵は言った。
「……今と同じ感じ」とライラは言った。
目を閉じた。




